第六話 アカデミーの日常
「ごきげんよう、アミティー様」
ひと仕事終えてアカデミーに登校したアミティーが、始業時間ギリギリに教室に入ると、シルビア・ウインター公爵令嬢が声を掛けてきた。
「あ……ごきげんよう」
アミティーは一瞬顔をしかめて舌打ちするも、すぐに表情を変えて笑顔で返す。
「体調はもう宜しいのかしら? まさか、今日も王城から登校されたのですか?」
「はい。昨日お休みをいただいた分の仕事がありましたので」
アミティーは口元に笑みを貼りつけたまま、当たり障りのない答えを返した。
「まあ、お可哀想。わたくしがカーサー様にお口添えしましょうか? あまり無理をさせないようにと」
「ありがとうございます。でも、きっと『もっと努力しろ』と言われるだけですので。……ぐぎぎっ」
奥歯を噛み締め、思わず唸り声が洩れそうになり、アミティーは慌てて口元を手で隠した。
「? そう。良い心掛けね。あなたとわたくしは育った環境が全く違うのだから、きっと何倍も努力しなければいけないのね」
シルビアは、ふんわりと笑いながら言った。
典型的な高位貴族であるシルビアのことを、アミティーはあまり好きではなかった。
だが、尊敬はしていた。
王子妃教育、公務や雑務、アカデミーでの勉強。
自分以上に多忙なはずなのに、シルビアにはいつも余裕があった。
自分はこんなにも、身も心も擦り切れているというのに。
「あら? どうなさったの?」
じっと自分を見つめるアミティーの視線に気づき、シルビアは優雅に小首を傾げた。
「……いえ。いつもお綺麗だな、と思いまして」
「まあ、ありがとう」
当然のように受け取るシルビアの笑顔は、見る者を魅了するほど美しかった。
艶やかな髪は一本たりとも乱れておらず、陶器のようにきめ細かい白い肌にも疲れの影は一切ない。
一方、アミティー。
久しぶりによく眠ったというのに、いまだカサカサでよれよれだった。
日々、多くの使用人たちが、惜しげもなくシルビアの身の回りを整え、美しく磨き上げているのだろう。
貧乏子爵家と侯爵家では、天と地ほどの差があるのだと、アミティーはしみじみ思った。
「お前、少したるんでいるんじゃないのか!」
自席に座り、鞄からテキストを取り出していると、頭上でケインの声が降ってくる。
相変わらずの声量だ。
アミティーは小さく舌打ちして立ち上がると、ケインの背後に立つカーサーに向けて頭を下げた。
「おはようございます、殿下。昨日はお休みをいただき、申し訳ございませんでした」
カーサーは軽く頷くものの、特に何も言わない。
代わりにケインが口を開いた。
「どうせ仮病だろう! そんな態度で、殿下の婚約者候補が務まると思っているのか!」
「そうですよ。身の程をわきまえて、辞退すべきではありませんか?」
ライルも加わり、いつもの調子で言葉を重ねる。
この二人、最低一日一回は文句を言わないと、死んでしまう病気にでもかかっているのだろうか。
アミティーは、本気でそう思った。
幼い頃から、彼らの言動は何一つ変わっていない。
――ふさわしくない。
――辞退した方がいい。
——努力が足りない。
彼らがアミティーを責めている間、カーサーは黙って微笑んでいるだけで、決して二人を止めようとはしない。
そしてアミティーは、ただ謝り続けるだけだった。
「申し訳ございません」
アミティーは視線を落とし、静かに頭を下げる。
心も感情もこもっていない。
ただの作業。
なんだったら、床の木目を数えていたりする。
教室のあちこちから、「また始まった」とでも言いたげな押し殺した笑い声が漏れる。
ざわつき始めた室内。
しばらくして、ようやくカーサーが一歩前に出た。
「アミティー。彼らの言葉も一理あるよ。体調管理も仕事のうちだからね。気を付けて」
同情とも嘲りともつかない視線で、アミティーに言う。
その瞳には、彼女を心配する色など欠片もなかった。
「はい。以後、気をつけます」
アミティーのがそう答えた途端、また小さな笑いが周囲に広がった。
シルビアは何も言わず、その様子を笑顔で眺めている。
これが、授業の前に繰り返される、毎朝の光景だった。
昼休み。
アミティーは、人気の少ない校舎裏に来ていた。
「はぁ〜!? 体調崩すほどの仕事を押し付けて! 嫌味ばっかり言って! な~にが『体調管理も仕事のうちだからね』だよ!」
アミティーはぎりぎりと歯噛みしながら、それでも声を殺して罵倒する。
本来の彼女は、大人しい貴族令嬢などではない。
物心つく頃から家族にはいない者と扱われ、まともな会話相手は侍女のミケだけだった。
平民であり孤児だったミケとの生活で、優雅でお上品な貴族令嬢が育つ訳がない。
「腹立つっ! 腹立つぅ!!」
体力がないために、すぐに肩で息をし始めたアミティーは、どさりと芝生に腰を下ろした。
「はぁ、疲れた」
騒いだせいで空腹を覚え、昼食用のサンドイッチを大口で頬張る。
「……おいひっ」
思わず言葉がこぼれた。
昨日から、何を食べても美味しい。
よく眠り、よく食べる。
それだけで、不思議と世界が明るく見えた。
だが、これまでまともに食事を取る時間がなかったせいだろう。
三口ほど食べたところで、自然と手が止まってしまった。
「ぬぅ……もう、お腹いっぱい」
溜息を吐きながら、包みを閉じて芝生に寝転がる。
木々の隙間から見える青空は、驚くほど澄んでいた。
教室の騒がしさが嘘のように、ここは静かだ。
「ああ……戻りたくない」
クラス全体を包む蔑む視線と、馬鹿にしたような笑い声が、耳の奥にいつまでも残っている。
カーサーの婚約者候補ということで、あからさまな嫌がらせを受けたことはない。
ただ、移動時間や教師からの伝言が他の生徒と噛み合わず、気づけば、自分だけ課題範囲が違っていることがそれなりにあった。
小さな違和感が積み重なるたび、じわじわと心が削られ、気づけば教室にいるだけで息が詰まるようになっていた。
それに追い打ちをかけるように、押し付けられる作業。
疲れ果て、考えることをすっかり諦めていた日々だった。
だが今は、なぜか力が有り余っている気さえする。
「はぁ……。どこか遠く、誰も知らないところに行きたいなぁ」
静かにゆっくり過ごしたい。
一日中ごろごろしたい……。
だが無常にも、昼休み終了の鐘が鳴り響く。
アミティーは身体を起こすと、重い足取りで教室へと繋がる渡り廊下をとぼとぼと歩く。
ふと、木陰に寄り添う男女の姿が視界の端に入った。
「……うわっと」
アミティーは邪魔をしないように横道に逸れようとしたが、なぜか目の前にライルが立っていた。
「?」
いつの間に現れたのだろうか?
珍しく一人だ。
——もしかして、さっきの男女をのぞき見していたのかもしれない。
彼も年頃の少年のようだ。
アミティーは内心うんうんと頷きながら、頭を下げて横を通り過ぎようとした。
「嫉妬ですか?」
すれ違いざまに、ライルが言った。
「?」
アミティーは意味がわからず足を止める。
「婚約者同士の逢瀬を邪魔しようとは、思った以上に下世話なのですね」
鼻で笑うライルに、アミティーはますます意味がわからなかった。
「婚約者……? なんのことでしょうか?」
アミティーは首を傾げながらライルの視線の先を追うと、先ほどの男女が抱き合いながら、さらには口付けを交わすところだった。
思わず目を逸らしかけた。
だが、二人が身体の向きを変えたことで、その姿がはっきりと目に入った。
――カーサーと、シルビア。
更によく見ると、渡り廊下の向こう側には、周囲を警戒するようにケインが立っている。
「……えっと?」
アミティーの頭の中は一瞬真っ白になった。
彼らが抱き合おうが、イチャイチャしようが、それは別にどうでもいい。
だがアミティーは、先ほどライルが口にした言葉を飲み込むことが出来なかった。
婚約者同士の逢瀬?
『婚約者同士の逢瀬』って言った?!
理解出来ずに混乱しているアミティーを見たライルは、愉快そうに口の端を吊り上げた。
「なんですか? まさかあなた……本気で、殿下の婚約者になるつもりだったのですか?」
「いや、え~っと。確か私は……殿下の婚約者候補だったと、記憶しておりましたが……」
まさか。
婚約者がついに決まった?
シルビア様に!?
もしかして私、解放される?
アミティーは、思わず身を乗り出した。
「違いますよ」
間髪入れずにライルは言った。
「うぇ?」
「あなたは側妃候補です。婚約者候補ではありません」
「……ん? 側妃?」
「そうです。殿下はあなたのために、側妃制度の復活を進めておられる」
理解が追いつかなかった。
ただ、背筋を冷たいものがぞわりと這った。
「過去、激しい継承権争いが起こったせいで、今日まで元老院で禁止されている制度です。ですから、あなたを『婚約者候補』と呼んでいただけですよ」
「えっと……? なぜ禁止されている制度を、復活させるんですか?」
「あなたが『神青』を有しているからですよ」
「……」
「あなたが選ばれた理由は、その色だけですよ」
アミティーは言葉を失った。
無意識に自分の毛先をぎゅっと握り締める。
「まあ、例え再び側妃制度が否決されても、ご安心を。あなたの行き先なら、既に用意されていますから」
ライルはそう言うと、値踏みするようにアミティーの全身へ視線を這わせた。
ニタニタと口元に気味の悪い笑みを浮かべている彼が、何を想像しているのか、アミティーはあえて考えないようにした。
「あなたのような子爵令嬢に、最初から選ぶ権利などありませんよ」
「あの……」
アミティーは、ライルを見上げながら言った。
「前から思ってたのですが、ライル様って、めちゃくちゃ性格悪いですね」
「なっ!?」
顔を真っ赤に染めて目を見開くライルに、
「教えていただき、ありがとうございました」
アミティーは一礼すると踵を返し、すぐにその場を離れた。
「ありえない。本当にありえないんだけど!!」
腕に浮かんだ鳥肌を擦りながら、アミティーは衝動のまま渡り廊下を駆け抜けた。




