9話
「暗いな……急ごう」
洞窟を出て直ぐに上を仰げば、相も変わらず炭をぶちまけたような雲が厚く山に絡みついていた。その先は一切見通せず、当然光も遮られていた。洞窟に差し込んでいた光は遠くから鋭角に差し込まれた物に過ぎなかったようだ。それもいずれは雲に呑み込まれてしまいそうに思えて身震いする。やっぱり良いものではない。それは皆が同じように感じるのか、顔を見合わせ、頷いて直ぐに動き出した。
ひたすらに雪原を歩く。どこから吹いているのかさえ分からない風の中、無心に足を動かした。それでも何かに急き立てられる様な感じが背すじをなぞり、何度も後ろを振り返す。いっそ此処で何かいてくれれば良いのに。そう思うがやっぱり何もいない。そうして1日、2日と経った頃だった。
「半分は過ぎたな。天気も良い。これなら山から離れるのも遠くないだろう」
休憩中、完全に黒く染まった雲を眺めながら呟く。もうあの雲を気にするのは止めた。幾ら気にしたってどうしようもなく、何の手掛かりも無いのだから、気にするだけ体力の無駄と全員で話した。今でも嫌な感じはあるが、もうそういうモノとして見ていれば幾分気は楽になった。
「うむ。して、この先にノクスが何処で潜伏しているかが重要だ」
「そうね。ルークの感覚だとどうなの?」
「変わらないな。兎に角この先だ。まぁ、この辺りは誰も知らない場所だから……行ってみないとどうしようもない」
「分かりやすいと、いいね」
「そうだな。でも、アイツの性格で考えれば隠れる、なんて柄じゃなさそうだけどな」
「でも、帝国にずっと隠れてたなら、またそう言う事もあるんじゃないの?」
「いや、国と自然じゃ、大きく違うだろうからな。人目に付かない場所だから、隠れる事は無いと思う」
「あ、そっか」
「えぇ。私もハッキリ、って訳では無いかもしれないけど、分かりにくい所にはいない様に思うわ」
受けているプレッシャーの割に旅が上手く行っている。だから肩の力も少し抜けて喋っている時だった。突如、ウィリアムがグルンと大きな体ごと山の方角へと旋回する。
「!? 全員、構えよ!」
聞いたことがない位に鋭い声だった。実力者の発する何処か焦ったような声は酷く心を揺さぶる。胸の奥が震えるのが耳で分かった。
「どうした!? 何か聞こえたのか?」
言われた通りに武器を持って同じ方を見る。しかし、そこには既に見慣れた黒雲が濛々と立ち込めるばかりだ。
「……ねぇ、何か動いてない?」
横に並んだミラが指を差す。しかし自分の目にはまだ分からない。同じくらいの視力のプロトもまだ目を凝らすようにしている。でもミラもウィリアムも何かが見えている様で、目を細めながら顔が前に少し出た。
「ほら、あそこ!」
遠くを指さしながら少し跳ねる指先をもう一度追う。黒雲が渦巻いている、ように見える。広がるばかりだった周囲の雲を搔き集める様にして巻く雲は、穴の開いた桶のように渦がだんだんと広がり、あれ程広がっていた雲が目に見える速度で巻き取られている様に見えた。
「……離れよう!」
固まっていた身体を跳ねさせて叫ぶ。まだ良く分からないが不吉な予感を発していたものが動き出したのだ。絶対に良いことは起きない。一度は武器を取る様に促したウィリアムも頷いて荷を泥棒の様に掴んで背負う。
「不味いな! 全然あっちの方が早い!」
逃げて直ぐに振り返って叫ぶ。明らかにあっちの変化の方が速い。まだ山頂は見えないがそれでも少しすれば山頂も拝めるだろうと思ってしまう程に雲が一塊になって来ていた。
「それでも走れ! 今は少しも離れるのだ!」
後ろを振り返った事を叱責する様な声が先頭から響く。確かにそうだ。逃げる時は一目散に逃げなくてはならない。しかし、そうも言ってられない出来事が後方で確かな産声を上げた。
それは雷鳴の様であったし、雪崩の様でもあった。兎に角周囲全てを震わせた。空気に罅が入った。地面がずれた。天が裂けた様に思わせた。かなり離れている筈なのに、自分達が立っていることが幻のように感じられた。遠くに見える薄らとした林が傾いた様に見えた。如何に勇敢な獣であっても一切の誇りを捨てて逃げるだろうと思えた。
思わず振り返る。誰もそれを咎めなかった。足は自然と止まっていた。逃げなくてはならないのに、恐怖が足を地面に縫いつけた。
雲が裂けた。いや、絞り出されたと言うべきだった。渦を巻いた先端から、寝ぼけた人間が布団から這い出してくる様にじっくりと、異物が顔を出した。それは無色の様に見えたけれども、よく見てみれば冬だった。白と青のコントラストが余りにも綺麗に合わさっていたから透明に見えたのだ。よく見れば透き通ってなどいない事は明白だった。黒い雲の中で一点、冬そのものが太陽の様に輝いているからだ。
100年に1人の名工が削りだした彫刻を思わせる造形だった。冬が形を為したような、この厳しい環境だからこそ成り立つ美しさと冷酷さが合いまっていた。龍だ。氷龍だ。誰に言われずともそう思ってしまう見た目だった。真なるものに言葉は不要だった。
「……」
誰一人声を発する事は出来なかった。唖然。呆然。突如として自分達が実は酷く矮小な存在なのだと突きつけられた。地に頭を擦りつけて許しを乞うべきだ。なにもされてはいないが、そう思った。災害と何ら変わらない。出会ってしまった事が悪。そうとしか思えなかった。しかし、だからこそ、違和感はよく目立った。
「欠けてる……?」
沈黙に満ちていたから、ミラの声は響いた。黒雲から飛び出して来た氷龍はその全身を中ほどまで表した辺りに異変があった。背に生えた両翼、その片方が見るも無残に砕けていた。それだけではない。よく見れば背中全体に何か、堅いものを打ち付けた様な後が残っていて、目立った傷のない顔との対比が悪い方向に際立ってしまっていた。それこそ完成した彫刻を高い所から落としてしまった時の様な歪さが龍にはあった。
「あの傷……魔法によるものか?」
信じられない。そんな感想が聞こえてきそうな声でウィリアムが呟く。あれ程の龍を傷つけられる様な魔法は既存の中にはない。ただ、ウィリアムの呟きをヒントに、1つだけ直ぐに思い当たるものがあった。
「……ノクスだ」
自分の呟きに仲間がハッとした様な顔を浮かべた。思い当たる物はそれしかない。この先にいるノクスが、今の自分達と同じように此処を抜ける際にあの氷龍と接触したのだ。そして戦闘になって、押しのけたのだと思った。ノクスが負ける想像は何故か付かなかった。でもこの勘は外れていない。根拠は無くとも確信が胸の奥にあった。
全身を表した氷龍に光が燦燦とぶつかって乱反射するのが酷く眩しい。真正面から見ることが出来ない程に輝いているのに、それが酷く冷たいものだとも感じられた。山は頂上が見える様になって、真っ白な姿をしていた。そこから突き出す様な形で氷龍が打ち砕かれた姿をくねらせ、天を仰いだ。
咆哮が響いた。山を揺らして、雪が雪崩に変わった。それでも山は白く、今度は麓が雪埃で一杯になって見えなくなった。もし、昨日だったら巻き込まれていたかもしれないと思った。
「どうする、逃げるか?」
「わからん。動くのも、良い手とは思えんな」
そろりそろりと身を屈めた。急いで荷物から大きな白い布を取り出して被る。目立つ恰好をしているから氷龍から見えてしまう。それを防ぐためだ。でも、こんな事をしても意味が無い、そうも感じられた。
現れた氷龍は周囲を確認するように見渡し、残酷にも自分達がいる方向を見るや否や動きを止めた。目がった。そう思った。折角隠れたが意味がなかった。そう思ったから隠れるのを止めた。でも咎める声は無かったし、全員が意味がなかった事を悟っていた。
「覚悟はいいか?」
問い掛ける。何が目的かは分からないが、あっちがこちらに興味を持って出て来た事は想像に容易かった。それもいい方向ではないことも明らかだ。だから問い掛けた。返ってきたのは武器を握る音だった。
氷龍が欠けて尚、美しい姿で空を飛んだ。片翼でも飛べるのか、でも流石に不細工だなと思った。そんな呑気な事を思っていた自分達の上空、斜め前までやって来た氷龍は、始めて見る顔にも関わらず、酷く怒っている事が分かった。そして滞空すると共に全身で吼えた。
「グッ!? 来るぞぉ!」
余りの音圧に身体が吹き飛ぶんじゃ無いかと思った。会話はない。これが宣戦布告だった。震えは止まない、あれ程ボロボロにも拘らず、自分達の元へやってきたのだ。怒りは相当に違いない。そして咆哮と共に氷龍の背後に陣が浮かび上がり、吹雪が落ちて来た。
「やられてたまるかぁ!!!」
吼えた。次の瞬間、例の感覚が足元から湧き出す。それが切っ掛けかは分からないが氷龍が応えるように吼えて、威力が増した。そして振り抜いた双刃剣から放たれた一撃は氷龍の一撃とぶつかり、凄まじい轟音を響かせた。
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