見捨てられた街の、新しい定規
ミライエの広場で暴動が未遂に終わったあの夜から、一ヶ月が経過していた。
世間の目はすっかり神崎修司の次なるターゲットへと移り、帝都ホールディングスの倒産劇も、消費され尽くした過去のニュースとなっていた。
だが、日本中が見捨てたはずのミライエの敷地内では、誰も想像しなかった不格好な「独立国家」が産声を上げていた。
「よし、ここの給水管のバイパス工事、完了だ! テナント街の厨房に完全に水が通るぞ!」
ヘルメットを被った作業員たちの歓声が響く。彼らはかつて給料未払いで暴れ回っていた下請けの男たちだ。
彼らを束ねているのは、親会社からの絶対的な命令ではない。泥まみれの作業着を着た篠原が、一人ひとりの顔と名前を覚え、彼らの疲労度や得意分野を徹底的に把握して組み上げた「血の通ったローテーション」だった。
机上の空論ではない、現場の痛みを知る篠原のマネジメントが、暴徒の群れを強靭な一つのチームへと変えていたのだ。
彼らの作業を金銭面で支えているのは、大和だった。
大和はテナントが抱えていた大量の在庫を、近隣のロードサイドや独自のネット通販ルートで泥臭く売り捌き、日銭を稼ぎ出していた。さらに「見捨てられた街の、ワケあり絶品マルシェ」という逆境を逆手にとった不格好な広告を打ち出し、今やミライエの広場には、週末になると遠方から物珍しさにやってくる客で賑わうようになっていた。
「大和くん! 今日も野菜が完売だよ! アンタの書いたポップ、本当に飛ぶように売れるね!」
青果店の店主が、満面の笑みで売上金の入った封筒を大和に手渡す。大和はその手を両手で強く握り返し、全力で称賛した。
「オヤジさんの野菜が本物だからですよ! あの絶望の中で逃げずに店を開け続けた、オヤジさんの勝ちです!」
ケア施設では、長谷川が構築した独自の医療ネットワークが完全に機能し、周辺の町医者たちが当番制で往診に来てくれるシステムが出来上がっていた。
そして中央広場では、朝倉が近隣の主婦たちを巻き込んで巨大なコミュニティキッチンを運営し、作業員やテナントの人間たちに温かいまかないを提供し続けている。
彼らはもう、大企業という親鳥に餌をねだる雛鳥ではなかった。
自らの足で立ち、自らの手で価値を生み出し、自分たちだけのモノサシで経済を回し始めていたのだ。
しかし、そんな彼らの前に、世間の「冷たい定規」が再び立ち塞がった。
「……呆れたな。不法占拠もここまで来ると立派な犯罪だぞ」
広場に黒塗りの高級車が乗り付けられ、中からスーツ姿の冷徹な男たちが降りてきた。メインバンクから派遣された、債権回収の責任者・沢渡だ。
彼は足元の泥を嫌悪感たっぷりに靴の裏でこすり落としながら、活気づくミライエの広場を蔑むような目で見回した。
「帝都ホールディングスの破産手続きに伴い、この土地と施設はすべて差し押さえられ、転売されることが決まった。お前たちのやっていることは、ただの粗大ゴミの山でのママゴトだ。三日以内に全員ここから立ち去れ」
沢渡の冷酷な通告に、テナントの店主たちや作業員たちの顔に再び絶望の色が浮かびかける。
大企業の論理、銀行の決定。それは、彼らが最も恐れていた「逆らえない絶対的な力」だった。数ヶ月前なら、彼らはここで泣き寝入りし、再び社会の底辺へと散っていっただろう。
だが、大和たち四人は一歩も引かなかった。
「立ち去る理由がありませんね。俺たちは今、自分たちの力でここを黒字化させています」
大和が、泥だらけの売上台帳を沢渡の胸元に突きつけた。
「黒字だと? バカバカしい。そんな日銭でこの巨大施設の維持費が払えると思っているのか。お前たちのやっていることなど、社会的な信用ゼロのホームレスの集会と同じだ。社会の定規で見れば、ここには一円の価値もないんだよ」
沢渡が鼻で笑い、大和の手から台帳を払いのけようとした。
その手を、篠原がガシリと掴んだ。
「社会の定規だと?」
篠原の低い声が、広場に響いた。
「上の顔色だけを見て、現場の人間をただの数字としか見ない。それがお前たちの定規だろうが。そんな腐った定規で、我々が泥水すすって創り上げたこの現場の価値を測れると思うな」
篠原は沢渡を鋭く睨みつけた。かつて彼自身が持っていたエリートの傲慢さを、目の前の男の中に見出していた。だからこそ、その薄っぺらさが痛いほどよくわかった。
「お前たちがここを競売にかけるというなら、受けて立つ。我々が、このミライエの施設を丸ごと買い取ってやる」
篠原の途方もない宣言に、沢渡だけでなく、後ろにいた作業員たちも息を呑んだ。
「買い取る? 冗談も休み休みにしろ。お前らのような素人の集まりに、億単位の融資をする銀行がどこにある!」
「銀行の世話になんかならない」
長谷川が静かに歩み出た。
「俺たちがこれまで自分の足で駆け回り、泥臭く稼いできた『信用』を使います。クラウドファンディング、地元の名士からの直接出資、そしてこの一ヶ月で生まれた独自の経済圏の将来価値。……綺麗事じゃない、血の通った数字で、あんたたちのその腐った定規を叩き折ってやる」
四人の目には、もはや巨大な権力への怯えは微塵もなかった。
彼らの背後では、作業員たちやテナントの店主たちが「俺たちも金なら出すぞ!」「ここは俺たちの街だ!」と次々に声を上げ始めていた。
もはや誰も、他人の評価や大企業の看板に怯えてはいない。自分たちの居場所は自分たちで守るという、強烈な意志の集合体がそこにあった。
沢渡は、理解不能な生き物を見るような目で彼らを見つめ、舌打ちをして車へと逃げ帰っていった。
少し離れた場所から、陣内はその様子を静かに見届けていた。
耳を塞ぎたくなるような現実の壁に対し、彼らは決して逃げず、自分たちのモノサシで真っ向からぶつかっていった。
「……よく育ったな」
陣内はタバコを携帯灰皿にしまい、誰も気づかないほど小さく、しかし確かな誇りを込めて微笑んだ。
もう、彼にできることは何もない。劇薬は完全に回りきり、見捨てられた街に最強の抗体が生まれたのだ。
陣内は背を向け、活気にあふれるミライエの広場から、一人静かに立ち去っていった。




