5 覚醒
聖女カノン・バーガンディと辺境伯ニコラ・ヴァランタインの再会から数日、サントモール村の民がカノンの家屋兼ダイニングを訪れることが多くなっていた。噂が噂を呼び、はじめは村長や廃屋を蘇らせてくれた職人が主な客であったが、その家族や周辺の者たちが連れ立ってカノンを訪ねてくるようになっていったのだ。
中でも、特にカノンの料理を求めて足繁く通う者たちがいた。
「ありがたやありがたや……」
「おばあさま、いつも遠いところ来てくださりありがとうございます」
「カノン様の料理をいただけるならどこへでも参りますとも。ええ、ええ……」
カノンの料理は特殊であった。薬草やハーブ、山菜といった身体に良い食材を用い、なおかつカノン特有の魔法の力が付与されることで、その効能は格段に向上し、たちまち怪我や病が癒えていってしまうという。その評判はサントモール村にとどまらず、ニコラ・ヴァランタインの領地全土にまで広まりを見せていた。
そんなある日、森の警備と称して巡回範囲を押し広げ、わざわざカノンの棲む森まで、これまた足繁く訪れるようになったニコラが、ダイニングにて言葉を交わしていた。
「いつ来てもここは良い。心が安らぎます」
「ニコラ様、そう言っていただけるとわたくし、とても嬉しいです」
「カノン様の夜空のように美しい髪色を眺められるだけでも、この森を訪れる価値があるというものです」
「まぁ……」
この二人の共有する時間は特別であった。互いに信頼を寄せ、尊び合い、そして未来への淡い希望を抱いていた。カノンは平穏な時を、ニコラはそれを護りたいという想いを深め、そうした心通わせる共存の意志が日を追うごとに強まっていったのだ。
「ところで、本日の軽食はまた変わっていますね」
「あ、そうなんです。そちらの村長さんの村で育てている牛さんのお乳から作ったものだそうですよ」
「なるほど、サントモール村の拵えるものはいつも趣深い。これはぜひ我が屋敷にも欲しいものですな」
村長たちが手掛けているもの、それは牛や山羊の乳を発酵させたチーズであった。寝たきりの老人や、四肢に障害を抱えた者のために、ここ最近カノンはサントモール村まで足を伸ばして往診に似た活動を始めていたのだが、その際にお礼としてとある村人から贈られたものであった。牛のチーズをホール丸ごといただいたため、小屋まで運ぶのが一苦労だったとかそうでなかったとか。
「うふふ、ダメですわ。これはこのサントモール村地方だけの特産品なのですから」
「これは失敬。ははは、そうした着想も面白いですな。この地を訪れる旅人が増えるのではないでしょうか」
ふとした歓談から、ある好機を見出したニコラであった。
「そうだ、これを手土産にと思ったのですが、どうせならこの『チーズ』を村おこしの品にしてみてはいかがでしょう」
「わぁ、それは素敵な提案ですわ。サントモール村やこの森も賑わいますもの」
二人の思いつきだけで事を進めるわけにもいかない。そう思い直した二人は、サントモール村の村長らに相談してみることにした。
「チーズをこの村の名物に?」
「ええ、これを求めて旅人も増え、皆様間違いなくお喜びになると思いますわ」
「そうかのぅ……ワシらはただ余りに余った乳をどうにかせんと思って作っただけじゃからのう」
ここサントモール村では古くから、牛やヤギ、羊の乳を得るために放牧酪農という形で多くの家畜を育んでいた。しかし昨今増えすぎてしまい、飼料や土地の問題が生じ始めていたのである。
「魔物にも襲われるんでさァ」
ある酪農を営む村人がそんな悩みを漏らした。魔物にとっては格好の糧となっているのであろう。
「では結界を展開いたしますね」
そう言うと、カノンは薄い膜状の結界を展開した。
「これは……普段とさほど変わらないようですが……本当に張られたのですか?カノン様」
いつもの美しい青空と変わらぬ天を見上げ、ニコラは左右に視線を走らせながら訝しんだ。通常、結界というのはその空間や地域を護る反面、いくつかの弊害を伴う。太陽光を無闇に反射してしまったり、大気の重要な成分を逃してしまったりするのだ。酷いものになれば色や模様が生じて無駄な魔力を浪費する結果となり、結界を維持するためにも触媒や人手といった多大なコストが圧しかかるのである。
「ええ、いま確かに張りました。これは『ムーンライト・アロー』と申しまして、弓矢のように鋭い月光を程よく和らげて通してくれることから命名いたしました。これであれば牛さんやヤギさんも健やかに育ちますし、村人も普段通り生活でき、魔物の襲撃に怯えることもございません」
それを耳にした村人たちが「さすがカノン様だ」などと口々に歓声をあげ始めた。カノンがこの地に身を寄せてからというもの、サントモール村の住人たちはあまたの恩恵を受け、まさにカノンを聖女として崇めるように拝み始めたのだった。
「素晴らしいです、カノン様。私の領地をこのように慈しんでくださることに、私からも心より感謝申し上げます」
ニコラはそう言うとその場に膝を折り、カノンを崇め奉るようにして祈りを捧げるのだった。
山積みのチーズを村人から奉納され、それをニコラの馬車に積み込むと、カノンとニコラ、そして護衛の者たちはカノンの棲む森へと帰路についた。
「さて、この大量のチーズをどのようにいたしましょうか」
カノンはいささか手に余るチーズのホールを見つめながら、かすかに吐息をもらした。
「料理に活用できませんかな?」
ニコラはそんな単純な疑問から、至極明快な着想を提示した。物事というものは、案外自分では気づけないものなのだ。
「そうですね……よし!色々作ってみましょう!」
「ふふ、その意気ですぞ、カノン様」
二人は意見を交わし合い、こうして答えを導き出すことを自然とこなしていた。水を得た魚のように互いの隙間を埋め合うことで、二人の絆はより強固なものとなっていくのだった。
「ところで、この森には結界を張らないのですか?」
「ええ、今のところ必要ありませんわ。あのワンちゃんもおりますし」
「そうですか。もし何か不都合が生じれば私も駆けつけますので、なんなりと」
「ありがとうございます、ニコラ様」
あの地に足を踏み入れた際、最初に出会った魔物、それがいまやカノンの守護となっていた。
「あの魔物に名は付けられたのですか?」
「思案しておりますの。何か愛らしい名前はございませんでしょうか」
「ニコラ様」
二人がそのような語らいを交わしていると、ダイニングの庭周辺を警備していたニコラの部下が、幾分血相を変えた面持ちで店内に現れた。
「どうした」
「はい……それが……」
「なに?それはまことか」
なにやらニコラの表情も一変した。ただならぬ気配に、さすがのカノンも動揺を含んだ声を向けた。
「どうなさったのですか?」
「カノン様、どうか驚かれませんよう」
部下の一人が冷や汗を拭いながら恐る恐る口を開いた。
「カノン様の飼い犬が覚醒しようとしております」
「なんですって?」
カノンはニコラや護衛の者を従えてその場所へと駆け出した。そこには、件の魔物と呼ばれた犬が苦しそうにもがいていたのだった。
「こちらです」
ニコラの従者が、もがく犬からカノンやニコラを遠ざけるようにして一人歩み寄った。
「ウゥ……」
苦しそうに悶える様子ではあるものの、命を落とすほどの苦痛ではなさそうだとカノンは察した。
「わたくしが看てみますわ」
カノンはそう告げると犬へ近づき始めた。「お気をつけください」と、従者が一歩後方からカノンに付いた。
「大丈夫?苦しいの?」
カノンは腰をかがめ、優しくそっと撫でながら犬にささやいた。するとその犬は薄く目を開き、カノンに視線を合わせたその瞬間
『(なを なづけよ)』
カノンの脳裏に突然、高い音と低い音が交ざり合う声のような響きが飛び込んできた。カノンは直感した。この犬が自分に問いかけているのだと。
『(あなたは恐ろしい魔物なの?わたくしにどうしてほしいの?)』
『(われは ふぇんりる しんせいなる まじゅうである)』
『(フェンリル?あの聖なる獣神のフェンリルなの?)』
『(そう はやく なを )』
苦しみが増した気配を感じたカノンは、その言葉に一瞬躊躇したものの、迷うことなく脳裏に閃いた名を呼んだ。
『(リルル あなたのお名前はリルルだよ)』
『(りるる………………)』
その瞬間、犬の姿をした魔物から光が放たれ、辺り一帯が眩い光輝と暴風に包み込まれた。カノンやニコラはその光と風を身に受け、目を覆ってその威圧に耐えた。やがて光と風は静まり、丸く身を縮めていた犬が姿を変えようとしていた。
「に……ん げ……ん…… よ……」
交ざり合う高低の音が次第に重なり合い、やがて心地よい声とともに、その犬が覚醒を果たした。
ポコン!
「ありがとう、かのん!やっとしゃべることができたよ!」
「わわ!」
その犬は覚醒を遂げたものの、その場にいた者たちの期待を大いに裏切り、元の姿よりも遥かに愛らしい姿となって大地を踏み締めていた。
「おしゃべりできるの?リルル」
「うん!わぁ、うれしいなぁ、かのんに助けてもらってよかった〜」
リルルはその場でくるくると回り出し、カノンへ向けて息を荒らしながら尻尾を風車のようにブンブンと振り始めた。
「うふふ。リルル、良かったね。かわいいなぁ」
「かのん〜大好きだよ〜〜」
カノンはリルルをモフモフと揉みしだくように抱きしめた。その慈愛に応えるように、リルルも全体重をカノンの胸元に預け、至上の喜びを全身で表現するのだった。




