第二話 待ち人、来ず
「どうぞ」
背後から不意に声をかけられ、びくりと足を止めた。
振り向くと、給仕の男がにこやかな笑みを浮かべながらアミティーにグラスを差し出したところだった。
「……あ、どうも」
アミティーは、思わずグラスを手に取る。
「素敵な夜を」
給仕は静かに一礼すると、踵を返して去っていった。
アミティーは、グラスの中を覗き込む。
とろみのある琥珀の液体が緩やかに波打ち、どこか懐かしい甘い香りがふわりと鼻先をくすぐった。
瞬間、アミティーの腹がくぅっと鳴る。
今日は忙しくて朝から、何も口にしていない。
もちろん喉も渇いている。
アミティーは甘い匂いに釣られるように、そのままグラスの中の液体を一気に飲み干した。
「んぐぉ……っふ」
令嬢らしからぬ音が、彼女の口から漏れる。
喉を焼く感覚と、胃の奥に熱湯を流し込まれたような衝撃に、思わず咳き込みそうになった。
視界がちらつき、星が飛ぶ。
甘い。
熱い。
その衝撃は、身体の奥――さらに深いところへ落ちていく。
「……はれはれ?」
視界が回り、眼鏡がずれる。
アミティーは反射的に人目を避けようとして、ふらふらと歩き出した。
カーテンの陰を抜け、さらに奥へ。
人の気配が薄れる方向へ、ただ本能のままに進んでいく。
やがて足がもつれ、力が抜けるように倒れ込んだ。
分厚いカーテンの奥、人目につかない小さな空間。
ふかふかの絨毯が、アミティーの身体を受け止める。
そして誰にも気づかれないまま、アミティーの意識は、暗く甘い眠りの底へ沈んでいった。
同じ頃。
カーサーはシルビアたちと別れ、ホールの二階に設けられた王族専用の休憩室で、一人アミティーを待っていた。
テーブルの上には、すでに栓を抜かれたワインボトルが転がっている。
カーサーは、グラスの中の赤い液体をゆっくりと回した。
アミティーは、健気だ。
なんでも言うことを聞いてくれる。
困るほどの仕事を押し付けると、僅かに瞳が不安げに揺れる。
自分のために頑張るそのさまは、小動物のように愛らしく、カーサーの加虐心をくすぐった。
初めて見た日から、あのどこか諦めきった瞳が忘れられなかった。
二人きりになる機会をうかがっていたが、側近たちが彼女を責め立て、いつもタイミングを逃してしまう。
――だからこそ、今日は何としても距離を縮めたかった。
方法は単純だった。
給仕に扮した者へ強い酒を持たせ、アミティーに渡すよう命じる。
警戒心が薄れたところで個室へ誘い、二人きりになる。
酒の力を借りてしまえばいい。
自分の前では緊張しているだけだ。
少し酔えば、きっと本音を見せてくれる。
カーサーはワインをゆっくりと口に含み、舌の上で転がした。
酔ったアミティーは、どんな表情をするのだろう。
潤んだ瞳で、見つめてくれるのだろうか。
「久しぶりに、レンズの向こうの瞳を見たいものだ」
もしかすると、酔いに任せて身も心も委ねてくれるかもしれない。
ドレスより制服の方が楽だ。
複雑な紐も、硬いコルセットもない。
カーサーは、口元が緩むのを止められなかった。
正直カーサーは、シルビアのことなど、それほど好きではなかった。
だがシルビアは扱いやすかった。
好意を隠そうともしないし、求めれば素直に応じてくれる。
身分のつり合いが取れていることも大きい。
それだけで、側に置く理由としては十分だった。
「申し訳ございません。……見つかりませんでした」
従者が部屋に戻ってくるや否や、深々と頭を下げた。
ホールをくまなく探しても、従者はアミティーを見つけることができなかった。
「帰った形跡は?」
「ありません」
「……見つかるまで探せ!」
「はっ!」
従者は一礼して去っていく。
カーサーは軽く息を吐き、再びグラスを傾けた。
「ああ、アミティー。……早く私の側へ来てくれ」
カーサーは、火照った身体を紛らわせるように、胸元のボタンをいくつか開ける。
だがその夜、結局従者は最後までアミティーを見つけることができなかった。
カーサーは休憩室でひとり酔いつぶれ、朝まで目を覚まさなかった。




