第十四話 教皇の怒り
アミティーとミケは、大聖堂のさらに奥へと進んでいく。
行き交う人は次第に減り、廊下は次第に静けさに包まれていく。
いつの間にか足元の絨毯は毛足の長いものへと変わり、歩くたびに音を吸い込んだ。
「それにしても……驚きました。これほどまで美しい神青とは」
前を歩く教皇が、ふと足を止めてアミティーの瞳を覗き込んだ。
「エルディア王国の第一王子は、実に恵まれた方なのですね」
「……いえ、そんな」
アミティーが恐縮しながら首を振っていると、目の前の扉が音もなく開かれた。
「さあ、どうぞ」
案内された先は、広々とした豪華な一室だった。
勧められるままソファーへ腰を下ろすと、ミケはその後ろに静かに控えた。
目の前に、すぐに紅茶と軽食が運ばれてくるが、アミティーはそれに手を付けることなく、教皇をじっと見据えた。
「あの、私はあくまで、殿下の婚約者候補でございますので」
「……候補、ですか?」
「はい。私は殿下と婚姻することはございません」
あえて、少しだけ間を置く。
「殿下には、すでに正式な婚約者がおります」
「……ほう」
教皇は眉を上げた。
「私は、その方の代理として参っております。殿下がアカデミーを卒業なさった折には、正式に『辞退』という形になる予定でございます」
教皇は、ゆっくりと目を細める。
「……実は」
アミティーは、そこで一度視線を落とす。
膝に置いていた手をぎゅっと握り込むと、既に汗で湿っていることに気が付いた。
「お願いが、ございます」
絞り出したような彼女の声に、教皇の眉根が僅かに寄る。
「私は『婚約者候補』とされておりますが、実際には――側妃候補なのです」
「神青を持つ者を側妃に……?」
教皇が呟いた瞬間。
ガチャン、と乾いた音が室内に響いた。
給仕をしていた使用人が、手元を狂わせ、茶器を倒したのだ。
「し、失礼いたしました!」
慌てて頭を下げるが、その顔は青白く、血の気が失せている。
アミティーが視線を戻すと、教皇もまた、明らかに顔色を変えていた。
「あなた様は……それでも良いと、受け入れておられるのですか」
教皇は静かに尋ねた。
「良いかどうかと問われましても」
アミティーは、淡々と答える。
「すべて王命によるものでございます。私の意向は、最初から必要とされておりません」
その言葉が決定打だった。
神の色を宿す者を、王権の都合で側妃として扱う。
それが、神龍教の教義において、どれほど重大な冒涜にあたるか。
教皇は、無意識に拳を握りしめていた。
「……何か、おかしなことを申し上げたでしょうか」
アミティーは、恐る恐る尋ねる。
教皇は一拍置いてから、ゆっくりと口を開いた。
「いくつか、確認させていただいても、よろしいでしょうか」
「もちろんです」
アミティーは頷く。
「まず――あなたと第一王子殿下の婚約者候補、正確には『側妃候補』のお話は、王命であったと」
「はい、そうです」
「そして、殿下が成人なさった際には、あなたは彼の婚約者ではなく側妃となると」
「おそらく、そうなるかと存じます。ただ、現在エルディア王国には側妃制度がございませんので……議会が通れば、という前提になります」
「……通らなければ?」
一瞬の沈黙が部屋に落ちる。
「……下賜される予定でございます」
アミティーは、小さい声で答えた。
教皇は目を閉じ、深く息を吐いた。
「……あなたは、それを望んでおいでですか」
「先程も申しました通り、私の意見は必要とされておりません。王命であれば、それに従うのみでございます」
教皇は、信じがたいものを見るように、アミティーを見つめた。
「我々、神龍教は――神青を持つ者を保護し、守る義務があります」
「……え?」
思わず、聞き返す。
アミティーにとって、それは初耳だった。
「神青を持つ者が生まれた場合、神龍教への届出がなされるのが通例です」
「……必ず、ですか?」
「義務ではありません。ですが」
教皇は静かに続ける。
「御子が一生涯、何不自由なく暮らせるよう、その一家には補助金が支給されます。
そのため、ほとんどの家が届出を出します」
「……補助金?」
「ええ。かなりの額ですよ。もちろん、あなた様についても、届出はなされております」
「……知りません、でした」
ふと、アミティーの脳裏に、綺麗になった屋敷が浮かんだ。
ようやく資金の出所が分かった。
ああ、そうだったんだ。
アミティーは、今更ながらに胸が痛んだ。
「その資金は、あくまであなた様個人のためのものです。ご家族であっても、無断で使用すれば罰則の対象となります。本来ならば、あなた様の資金は――」
アミティーは、教皇を見ながら静かに首を横に振った。
「……なるほど」
それ以上、教皇は何も言わなかった。
部屋には、重苦しい沈黙だけが落ちた。
「……実は私、一縷の望みを胸に、こちらへ参りました」
アミティーは、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「お聞きしましょう」
教皇の落ち着いた声に、アミティーは背筋を伸ばしたまま告げた。
「亡命を希望しております」
「……亡命、ですか」
教皇は、しばし言葉を失った。
「はい。その相談を――教皇様に直接申し上げたく、こちらへ参りました。このような場での発言、どうかお許しください」
「……理由は、お聞きするまでもありませんが」
教皇は静かに促した。
アミティーは息を整える。
そして、自身が置かれてきた状況を、順を追って語った。
家での扱い。
王命による婚約者候補。
拒否権の存在しない立場。
感情は交えない。
ただ事実だけを語った。
教皇はその間、一言も遮らなかった。
「これ以上、国に使い潰されることには、耐えられません」
言い終えた瞬間、自分の声が震えていたことに気付き、アミティーは小さく息を整えた。
教皇はゆっくりと立ち上がり、背後の大きな本棚から一冊の書を取り出した。
「こちらを」
差し出されたのは、神龍教の教本だった。
「ご自身が、いかなる存在であるか――どうか、ご自身の目で確かめてください」
その声音は、すでに決意を帯びていた。
「アミティー様」
教皇は、視線を逸らさず、じっとアミティーを見つめる。
「我々は、あなた様の届出は確認しておりました。しかし、エルディア王国の王族が手厚く保護しているという言葉を信じ、確認が行き届かなかったこと、誠に申し訳ございません」
教皇は、アミティーに向かって深々と頭を下げた。
「そ、そんな、おやめください!」
アミティーは、慌てて止めに入ろうとするが、教皇は首を横に振ったまま、深々と頭を下げた。
その日のうちに、教皇は水面下で動いた。
エルディア王国より参加していた大司教、ならびに大臣たちへの聞き取り。
記録の照合。
神龍教に残る届出との突き合わせ。
そして――
アミティーの話は、すべて事実であると裏付けられた。
「……どうなさいますか」
蒼白な顔で、神官たちが尋ねる。
集められた情報に目を通した教皇は、深く息を吐いた。
「決まっている」
低く、だが揺るぎない声だった。
「御方々の耳に入れば、国の存亡に関わる」
一拍置き、教皇は続けた。
「そもそも、あの国は――アミティー様の現状すら、正式に報告していなかった」
「……我々も、このまま黙っているわけにはいきません」
「当然だ」
教皇は低く言い切った。
その瞳には、静かな怒りが宿っていた。
「見たこともないほど美しい神青の瞳――あれは、間違いなく、御方の加護を受けておられる証だ」
「恐らくですが……神青は、瞳だけではありません」
アミティーを案内した神官の言葉に、教皇は顔を上げた。
「……どういう意味だ」
「近くで確認いたしましたが、髪の根元にも神青が現れておりました」
「なに……? 届け出では、茶色だったはずだが」
一瞬の沈黙の後、教皇は即座に呼び鈴を鳴らした。
「至急だ! アミティー様の保護準備を進めよ!」
そのまま彼は机に向かい、筆を取る。
宛先は、奥の院で留め置かれているリューシャの側近セフィル。
書状には、ただ一文だけが記された。
「類まれなる神青の御子、発見」
それが何を意味するのか。
この場にいる誰もが理解していた。




