第三十話 失われた記憶
早足で自室に戻ったアミティーは、ドンっとボトルをテーブルに置いた。
「こういうときは、龍の聖水よ!」
「こういうとき、とは?」
ミケがグラスを用意しながら尋ねると、鼻息荒くアミティーは言った。
「胸がざわざわするとき!」
突然現れた黒髪の男。
囁かれた言葉。
ゲーラのこと。
アミティーはぐるぐる回る思考を振り払うように栓を抜き、あろうことか瓶をラッパ飲みし始めた。
「お、お嬢様!?」
ミケが慌てて止めようと手を伸ばすも、アミティーは夢中でごくごくと喉を鳴らして飲み続けた。
不意にアミティーの身体が内側から光り始めた。
ミケは思わず手を止めた。
その一瞬の隙に、アミティーは瓶の中身をすっかり飲み終えてしまっていた。
ドヤ顔で口元を拭ったものの、身体が異様に熱い。
「……あれ?」
ミケがぽかんと目を見開いてこちらを見ている。
腕を見下ろくと、自分の身体が淡く光っていた。
ガシャンッ。
アミティーの手から、瓶が滑り落ちた。
その音を聞いた瞬間だった。
身体がびくりと震え、頭の中へ、断片的な記憶が雪崩れ込んできた。
ばらばらだった映像が、次第に一つへと繋がっていく。
アミティーは頭を抱えて蹲った。
「う……うぁ」
「アミティー様!」
ミケが駆け寄って背中に手を添えると、アミティーの身体は小刻みに震えていた。
呼吸は浅くなり、喉がひゅっと鳴った。
両手は頭をかきむしるように髪を掴み、指先は白くなるほど力がこもっていた。
「いやぁっ!!」
張り裂けるような悲鳴が部屋に響いた。
「いやだ、いやだ! 助けて! ねえっ! 助けて!!」
真っ青な顔で悲鳴をあげ続けるアミティーを、ミケは必死に抱き締めた。
「お嬢様、大丈夫です。落ち着いてください!」
それでも震えも叫びも、一向に収まらない。
「もういや、一人はいや! ルー。ねえ、ルー! たすけてっ!!」
必死に伸ばした手は、何も掴めない。
なおも目を見開いて泣き叫ぶアミティーの側で、突然風が舞い上がった。
ミケが驚いて視線を向けると、いつの間にかリューシャが立っていた。
「ミティー、どうしたの?」
リューシャがアミティーの両肩に手を置くと、アミティーはゆっくりと顔を上げた。
震える瞳が、リューシャを映す。
「どうして……」
「え?」
「どうして助けてくれなかったの! どうして!」
アミティーの瞳に怒りが滲み、リューシャの服を掴み、何度もその身体を揺さぶった。
「ミティー、落ち着いて」
リューシャがアミティーの両頬に手を添えて、額にそっと自分の額をつけた。
流れ込んでくる彼女の記憶に、リューシャは言葉を失った。
「いや~!!」
アミティーが大絶叫した後、くたっとリューシャの腕の中に崩れ落ちた。
そんな彼女を抱き締める腕とは裏腹に、リューシャの瞳は怒りに染まっていた。
リューシャは神龍であり、この世界を造った神である。
世界中へ加護を巡らせ、あらゆる命へ恵みを届ける。
それは、神龍にのみ許された神の御業だった。
だが、いかに神といっても世界全体へ加護を巡らせることは大仕事であった。
そんな疲れた神を癒やすのが、生まれた時から共にいる宝珠だった。
龍が抱く宝珠は、生涯一つだけ。
主が望めば姿を変え、生涯その側を離れることはない。
リューシャが伴侶を望むと、宝珠はその願いに応え、番となった。
ある日のこと。
リューシャは世界中へ加護を巡らせた後、疲れて眠りに落ちた。
宝珠はリューシャを癒したのち、力を失い、人型を保てず彼の側へ転がった。
その、ほんのわずかな隙をつかれた。
「本当によろしいのでしょうか?」
シンは、何度となく同じ問いをゲーラに尋ねた。
「問題ない」
「ですが、神龍様の宝珠に手を出すなど……」
「しつこいぞ、シン」
ゲーラの一喝に、シンは口をつぐんだ。
シンはゲーラの宝珠だった。
彼女は宝珠に「忠実な配下」を望み、シンはその願い通り、彼女に逆らえない存在となった。
俯いてしまったシンに、ゲーラは黒い布を押し付けた。
「これは?」
「神殺しの布だ」
「神殺し……?」
「これで宝珠を包んで持ってこい。普通なら触れることも無理だが、今は神力がほとんど残っていない。見つかることなく攫ってこれるだろう」
神殺しの布は、眠っている神しか欺けない禁忌の遺物だった。
神龍が世界へ加護を巡らせた直後だけ、神力は極端に落ちる。
宝珠も癒やしで力を使い果たし、人型を保てない。
神と宝珠の繋がりが薄れる、その数十秒だけ。
ゲーラは、その一瞬を狙った。
「ですが、こんなことがバレでもしたら」
「大丈夫だって言っているだろう。これは私情ではない。龍族の悲願だ」
「悲願、ですか……?」
「何の力もない宝珠が、神龍様の番になどなれるものか! 番とは、神龍様に並び立つ者がなるものだ。宝珠など唯の石ころだ!」
ゲーラは吐き捨てるように言った。
「……」
シンは無意識に、自分の胸に手を添えた。
「なんだ?」
「いえ……」
シンは無言で頷きながら、暗闇に紛れた。
ゲーラはリューシャの近しい配下であるため、シンは何の疑いも向けられることなくリューシャの寝室へ忍び込めた。
宝珠はリューシャの身体から、僅かに離れた場所で静かに輝きを失っていた。
難なく宝珠を攫ったシンが指定された場所へ向かうと、ゲーラは爪を噛みながら苛立たしげに待っていた。
シンは攫ってきた宝珠を見せると、ゲーラは興奮した様子で布に包まれた宝珠を受け取った。
「よくやった! シン。偉いぞ」
シンは褒められたことに安堵したように、小さく笑みを浮かべた。
「ああ、まずい。そろそろ時間がない」
不意にゲーラはそう言うと、布に包んだ宝珠をおもむろに岩場に叩きつけた。
ガシャンッ。
鈍い音を立てて、宝珠が割れた。
だが、ゲーラはそれでも飽き足らず、何度も何度も岩場に叩きつけ、最後には踵で踏み抜いた。
目は血走り、口元にはいやらし笑みを浮かべている。
「え……」
シンの頭が、真っ白になった。
宝珠を……割った?
ありえない。
そもそも、宝珠が割れるなど聞いたこともなかった。
シンは無意識に自分の身体を抱き締めながら、カタカタと震える。
しかしゲーラは、そんなシンの様子になど気にも留めず、高笑いしながら宝珠を割り続けた。
「あはっ! 割れた割れた! 流石神殺しの布だ。神力を吸っているんだな! あははは」
シンは呆然とその様子を眺めることしかできなかった。
どれくらい時間が過ぎただろう。
すっきりした表情でゲーラは布を持ちあげると、その中から、ぱらぱらと砕けた欠片が動く音が聞こえた。
「そ、それは……大丈夫なのでしょうか?」
「ああ。この布は神力を通さない。宝珠がどこにあるか、何が起きているか、リューシャ様にも分からない」
「そ、そうなの、ですね……」
曖昧に頷いたシンに、ゲーラは布ごと宝珠を押し付けた。
「海にでも撒いてこい」
「え?」
「ほら、さっさと行け! 時間がない!」
見ると、布が端からパラパラと灰になっていく。
「この布は、神力を吸い尽くすと、灰になって消えてしまう。つまり証拠も何も残らない。ああ。これで宝珠は完全にいなくなる。あはははは。ざまあみろ!」
シンが答える前に、ゲーラは高笑いしながら去っていった。
残されたシンは布をぎゅっと握り締めると、言われた通り陸から遠く離れた海へ向かった。
そして、布ごと宝珠を海へ投げ捨てた。
布からこぼれ落ちる、きらきらした破片が、水面に消えていく。
波に攫われ、散り散りになっていく様を見届けたシンは、無言でその場を去ったのだった。
その頃、うっすらと目を開けたリューシャは、違和感に気づいて辺りを見回した。
「……いない?」
宝珠の姿が見当たらないばかりか、繋がりすら消え失せていた。
瞬間、龍皇国の大地が揺れた。
「宝珠、私の愛しい宝珠!」
その叫びと共に、光が溢れ、突風が吹き荒れた。
扉や窓がガタガタと揺れ始め、家具や調度品が宙を舞い、天井へと叩きつけられた。
城にいた者たちは慌てて駆け付けるが、リューシャの周囲に神力が湧き上がり、近付くことすらできなかった。
リューシャの頬にパラパラと鱗が現れ、金の瞳が縦に割れると、爆風と共に青い龍となって天高く上昇した。
龍皇国に住まうものたちは、天変地異でも起きたのかと建物から飛び出し、空を見上げた。
巨大な青い龍が、空を覆い尽くさんばかりにうねっていた。
配下たちは、その圧倒的な神威を前に、止めることも敵わず跪くしかなかった。
空を覆う青き龍は、力の限り咆哮し、宝珠を呼んだ。
だが、どれだけ呼んでも宝珠は答えず、リューシャの元に戻ることはなかった。
咆哮が止み、辺りが静かになっても、リューシャは戻ってこなかった。
宝珠を探して世界中を彷徨い続け、いつしか力を使い果たした。
人型に戻ったリューシャが居城へ戻ってきたころには、感情はすっかり抜け落ち、歩くことさえままならなかった。
配下たちは戻ってきたリューシャの姿に安堵した。
だが、それ以降、リューシャが自主的に動くことはなかった。
その日を境に、リューシャは世界に加護を巡らせることを止めた。
世界の端では、加護が行き渡らずに死の大地となる場所も現れ始めた。
だが、リューシャは動かず、話さず、まるで死んでいるかのように光を移さない瞳で座っているだけだった。
それ以来、リューシャの身の回りの世話は、すべてゲーラが担うようになった。
一方。
アミティーが気づいたときには、身体はなく、意識だけが海の底で漂っていた。
耳に残る、何かが砕けた音と、女の高笑い。
それが自分の身に起こったことなのだと、時間がたってようやく気付いた。
しかし、今の自分にはどうすることもできなかった。
意識だけがあって、動くことすら出来ない。
深く暗い海の底を、ゆらゆらと彷徨っているだけだった。
どれだけ助けを求めようとしても。
どれだけ叫ぼうとしても。
どれだけリューシャの名を呼ぼうとも。
何一つ、叶わなかった。
アミティーは絶望した。
自分はこのまま一人ぼっちで、誰にも気づかれずに漂い続けるのだろうか。
暗い海の底でたった一人で。
ふと、身体に温かい何かが流れ込んできた。
懐かしい温かな神力。
それは紛れもなく、リューシャが巡らせた加護の一部だった。
アミティーは、漂いながらもリューシャの加護を取り込んでいった。
気の遠くなるような年月をかけ、海に残る加護を少しずつ取り込み続けた。
それでも、魂として形を保てるほどの力を得るには、あまりにも長い時が必要だった。
やがて海岸へ流れ着く頃には、わずかではあるが一つの魂として形を保てるまでになっていた。
海岸へ遊びに来ていた一人の女性の胎内へと吸い込まれていった。
こうしてアミティーとしての生が始まった。
リューシャはアミティーを胸に抱き、咆哮を上げた。
部屋中に神力があふれ出し、光が爆発するように広がっていく。
暴風の中、ミケは恐怖の余り腰を抜かしている。
リューシャの頬には鱗が浮かび、口には鋭い牙が覗く。
金の瞳孔が縦に細く裂けていった。
咆哮は天高く響き、総本山にいながら龍皇国まで震わせた。
地響きと共に大樹が揺れ、鳥たちが一斉に飛び立つ。
総本山にいる誰もが慌てて身を屈め、ただ震えながら咆哮が止むのを待つしかなかった。
ゆらゆらと金のオーラを揺らめかせ、リューシャはアミティーを抱いたまま龍皇国へ転移した。
その咆哮を受け、龍族たちの身体にびりびりと衝撃が走り、異変を察した者たちが急いで城へ集まってくる。
「ゲーラ、ゲーラはどこだ! 連れてこい!! 殺さなければ……どんな姿だっていい!」
凍えるほど冷たい声だった。




