第十六話 神龍様は距離が近い
「さあ、行こう」
リューシャは、エスコートするように立ち上がった。
「え?」
「まだお願いごと、ある? ミティーの願いなら、全部叶えてあげるよ」
リューシャは屈託なく笑った。
その笑顔につられ、アミティーの頬も自然と緩む。
こんなふうに、しっかり目を見て話してくれる人はいなかった。
男性にエスコートされるのも、もちろん初めてだ。
言葉を待つように向けられる優しい眼差しに、胸の奥がじんわりと温まっていく。
「……胸が、ほんわか、する」
アミティーは、そっと自分の胸に手を当てた。
「私もだよ」
リューシャは終始にこにこと笑いながら、アミティーを伴って祈りの間を出た。
どこへ向かうのだろう。
促されるまま廊下を歩いていると、前方から先ほど案内してくれた神官が歩いてくるのが見えた。
「あ、終わりました。ありがとうございます」
アミティーの言葉に、神官が視線を上げて言葉を返そうとするが、盛大に失敗する。
「んぐっ!?」
彼の喉の奥から、聞いたことのない音が飛び出し、アミティーは思わず足を止めた。
「あの……大丈夫ですか?」
神官は目を見開いたまま、アミティーの隣に立つリューシャと、その背後のセフィルを交互に見つめ、ぱくぱくと口を動かしている。
「教皇に取り次いでください」
背後から歩み出たセフィルが静かに告げると、神官はようやく我に返り、勢いよく頷いて廊下を走っていった。
「何だったんだろ」
その背中を不思議そうに見送っていると、ふいに視界を遮るようにリューシャが立ち塞がった。
「?」
顔を上げると、自分を見下ろすリューシャと目が合う。
「私を見て?」
甘えるように小首を傾げる彼に、アミティーは素直に頷いた。
「あ、はい」
初めて会ったはずなのに。
自分より、ずっと年上の男の人なのに。
なぜか――可愛い、と思ってしまう。
胸のくすぐったさに、アミティーは思わず笑みがこぼれた。
辿り着いた部屋に入ると、教皇はソファーに座らず、立ったまま迎えた。
「こ、これは……御前、失礼いたします」
昨日も丁寧だった。
だが今日は、明らかに様子が違う。
アミティーは、リューシャと教皇の顔を思わず見比べた。
「教皇、お掛けになってください」
セフィルの一言で、教皇はようやくソファーに腰を下ろした。
だがその背筋は、なおも棒のように伸びたままだ。
紅茶を運んできた神官の手は小刻みに震え、茶器がカチャカチャと小さな音を立てている。
沈黙の中、教皇は咳払いを繰り返し、落ち着かない様子で紅茶に口を付けた。
「ねえ、ルー」
そんな中、アミティーがリューシャに声を掛けた。
「なに?」
「ルーって、教皇様よりえらい人?」
「ぶっ――!」
あまりに無邪気な一言に、教皇は飲みかけの紅茶を盛大に吹き出した。
「教皇様、大丈夫ですか?」
アミティーは驚いて腰を上げるが、リューシャにやんわりと腕を掴まれ、再びソファーに座った。
「い、いやはや……」
教皇は、慌ててナプキンで口元を拭い、額に浮かんだ汗を押さえた。
「え、ええっと……アミティー様。このお方は、その……大変お偉いお方でして……いえ、人というよりは……」
教皇の視線が泳ぐ。
助けを求めるようにセフィルを見るが、返ってきたのは無言だけだった。
「そ、そういえば、アミティー様。髪の色が……?」
「はい。実は生まれたときから、この色なのです。国では、みっともないから染めるよう言われておりました」
「……なんとっ!」
教皇の眉が、はっきりとひそめられた。
「地図を」
リューシャが誰ともなしに命じると、すぐに目の前の机に大きな地図が広げられた。
「ミティーの住んでいた国はどこ?」
「ここです。エルディア王国」
教皇が、地図上のエルディア王国の位置を指差した。
リューシャはわずかに身を乗り出し、地図へと目を落とした。
「ふうん……困った国だね」
次の瞬間、エルディア王国を指していた教皇の指先に、びりっと微かな衝撃が走る。
「……?」
教皇は不思議そうに指先を見つめたが、傷ひとつ見当たらなかった。
同じ時刻、遠く離れたエルディア王国では、虫の声がぴたりと途絶えていた。
鳥も鳴かず風も吹かない。
夏の空気だけがじっと重くとどまり、世界が息を潜めたような静寂に包まれる。
だが、人だけはまだ、その意味を知らない。
「ルー、どうかしたの?」
「なんでもないよ」
リューシャは地図から顔を上げ、そっと彼女の手を撫でた。
そんな二人の様子を見ていた教皇は、何気なくアミティーの額を見た瞬間、あんぐりと口を開けた。
そこに刻まれた紋は、紛れもなく“宝珠の証”だった。
「……っ」
教皇は、言葉を失った。
ゆっくりと背後のセフィルに視線を向けると、セフィルは何も言わず、ただ一度だけ、静かに頷いた。
宝珠とは、神龍にとって唯一無二の伴侶。
エルディア王国は、その宝珠を虐げ続けていた。
教皇の思考は、完全に停止した。
「ん……ん、ん。こほん」
あまりにも長く続く沈黙に、セフィルが控えめに咳払いをする。
それでようやく、教皇は我に返った。
「そ、そうだアミティー様。亡命の準備が整いました。まずは奥の院、神域近くにお部屋を用意致しましたので、そちらに移動ください。その後、行きたい国などあれば、こちらで手配いたしましょう」
「ありがとうございます」
アミティーは、深々と頭を下げた。
『奥の院って、なんだろう?』
そんな疑問を見透かしたように、
「奥の院は、上位の神官しか入れない特別な場所のことだよ。今後、国の者と会うこともないだろう」
「嬉しい!」
アミティーは満面の笑みを浮かべた。
「ミティーのこれからの生活、すべて保証するよ。好きなように、自由に生きればいい」
穏やかな声でリューシャは続けた。
「もう誰にも、遠慮しなくていいよ」
その瞬間―― 部屋の空気がわずかに振動し、カップの中の紅茶に幾重もの波紋が浮かんだ。
教皇は、はっと息を呑む。
神力が世界に満ちた瞬間だった。
だがアミティーは、その意味を知らない。
「自由に生きられるんだ……」
その事実だけで胸がいっぱいだった。
もう誰にも縛られない。
そう思えただけで、胸が軽くなった。
これから始まる新しい生活を思い浮かべながら、アミティーは、静かに胸を膨らませていたのだった。




