第九話 神龍教
仕事を適当なところで切り上げたアミティーは、ミケと二人で聖龍教会へ向かった。
亡命がうまくいくよう、神龍に祈るためだった。
こうなったら、頼みの綱は神だけだ。
教会前の石畳には、今日も長い列ができている。
入口脇の小窓には、神青の札を求める人々が肩を寄せ合い、順番を待っていた。
「相変わらず、すごい人」
思わずアミティーは息をのんだ。
「青札待ちですね」
「そんなに何枚も必要なの?」
「寄付金額によって渡される札が違うのです。平民向けの札は、色が薄くて……褪せるのも早いので」
改めて列へ目を向けると、すでに灰色へくすみ始めた札を握っている者も多い。
もとは青だったのだろう。
だが今は、くすんだ布切れのように乾いた色へ変わり果てていた。
「安価な染料なのでしょう。市井には本物の青染料は出回りませんし、比べる機会もありませんから」
ミケはそう言って肩をすくめた。
――青を持つ者は、神龍の加護を授かる。
幼い頃から、何度も聞かされてきた教えだ。
だからこそ、人々はその青を求め、列が途切れることはない。
先頭近くでは、子供を抱いた女が、擦り切れた袋から取り出した硬貨を数えていた。
「寄付の金額で……加護まで変わるんだ」
「お嬢様?」
「……なんでもない。行こう」
アミティーは視線を逸らし、そのまま教会の中へ足を踏み入れた。
外の喧騒が嘘のように、教会の中は静まり返っていた。
だがどこかカビ臭く埃っぽい。
「これはこれは。ようこそアミティー様」
アミティーに気づいた神官が笑顔で近づいてくるも、その瞳には侮蔑の色が滲んでいた。
「ここは神聖な神青の場です。色褪せた青などがお越しになる場所ではございませんが……本日はどのようなご用件で?」
ニタリと笑う神官の首元や手には、派手な金の装飾品が光っている。
「祈りに参りました」
アミティーは表情を変えずにそう言うと、ミケに目配せして、神官へ寄付金の入った布袋を手渡した。
神官は鼻で笑いながら布袋を手の中で弄び、重さを確かめた。
「どうぞご随意に」
投げ捨てるように言って、布袋を胸ポケットに突っ込んだ神官は、それ以上アミティーに絡んでこなかった。
「多めに持ってきてよかった」
アミティーはほっと息を吐きながら、ミケとともに祭壇に近づく。
そこには、人の姿を取った神龍の石像が立っていた。
だがその足元には、供えられた花が枯れかけのまま放置されている。
壁には、大きな神青のタペストリーが掛けられている。
正当な神龍教の証であるそれは、深い青地に金糸の刺繍が施されていた。
しかしよく見れば、縁の糸はほつれ、虫食いや黄ばみが目立つ。
アミティーはそれを横目で見ながら、いつも使っている個室の祈りの間へと向かった。
低い軋みと共に扉を開けると、室内からむわっと淀んだ空気が流れ出た。
ミケが慌てて窓を開ける。
祭壇近くの花は、すっかり茶色く縮れていた。
花瓶からは腐った水の匂いが立ち込める。
「神官たちは、何をやっているのでしょうか!?」
ミケは怒りながら、祭壇の様子を見回した。
「……ひどいね」
アミティーは呟きながら長椅子に腰を下ろしたが、その拍子に周囲に埃が舞い上がり、軽いくしゃみを繰り返した。
見ると、長椅子の表面にはうっすらと埃がつもっており、手や足の跡がくっきりと残っている。
「大丈夫ですか?!」
ミケはハンカチを手に、アミティーへ駆け寄った。
「うん、平気。そんなことよりお祈りよ!」
アミティーは目を瞑り、両掌を合わせて早口に祈り始めた。
「どうか無事に総本山に行けますように。できれば、そのまま帰らなくて済みますように。どうか、どうか!!」
アミティーが一心不乱に祈っていたそのとき——
涼やかな音が、耳の奥で響いた。
アミティーは片目だけ開けて周囲を見回す。
ミケは特に気にした様子もなく、ぷりぷり怒りながら祭壇を拭いている。
「?」
気のせいだろうか?
アミティーが再び目を閉じようとしたとき、
チリーン。
再び耳の奥で澄んだ音色が響いた。
室内の空気がすっと冷え、アミティーは思わず肩を震わせた。
驚いて顔を上げると、祭壇の枯れた花が、ゆっくりと顔をもたげ始めていた。
「……え?」
一陣の風が吹いた。
——いや、違う。
風ではない何かが、自分のすぐ横を通り過ぎた。
アミティーは思わず目を閉じる。
しばらくして恐る恐る目を開けると、いつの間にか目の前に、長身の男が立っていた。
息を呑むほど美しいその姿に、アミティーは思わず見とれた。
彼のコバルトブルーの長い髪が、風もないのにゆらゆらと揺れている。
いつ入ってきたのだろう?
確かにこの部屋には、ミケとアミティー以外いなかった。
扉の軋む音すら聞こえなかった。
あまりにも不可思議なのに、なぜか警戒する気になれなかった。
むしろ、胸の奥から、懐かしい感覚が静かに溢れてくる。
アミティーはじっと男の瞳を見つめる。
すると男は切れ長の金色の瞳をゆっくりと細め、微笑みながらアミティーに手を伸ばした。
指先が届く寸前、アミティーは我に返り、すぐにミケの姿を探した。
だが不思議なことに辺りには誰もおらず、今更自分が何もない白い空間に立っていることに気づいた。
混乱しているアミティーの目の前に、いつの間にか男は跪いていた。
すぐ近くで見つめられた彼の瞳は、まるで星をちりばめたように輝いている。
「えっと、あの~どちらさまで……」
アミティーは尋ねたものの、名を尋ねる相手ではない気がした。
懐かしく、それでいて切ない気持ちになる。
アミティーがそんな感情を持て余していると、男は嬉しそうに彼女の手を取って、その甲に唇を寄せた。
「——待ってる」
耳元で囁かれた言葉にはじかれて顔を上げると、先ほどまで冷たく見えていた表情が、ふっと柔らかく崩れた。
アミティーの胸の奥に、何かが灯った気がした。
口から、知らない言葉が零れそうになった。
その感覚を逃がしたくなくて、男の顔をじっと見つめていると——
「さま、お嬢様!」
身体を揺らされて顔を上げると、ミケが心配そうに見下ろしていた。
「え? あれ?」
「お嬢様? お疲れなのでしたら、寮へ戻りましょう」
「……寮?」
きょろきょろ見回すと、教会の祈りの部屋だった。
いつの間に眠っていたのだろう。
アミティーは長椅子から立ち上がると、頭を掻きながら首を傾げた。
「なんか……夢、見たかも」
「夢ですか?」
「……うん」
ミケに促されるように祈りの部屋を出る。
光が落ち、ぱたりと扉が閉まった。
誰もいなくなった部屋で、枯れていたはずの花だけが、祭壇の傍らで瑞々しく咲いていた。




