第十二話 龍人族の商人
「やったぁ!」
馬車の中で、アミティーは何度も両拳を振る。
今になって高揚感が溢れ出し、足までばたばたと動いてしまう。
「言い返してやった!」
声に出してみても、まだ実感が湧かない。
指先はまだ震えていて、擦り合わせた手は思いのほか冷えていた。
興奮の名残で、瞳の奥がじんわりと熱い。
しばらくして、ようやく落ち着きを取り戻すと、アミティーは深く息を吐き、窓の外へ視線を移した。
流れていくのは、見慣れた街並み。
そして――遠ざかっていく屋敷が、視界の端に映った。
――もう、二度と帰ることはないだろう。
そう思った瞬間、不思議と心は軽かった。
良い思い出など、ほとんどないはずなのに。
それでも頭に浮かんだのは、楽しそうに笑う家族の姿だった。
その笑顔が、自分に向けられたことは一度もない。
どうして、笑いかけてくれなかったのだろう。
どうして、話しかけてくれなかったのだろう。
どうして、私を見てくれなかったのだろう。
「お嬢様、どうかなさいましたか?」
ミケの声に、アミティーは我に返る。
「……なんだか、あっけなかったなって思って」
窓の外を見たまま、ぽつりと続ける。
「昔は、頑張れば何とかなるって信じてた。バカみたいに努力して、バカみたいに苦しんで……」
ミケは何も言わない。
ただ、黙って耳を傾けていた。
胸の奥に溜まっていた重たいものが、窓から入り込む風に乗って、少しずつ薄れていく。
「……まあ、今さらだけどね」
アミティーは、小さく苦笑した。
「ね~ね~ミケ」
「なんですか?」
急なアミティーの声色に、ミケは僅かに警戒する。
こうやって甘えた声を出すときは、ろくな頼み事じゃない。
ミケの長年の勘がそう囁いた。
「龍の聖水飲もうよ」
「は? 出発したところじゃないですか」
「乾杯よ! 新しい門出に!」
きらきらしたアミティーの瞳に、ミケはしぶしぶ荷物から龍の聖水の入った瓶を取り出した。
「一杯だけですからね」
「分かってるって」
ミケは、小さなグラスに少しだけ酒を注いだ。
「もうちょっとだけ!」
「だめです」
「ケチ」
ミケは、これ以上飲みすぎないように、すぐに瓶を片付けた。
「く〜っ、この一杯に生きてるぅ〜」
龍の聖水を飲んだアミティーは、ため息と共に呟いた。
「おっさんくさすぎませんか?」
「え? 何?」
「いえ」
グラスの中の液体を、もったいなさそうに一口ずつ味わうアミティーを見て、ミケは小さく息を吐いた。
そのときだった。
残った雫まで飲み干した瞬間、アミティーの身体が内側からふわりと青白く光ったように見えた。
「……?」
ミケは目をこする。
だがもう一度見たときには、その光は跡形もなく消えていた。
「……気のせい、でしょうか」
「なに?」
「いえ……」
見間違いだろう。ミケはすぐに忘れた。
「実はお嬢様に、隠していたことがあるのです」
ミケは、いつにもまして、真剣な顔でアミティーに告げた。
「え? なに? 突然」
「私、龍の聖水について調べているうち、とんでもない事実にぶち当たったのです」
「とんでもない事実って?」
ミケが小声で言うものだから、アミティーも小声で聞き返す。
「はい。実は龍の聖水とは……」
「聖水とは?」
「龍のおしっこだったのです」
「えっ!?」
アミティーは驚いて顔を上げる。
「確かに、あのお酒、琥珀色だった……」
「ですので、飲まれるのは控えた方がいいかと」
「そっか~」
アミティーは、何となく残念そうに空のグラスの中身を覗き込んだ。
もちろん、ミケの大嘘である。
こう伝えることで、少しでも飲酒量を減らそうとする、涙ぐましいミケの作戦だった。
龍の聖水とは、龍族の里に流れる清らかな水と、龍族の好む果実から造られる酒の総称である。
もちろん、それを知らないアミティーは、ミケの言葉を完全に信じてしまった。
「なんか、身体がぽかぽかしてきて気持ち良い~。このまましばらく寝ようかな」
アミティーは欠伸を噛み殺しながら目を擦った。
「そうですね。旅は始まったばかりですから」
ミケは柔らかなブランケットを手渡す。
「ありがと……」
アミティーはブランケットにくるまると、ほどなく穏やかな寝息を立て始めた。
馬車はそのまま隣国の神龍教会へ向かう。
そこから転移で総本山へ。
アミティーはもう、振り返る必要はなかった。
「見つかりませんでした。まさか宿の手配まで取り消されていたとは……」
ミケは額の汗を拭いながら、馬車に戻ってきた。
「どういうこと? 私、ちゃんと宿は予約したんだけど」
「確認しましたら、三日前にキャンセルされていました。恐らく、宰相側の仕業かと」
「うそ!?」
「周辺を確認しましたが、代わりの宿もありませんでした」
隣国の教会へ向かう旅人が集中するこの時期は、宿がどこも満室だった。
「こうなったら野宿しかありませんね」
「いいよ、別に」
「国の代表なのですよ? 何かあってからでは遅いですのに」
ミケがブツブツと文句を言う。
「え、護衛もいないんだけど」
「くっ」
ミケが歯噛みする。
宿も護衛も馬車も、すべてアミティーが事前に手配したはずだった。
だが、そのすべてが取り消され、残されていたのは今乗っている馬車だけ。
最新式とは程遠い、型落ちも甚だしい一台だった。
もっとも、古びた馬車だったおかげで、誰からも見向きもされなかったのだが。
「そういえば、ライルたちは?」
「とっくに我々を追い越しましたからね。今頃は高級宿でくつろいでいるんじゃないですか?」
ミケは舌打ちしながら答える。
「なるほど」
「早々に亡命を決められたのは、正解だったと思います」
「つくづくそう思う」
アミティーたちは露店で食料を買い込むと、旅人たちが野営に使う広場へ向かった。
「この辺りは、比較的治安は良いですが、女二人では何かと危険です。人通りの多い場所にしましょう」
「うん」
周囲には、同じように野宿をする女性の旅人も多く、アミティーはほっと息を吐いた。
「お嬢様、最近栄養が足りているせいか、髪が伸びるのが早くなっていますね」
焚火を囲んで簡単な食事をしていると、ふとミケがアミティーに言う。
「え? そう?」
「はい。もう根本がかなり見えています。また染められますか?」
「……う~ん、どうしようかな」
亡命すれば、染めろと命じられることもない。
「眼鏡がないせいでしょうか。前より瞳の色も鮮やかに見えます」
ミケがそう呟きながら、アミティーの瞳をじっと見ていると。
「こんばんは、お嬢様方」
声を掛けられて振り返ると、焚き火の向こうに、大柄で優しそうな青年が立っていた。
「商人のバンと申します」
身なりは質素だが清潔感があり、首からは、いくつもの国の通行証が掛けられている。
「商人さんですか?」
アミティーが尋ねると、青年は目を丸くしたあと、ふっと笑った。
「はい。尊き御人。龍人族のバンと言います。しがない商人です。以後お見知りおきを」
胸に手を当てて、アミティーに向かって一礼するバンに二人は驚いた。
「尊き人って……普通でいいよ」
自分が貴族令嬢だということがバレたのかと思い、アミティーは苦笑する。
「ありがとうございます」
バンは人当たりの良い顔でにかっと笑うと、鞄から、珍しい食材をいくつも取り出した。
「ささやかな出会いの祝いです」
「え、いいんですか?」
「勿論です。この幸運に感謝しなければ」
バンは終始嬉しそうだった。
理由は分からなかったが、二人はありがたく好意を受け取ることにした。
「珍しいですね。私、龍人族と会うの、久しぶりです」
三人で焚火を囲みながら、ミケはバンを見てそう言った。
「この辺りはそうかもしれませんね。でも聖龍会の総本山辺りは、龍人族ばかりですよ」
「龍人族……」
アミティーは、目の前の空のグラスをぎゅっと握り込んだ。
「どうされましたか?」
バンは、アミティーに柔らかく尋ねる。
「ごめんなさい。龍と龍人族の違いがわからなくて」
アミティーは申し訳なさそうに言った。
「龍というのは龍族のことです。龍人族は、その名の通り人の姿しか持たない種族なんですよ」「え!?」
「ですが、龍の血は確実に私の中にも流れているんですよ」
バンはどこか誇らしげに、自分で持ってきた酒を口にした。
「龍の血、入っているんですね」
「はい」
「……ふーん」
アミティーは何やら考え込んだ。
「勉強になりましたね。お嬢様」
「うん!」
アミティーは嬉しそうに頷いた。
「お二人は、ご旅行ですか?」
「お仕事で総本山にいく途中なの」
アミティーは答える。
「それは奇遇ですね。私も総本山にいく予定なのですよ。良ければご一緒しませんか?」
「え? 宜しいのでしょうか?」
「勿論。道中、ご一緒できれば心強いでしょう。どうかお供させてください」
不自然なほど友好的ではあったが、この先の旅を考えれば男手があるのは心強い。
アミティーとミケは顔を見合わせ、小さく頷き合った。
「それでは、お言葉に甘えます」
「ありがとうございます」
バンは目を細め、嬉しそうに笑った。
こうして三人は、総本山まで行動を共にすることになった。
「お嬢様。ついでに、少し買い取ってもらいましょうか?」
「ミケ賢い!」
アミティーに褒められて、ミケは得意げに笑う。
「持ってきたドレスや宝石を買い取って欲しいんですが、大丈夫ですか?」
「勿論! 大歓迎です」
食事を終えると、アミティーとミケはいくつかの商品を見繕い、バンに売った。
「良い取引でした。また御贔屓に」
「こちらこそ、ありがとう」
思いのほか高く買い取ってもらえたアミティーは、増えた金板をほくほくしながら抱き締めた。
「ああ、そうだ。こちらは私からのお礼の品です」
そう言って、バンは豪奢な瓶を取り出した。
見慣れた琥珀色の液体に、アミティーの目の色が変わる。
「え、まさか。龍の聖水!?」
「はい。少しお疲れの様でしたので、よければ」
「ありがとう!」
アミティーはほくほくしながら受け取ると、ぎゅっとそれを抱き締めた。
「疲れに龍の聖水って良いのですか?」
アミティーは尋ねた。
「ええ。人には酒精がきつ過ぎますが、龍族には好まれているんですよ」
バンはそう言って笑ったあと、
「ちょっと失礼。どうやら調子に乗って飲み過ぎたようです」
そう言うと、仮設トイレに行くために席を立った。
「バン様。何か、良いことでもあったのでしょうか? やけに我々に優しいというか、敬われているというか……」
ミケは警戒しながらバンの後ろ姿をじっと見つめた。
「ねえ、ミケ」
「はい」
名を呼ばれて視線を戻すと、空のグラス片手に真剣な顔をしているアミティーと目が合った。
「これ、お願いしてみてくれない?」
アミティーは空のグラスを差し出しかけた。
「……いや」
何かを思いついたように首を振ると、
「こっちの方がいっぱい入るね」
近くに置いてあった両手鍋をミケへ押し付けた。
「? 何のことですか?」
「今、お手洗いに行ったでしょ?」
「はい」
「龍の血を引いてるんだから、龍の聖水もらおうよ」
二人の間に沈黙が落ちる。
「誠に、申し訳ございませんでした!」
ミケは、誠心誠意、その場で土下座したのだった。




