第十九話 揺らぐ常識
奥の院で与えられた新しい住まいは、こぢんまりとしていた。
けれど、大きな庭を備えた静かな一軒家だった。
早い時間に目が覚めたアミティーは、上着を羽織って庭へ出る。
耳を澄ませば、遠くから鳥のさえずりが聞こえた。
庭いっぱいに花が咲き、その先には大樹が天へと伸びている。
ときおり小動物が姿を見せ、草むらを駆けていった。
見上げると、高くそびえる時計台の文字盤が、すぐそばに見えた。
ここは浮島でもかなり上層にあるらしい。
眼下には、大聖堂へ続く人々の列が、小さく伸びていた。
「すご……」
そこは、ひとつの大きな都市が、そのまま空へ浮かんでいるようだった。
アミティーは大樹に近づくと、両手を広げて抱きついた。
「大きい……」
幹をそっと撫でていると、建物からミケが姿を現した。
「朝食の用意が出来ました」
「ありがとう」
部屋へ戻ると、ミケがちょうど朝食を並べ終えたところだった。
「良い匂い」
アミティーは、朝食をきれいに平らげた。
食欲も戻り、すっかり元気になった。
龍の聖水も欠かさず一日二回。
そのおかげで、顔色も髪の艶も、ほんの数日で見違えるほど良くなってきていた。
「はあ、美味しかった」
食後に龍の聖水を飲みながら呟いた。
「ねえ、ミケ、これからどうしようか?」
アミティーは、グラスを置いてミケに尋ねた。
「これから、ですか?」
「うん。亡命することばっかり考えて、その先のこと、あんまり考えてなかった」
アミティーは鞄をひっくり返して地図を広げた。
しばらく考え込んだ末、肘をついて溜め息を吐いた。
「住むにしても、どこが良い国なんて、さっぱりわからないよね」
「教皇様に相談してみてはどうでしょうか。それに……」
「?」
考え込むミケに、アミティーは首を傾げた。
「もしかしたら、補助金が出るかもしれません」
「補助金って、神青を持っている人に支払われるって言ってたやつ?」
「はい。恐らく、ご実家であるフォール家への補助は打ち切られると思います。今後はアミティー様へ直接支払われるのではないでしょうか」
「何それ! 最高!」
アミティーは、小袋を引っ張り出すと、今あるお金を数え始めた。
「うふっ、こっちはまだまだある」
ニヤニヤするアミティーを見て、ミケも苦笑した。
「お金はいくらあっても困るものではありません。何だったら申請してみてはどうですか? いただけるものは頂きましょう。当然の権利です」
「たしかに!」
将来への漠然とした不安が少し薄れ、ほっと息をついた。そのとき。
鞄から書類が滑り落ちた。
明日開かれる式典への出席者一覧と献上品の目録。
他国の要人名簿は、すでに何度も目を通し、ほとんど頭に入っていた。
大切にしてきた書類が、今はただの紙切れにしか見えなかった。
丁度その頃、総本山に来ていたライルは、アミティーの姿が見当たらないことに、今更ながら気づいた。
「アミティー・フォールはどうした?」
大司教の従者に尋ねると、彼は苦笑しながら首を横に振った。
「その辺で雑用でもしているのでしょう」
「こちらには、到着しているのか?」
「恐らくは。我々と日程も宿泊場所も違いますので、なかなか会えないのは仕方ありません」
「……そうか」
「何か、急ぎの用でもあるのですか?」
「いや……それは」
ライルは口ごもった。
今回参加している大司教は、総本山の部屋に荷物を置くや否や、腹心たちを連れて再び魔法陣で近くの街へと降りて行った。
特に役目も与えられず、ライルはここ数日、時間を持て余していた。
「父上は視察があると言って街に降りたが、明日の式典の参列者名簿や、献上品の目録の準備は終わっているのだろうか」
「ああ。それなら」
従者がにこりと微笑む。
「アミティー・フォールがやりますよ」
「は?」
ライルは思わず従者の顔を見返した。
「ライル様は聞いておりませんでしたか?」
従者は不思議そうに首を傾げた。
「もともと、些末な事務や雑務はすべてアミティー・フォールの仕事です。我々は参加して、顔見世するだけで良いのですよ」
そんな馬鹿な……全部、アミティーが?
「まさか、ここへ来るまでの段取りや、式典での献上品の目録の読み上げまで……?」
「勿論でございますが?」
従者はきょとんと小首を傾げた。
「せめて、どんな資料か見せてみろ。こちらも頭に入れておかねばならないだろう」
「書類はすべて彼女が管理しておりますので、こちらには一枚もございません」
ライルは、言葉を失った。
「どうなさいましたか?」
「いや、いい。少し歩いてくる」
ライルはそう言うと、部屋を後にした。
何かがおかしい?
夏季休暇前、アミティーが皆の前で叫んだ言葉が脳裏によみがえった。
『毎朝、五時に起きて登城し』
『九時まで雑務を行い、その足でアカデミーへ通い、下校後は生徒会の雑務を手伝い、その後、また登城し!』
『全てを終えて自室に戻るのは、深夜です! それを三年以上、続けてきました!』
ライルの背中に、イヤな汗が流れていく。
「大げさに言っているのかとばかり……」
気づけば、あてもなく歩いていた。
途中、何やら視線を感じて足を止めた。
「なんだ?」
振り返ると、すれ違う神官たちが、怪訝そうな表情でライルを見ていた。
居心地の悪さを覚え、足早に人気の少ない建物へ入る。
そこは、大きな書庫だった。
ライルは手近な本を手に取ると、窓際のカウンター席に座る。
何気なくページをめくっていた指が、神青の項目で止まった。
「えっ」
思わず声が漏れ、慌てて周囲を見回した。
誰も気づいていないことを確認すると、本の表紙へ視線を落とす。
そこには『神龍教の成り立ちと教え』と書かれていた。
一番目立つ書棚には、同じ本が何冊も並んでいた。
総本山では、誰もが読む本なのだろう。
大司教の息子であるライルは、幼い頃から教会で教えを学んできた。
神龍教の成り立ちも、『神青』についても、一通り教えられている。
だが、この本を読んだことは一度もなかった。
ライルは再びページをめくった。
そこには、神青についてさらに詳しく書かれていた。
どれも初めて目にする内容ばかりだった。
『総本山から伝えられた青のレシピは門外不出とし、使う際は神事のみとする』
「……なんだ、これは」
そんな教えは、一度も聞いたことがない。
エルディア王国では、教会が青で染めた札を作り、民へ配っている。
寄付金額によって、色分けまでされていた。
だが、本に書かれていたのは、それだけではなかった。
ひとつ、神青を持つ者は神龍の加護を受けし者である。
ひとつ、神青を持つ者は手厚く保護せよ。
ひとつ、神青を権力や財で縛ることを禁ず。
ひとつ、神青を虐げし者には神龍の裁きが下る。
「そんな馬鹿な……では、アミティー・フォールは一体……」
先ほどの従者の話も、この本の内容も。
すべてが、自分たちのしてきたことは間違っていたのだと告げていた。
だが、その事実をライルはまだ受け入れられずにいた。
「……いや、神青とは濃い青のことだ。灰青など偽物だ」
口から出た言葉は弱々しかった。
ライルは落ち着きを取り戻すために、何度も深呼吸を繰り返した。
「ここは神龍様の総本山です。そのようなことを口にすると投獄されますよ」
「誰だ!」
突然声を掛けられ、ライルは顔を上げた。
するとそこには、一人の男が立っていた。
「ああ、これは失礼しました。お貴族様でいらっしゃいましたか。私はしがない商人のバンと申します」
「商人か」
ライルは、わずかに肩の力を抜いた。
「先ほどの神青の話、どういう意味だ」
ライルは素っ気なく尋ねた。
だが、バンは人の良さそうな笑みを浮かべた。
「例外はあれど、この世界のあらゆるものには神龍様の加護が宿っています。その中でも青を持つものは、とりわけ加護が強い。はっきりと青を宿す者は、神龍様の縁者とも言われているのですよ」
「神龍様の縁者、だと」
「はい。ですので、そのような御方に出会われた際は、誰もが大切に、優しく接するのです。そうすることで、自分にいただいている加護を強めることができると言われております」
「加護を強める」
ライルは無意識にその言葉を繰り返した。
「勿論、逆もしかりです。その御方を手ひどく扱えば、加護が反転するともいわれています」
「加護が反転、だと?」
「はい。ですので、色褪せた青であろうと、『青』と認識できるものは、大切に扱わなければならないのです」
「商人ごときが、なぜそのようなことを知っている」
ライルは、人の良さそうな笑みを浮かべるこの男を、いまいち信用することができなかった。
「旅をしておりますと、各国の教えにも触れますので。それに……」
にこりと笑うバンを、ライルは怪訝そうに見つめた。
「私、こう見えても龍人族の端くれですので、そのあたりのことは人族よりも詳しいのですよ」
そう言うと、バンの瞳孔が一瞬鋭く光った。
「そ、そうか。教えてくれて感謝する」
ライルはおもむろに立ち上がると、足早に書庫を出て行った。
「おや? 怖がらせてしまったかな?」
手を振りながらライルを見送ると、バンは置きっぱなしになっていた本を元の書棚へ戻した。
ライルは人通りの多い場所まで出ると、アミティーの姿を探した。
だが、観光客も多くいるこの場所で、偶然彼女に会うことは難しい。
ライルはすぐに諦めると、神官を呼び止めてアミティーの居場所を尋ねた。
「エルディア王国から来たアミティー・フォールの部屋を教えてもらいたい」
「何故でございますか?」
神官は無表情で答えた。
「連れなのです。どうしても連絡を取りたいのですが、姿が見当たらなくて」
「お連れ様なのに、ご存じないのですか?」
「……き、聞きそびれたのだ!」
「申し訳ございません。我々には守秘義務がございますので、お答えすることはできません」
神官はそう言うと、その場を去っていった。
ライルはその後、何人もの神官に尋ねたが、回答は同じだった。
重い足取りで自室へ戻ったライルは、力尽きてベッドに倒れ込んだ。
今更アミティーに会ったところで、何かが変わるわけではない。
ただ、確かめたかっただけだ。
式典が近づいてくる。
父は戻ってこない。
ライルは胸の奥に広がる得体の知れない不安を振り払えないまま、目を閉じた。




