シェリルーの力
タイズの街へ戻った頃には、すでに陽がすっかり暮れていた。
シェリルーが帰って来たことを知ると、リトリーが迎えに出て来る。
「もう今日は帰って来ないと思っていたよ。大丈夫なのかい、みんなくたびれた格好だけど」
最後に水の中へ入ったため、服がしわだらけになっているのを見て言ったらしい。
「それより、おばあちゃん。彼の具合はどう?」
自分のことより、今はニルケのことだ。
「ああ。あの人なら、熱はすっかり下がってるよ」
普通ならこの言葉に安心するのだが、シェリルーは血の気が引いた。熱が下がったというのは、今の場合は体温がなくなりつつあるということ。
リンネ達とメイナは、ニルケのいる部屋へ駆け込んだ。
ベッドで横たわるニルケの顔は、青ざめていた。リンネがベッドの中の手に触れる。ニルケの手は冷たくて、人形か何かみたいに感じた。
だが、ニルケはかすかに息をしている。死んでしまったのではない。どうにか間に合ったのだ。
「シェリルー、お願い」
まだちゅうちょしているような様子を見せるシェリルーに、リンネは彼女の腕を掴んだ。
「ニルケが助かるなら、自分はどうなってもいいって言ったでしょ。だったら……ニルケの目を覚まして。お願い」
「……」
シェリルーは黙ったまま、リンネを見詰め返す。
「あたし達、部屋の外にいるね」
シェリルーの手を離すと、リンネはダルウィンやカードと一緒に部屋を出た。扉の閉まる音がシェリルーの耳に入る。
ゆっくりとニルケのそばへ行き、シェリルーはベッドの横にひざまづいた。
そっと手を取り、その冷たさに驚く。脈も薄い。ジルドーとの掛け合いがもっと長引けば、ニルケは本当に命を落としていたかも知れない。そう思うとゾッとする。
自分の鼓動がはっきりと耳に届いた。緊張のために手足の先が冷たくなり、腕がかすかに震えている。手足の分の血液が顔に集中してしまったように、急激に熱くなってきた。
シェリルーが命を流し込めばいいの
メイナの言葉が頭によみがえる。
かぁんたんよ。シェリルーがニルケにキスするだけでいいの
メイナの言い方は、本当に「かぁんたん」そうだ。
そうよ、簡単よ。だって、それだけでニルケは元に戻れるんだもの。簡単、よ……。
本当はちっとも簡単じゃない。でも、やらなければ。ニルケを助けられるのは、自分だけなのだと言い聞かせる。
しばらくニルケの姿を見詰めていたシェリルーだったが、やがてそっと自分の顔を近付けた。
冷たいくちびるが触れると、急に今まで以上に胸が熱くなる。
それは激しい鼓動のせいだけではなかった。熱い何かが、本当に胸の中から駆け上がって来るような感覚。
その何かは、シェリルーからニルケの方へと走り抜けて行く。
きっとニルケの魂なのだろう。だが、誤ってシェリルーの口に入ってしまった時とは違い、生命力が伝わる。全く違うものみたいだ。
それだけジルドーに傷付けられたために弱り、今はシェリルーの中でその傷が回復したということなのだろう。
熱いものが完全に自分の中から抜けたと確信して、シェリルーはくちびるを離した。
改めて胸が高鳴る。今まで以上に恥ずかしくなって、さらに赤くなってしまう。
同時に、ちゃんとニルケの魂は元の身体へ戻ったのだろうか、という不安があった。
今はメイナもリンネ達と一緒に部屋の外へ出ている。誰かに確かめることもできない。自分の感覚を信じるしかなかった。
もし、これでニルケが戻らなければ。
怖かった。魂がちゃんと身体に戻れず、自分の中に残ったままで、やがて身体は限界を迎えて死に至る……。そんなことになったら、と悪い方に考えると怖い。
「え……」
ふいにニルケのまぶたが動いた気がして、シェリルーは顔を近付けた。
「ニルケ……ニルケ?」
見間違いかと思った次の瞬間、確かにニルケのまぶたは動いていた。
やがて、ニルケが薄く目を開く。わずかだが、緑の瞳が現れた。
「ニルケ? ニルケ、私がわかる?」
手を強く握り、シェリルーは目を覚ましかけているニルケに声をかけた。
本当なら、今ここで叫びたいくらいだ。しかし、そんなことはできないし、実際にはお腹に力が入らないのでささやく程度の声しか出なかった。
「シェ……ルー……?」
かすれてはいたが、ニルケは確かにシェリルーの名前を呼んだ。彼の緑の瞳がゆっくりと動き、こちらを見る。
「そう。シェリルー。もう大丈夫よ。私も……リンネ達もみんな、無事です」
目覚めたばかりでどこまで理解できるかはともかく、シェリルーは全てが終わったことを告げたかった。
「……が……とう……」
声にならない部分もあったが、ニルケは確かに「ありがとう」と言った。そして、すぅっと再び目を閉じる。
それを見た途端、シェリルーは全身の血がなくなったような気がした。
「ニ……ニルケ? ニルケ?」
シェリルーは彼の手を強く握った。間に合わなかったのだろうか。一時は戻ったものの、もう魂が入っているには身体の生命力が足りなくなってしまって……。
シェリルーの呼び掛けにも、ニルケが目を開けることはない。
「いや……いやよ、そんなの……ニルケ」
このまま逝くなんていや。あなたがいなくなるなんて、そんなの嘘だわ。だって、私を助けに来てくれたあなたに、私はまだちゃんとお礼も言ってないのよ。ありがとうなんて、ありがとうなんて……あなたの言うべき言葉じゃないわ。私があなたに言わなきゃいけないのに。メイナは命を流し込むって言ったのよ。これじゃ、まるで私が命を吸い取ったみたいじゃない。駄目よ、目を開けて。もう一度、私の名前を呼んで。お願い、ニルケ。
小刻みに震え、今度こそ叫んでニルケの名前を呼ぼうとした時。
シェリルーはニルケの呼吸音を聞いた。彼の手の脈を感じた。
「……ニルケ?」
それはさっきまでとは違い、しっかりしたもの。決して死に向かう人のものではない。わずかながら、顔色も赤みを取り戻している。
「違うの……? 違うのね?」
命が失われたのではない。ニルケは魂の疲れを癒やすために、眠りに入っただけだったのだ。
シェリルーは安心したと同時に、涙がこぼれ出すのを止められなかった。気が抜けて床に座り込んでしまう。彼の手はしっかり握ったままで。
「ニルケ……」
握った彼の手が、温かくなってゆく。
それは、シェリルーにとってこの上ない喜びだ。愛する人が、命を取り戻しつつある。
知らず、シェリルーはニルケの手に頬ずりをしていた。さっきまでの冷たさが嘘みたいだ。
心配してリンネ達が部屋へ入って来るまで、シェリルーは泣きながらニルケの手を握り続けていた。
☆☆☆
「なぁんだ、つまんない。何も覚えてないなんて」
「そう言われても……。自分の意思でどうこうできることじゃありませんから」
次の朝。リンネは、ニルケが目覚めるまでのことをまるで覚えていない、と聞いて露骨につまらなそうな顔をする。
ジルドーに付けられた魂の傷は、身体に現れることは一切なかった。シェリルーのおかげで、全てが癒やされていたらしい。
メイナはシェリルーの想いがニルケを癒やすと話していたので、いやでもシェリルーの強い想いがわかったろう、とからかってみたかったのだ。何も覚えていない相手をからかっても、全然面白くない。
ニルケの足の傷は、リトリーがつけてくれた薬がよく効いたようで、ずいぶんよくなっていた。歩く時もそれ程不自由はしていない。
「魂は想いが染み込むことはあっても、記憶はできないのよ」
つまらなそうなリンネに、メイナが説明してくれた。
「ふーん。心配した分、色々と聞いてやろって思ってたのにな」
「それを言うなら……リンネ。これまでぼくが心配した分、色々と言いたいことが山のようにありますよ」
「はは、リンネの負け」
「リンとニルケじゃ、騒動を起こす数が違うよ」
誰も味方のいないリンネであった。
「ね、メイナ。あの木の精霊に会いに行きたいわ。ちゃんとお礼は言わなきゃ」
形勢不利になったので、リンネはさっさと話題を変えた。
「そうね。みんな解決したんだし。あ、ニルケはいいわよ」
同じように立ち上がろうとしたニルケを、メイナは止めた。
「しかし、ぼくのために動いてもらったようなものですし」
「それはちゃあんと私から言っておいてあげるわ。いくら痛みがないからって、山へ行くのはまだつらいでしょ」
確かに足の傷はほとんど痛まないが、ずっと眠っていたこともあって、身体はまだ十分に言うことをきいてくれない。
「こっちはあたし達に任せて。ニルケはシェリルーの面倒を見てあげてよ。今回、シェリルーが大活躍だったんだから。それを見逃したんだから、ニルケも気の毒よねぇ」
シェリルーは、部屋へ入って来たリンネ達にニルケの無事を伝え、そのまま気を失うようにして眠ってしまった。緊張が重なり、あの力の放出によって疲れ切っていたのだ。
それからずっと、彼女は自分の部屋で眠り続けている。
「確かに、あの時のシェリルーはすごかったな。俺は彼女の普段の魔力がどんなものか知らないけど、あれはすごいって感じた。普通の人間の俺でも、魔力の気配みたいなものがわかったくらいだから」
ダルウィンまで同調する。
「違う魔法使いみたいだったぜ。オレ、これからシェリルーは怒らせないようにしよっと」
口々に言いながら、リンネ達はまたミコバの山へ行くべく、部屋を出て行った。
「ぼくが目を覚ますと、いつもからかわれるような……」
彼らを見送り、ニルケは一息つく。
自分が動けなくなった後の話を聞いたニルケとしては、シェリルーの状態が気になるところではある。
だが、眠っている女性の部屋へ行くという訳にもいかない。まだ本調子ではないこともあり、ゆっくりと庭を散歩しながら待つことにした。
が、庭を出るとすぐに、シェリルーの声に呼び止められる。
「ニルケ、もう起きて大丈夫?」
駆け寄って来ると、シェリルーは一番にそれを尋ねた。
「それはあなたも同じでしょう、シェリルー。具合は悪くありませんか? かなり大量の力を放出したと聞きましたが」
「あ、それは……もう平気です。自分でもわからないうちに使った力だから、あまり実感がなくて」
思い返してみると、あれが普段失敗ばかりしている自分の魔法なのかと疑いたくなる。必死に攻撃魔法を繰り出しても、いつもなら壁の一部を少し焦がす程度でしかないはずなのに。
「洞窟を崩した、とリンネが自分のことのように話していましたよ。大きさはぼくにはわかりかねますが、どんな広さの洞窟にしろ、相当の力がいるでしょう」
「でも……ほら、よく言うでしょ。火事場の莫迦力って。それです」
リンネがいれば、助ける相手がニルケだから莫迦力が出たのよね、とでも言いそうだ。
「メイナがいてくれて、かろうじて魔物の攻撃に対処できました。ジルドーの居場所だって、メイナが来てくれなければ私だけだとどうしようもなくて」
捜そうとがんばった。それでも、洞窟の場所まではわからなかった。
悔しくて、同時に悲しかった。あまりの下手さ加減に。やっぱり自分は魔法使いには向いていないのかも知れない。
「今思ったんですが」
ニルケが口をはさむ。
「シェリルーは力を出し惜しみしていませんか?」
「出し惜しみ?」
シェリルーが首を傾げる。
「ああ、これは言い方が悪いですね。出し切っていない、控え目にしている」
「だけど、私には出し切る程の力なんて」
「確かに、魔力の強さは個人差があります。そういうこととは関係なく、自分が持てる力の中で、それを出せていない。シェリルーの場合、失敗するのでは、という先入観のために力が中途半端にしか出せずにいて、結果的にその力はまっすぐに行くべきものが曲がってしまう、というように」
「先入観がある、というのは当たってますね。必ずと言っていい程、失敗しますから」
そう言って、シェリルーが笑う。その笑みはどこか悲しげだった。
「失敗なんて、誰もがすることです。シェリルーは続いてしまったために、失敗に対する恐れのようなものが生まれ、それが悪循環になっているんでしょう。気にしていては、先へ行けませんよ」
ニルケに言われると、そうだろうか、と思ってしまうシェリルー。
「でも、うまくいったところで、そんなに力もないし」
「シェリルーは魔法が好きだから、魔法を使うんじゃないんですか? それなら、あきらめることはありませんよ。それに、いくら莫迦力だったとは言え、洞窟を崩すなんて簡単にはできませんからね。ぼくはシェリルーに力がないなんて思いませんよ」
「本当に?」
少し頬を赤らめて聞き返すシェリルーに、ニルケは頷いてみせた。
庭で熱心に話し込む二人を通り掛かったリトリーが見付け、家の中へ戻るとキーシャンを呼んだ。仲よく話をする孫娘と彼の話を、夫に語って聞かせる。
それから、最後に嬉しそうに付け加えた。
「来年かさ来年には、ひ孫の顔が見られるかもねぇ」





