12 激情
カノンは丘の上で立ち尽くしていた。最大の危機は回避された。街へ侵入した魔物の軍勢はすべて打ち滅ぼされ、残党は敗走した。逃げ惑う魔物を追うことはなかった。追えなかったのだ。あまりにも犠牲者が多すぎた。すんでのところで王宮への侵入こそ免れたものの、街は崩壊していた。市民が暮らす市街がこれほどの惨状では、当分の再起も難しい。現状を考えれば、近い未来に再び同じ悲劇が起きてしまうことは明白だった。
無惨にも果てしなく広がる荒野を眼下に見下ろしながら、カノンは思いを巡らせていた。
『この地に私が留まってさえいれば』
そんな後悔も頭をよぎった。あの時、強く固辞してでも王都に残るべきだった。自分が守るべきものは何だったのかをもっとよく考え、行動すべきだったと、胸を激しく締め付けられるような悔恨に苛まれた。
この無情な惨劇を招いたのは自分だ。自身の責任だと強く責め立てた。一度は諦めようとしていた人生をニコラとの出会いによって救われ、再び新たな未来を夢見ることができたはずだった。
しかし、もうこれですべて終わりだ。生きている意味などどこにもありはしない。自分の存在にはひとつも価値などない。そう自らを極限まで追い込んだカノンは、残党の処理から帰還しようとするリルルを待つこともなく、自ら意識を手放した。カノンは膝から力を失い、そのまま高台の丘から崩れ落ちようとした。
「カノン様!」
その時、鋭い声とともに強い抱擁がカノンの背中を包み込んだ。
「何をなさろうとしているのですか!」
その者は力強くカノンの身体に腕を回し、叫んだ。
失いかけていた意識を再び現世へと呼び戻されたカノンは、うっすらと瞼を開いた。そこには誰よりも温かく、強い心を与えてくれたニコラの姿があった。
「あなた様がいなくなってしまっては困ります!」
ニコラは声を荒らげ、カノンの身体を強く抱きしめた。
「だって……!わたくしにはもう、この世界は辛いんです……!わたくしのせいでこんな……!」
溢れ出る涙を両手のひらで抑え、カノンは顔を覆った。嗚咽とともに身体が細かく震え、抱き続けるニコラの腕にもその動揺が伝わった。
「いいえ!あなたがこれほどまでにご自分を責める必要はございません!」
カノンの身体を苛む激しい震えを抑え込もうと、ニコラはさらに強く抱擁した。ニコラは片膝をつき、カノンの全身を必死に支えた。
「お願いです……死なせてください……」
カノンは最期の言葉のようにそう遺し、ほんの少し唇を開いて舌を噛もうとした。その瞬間——
「…………!」
ニコラはカノンの唇を自らの口づけで塞いだ。カノンは何が起きたのか理解できぬまま、勢い余って噛みついてしまった。
「…………はっ!ニコラ様、なんてことを!」
カノンの見開かれた瞳には、唇から血を流しながらも笑みを浮かべるニコラの姿が映っていた。
「……ふふ……初めての接吻は、もっとロマンチックな方がよろしかったですな」
目を細め、あくまで優しい眼差しでカノンを見つめるニコラであった。
「ああ……ニコラ様……ごめんなさい、わたくし……!」
「カノン様、あなた様がいなくなってしまって困るのは世界ではありません。この、私です」
そう微笑み続けるニコラは言葉を重ねると、カノンを再び強く抱きしめた。
「……ああ、ニコラ様……ありがとう」
ニコラの胸に抱かれ、その温もりの中でカノンは淡い笑顔を浮かべた。薄れゆく意識のなか、最後に何かを囁き、深い眠りの底へと誘われていった。
眠るカノンを横抱きにし、ゲオルク王子が駐屯していた詰所へと赴いたニコラは、負傷や疲労に倒れる兵士たちを横切り、ゲオルクの前に立ち塞がった。
「ニコラか。この度はよくやった。褒めて遣わすぞ」
ゲオルクは傷の手当を受けながら、目の前に立ち続けるニコラを見上げてそう口にした。
「ゲオルク王子。私はほとんど貢献しておりませぬ。こちらにおられる聖女カノン様の奮闘こそがすべてでございます」
破れかけた白いローブを纏うカノンを、ニコラは今も抱きかかえていた。カノンの携えていた魔導士の杖はニコラが背に背負っていたが、先端の魔導宝珠は半壊していた。激戦の苛烈さを物語っているかのようだった。
「そ、そうか。はは、よくやったなカノン。お前はまた王宮に仕えさせてやってもいいぞ」
眠るカノンへ向けて言い放たれたゲオルクのその顔は歪んでいた。片頬だけで笑う歪な口元と尊大な物言いは、ニコラの胸に激しい憤怒の炎をくべるのに十分であった。
「ぐわっ!」
その時、ゲオルクの顔面は重厚なハードブーツの靴底で激しく蹴飛ばされた。ゲオルクは後方へと転がり、頭部を強く打った。
「な……何をなさるのですかニコラ様!」
ゲオルクの手当をしていた救急兵が悲鳴を上げた。あまりの事態に周囲の者たちは驚き慄いた。しかし、仁王立ちし強烈な怒りの気を纏うニコラに対し、誰も声をかけることも動くこともできずにいた。
「勘違いされては困りますな、ゲオルク王子。私たちはそのような安い言葉のために働いたのではございません」
ゲオルクはどうにか上半身を起こし、救急兵から受け取った手拭いで鼻血を拭いながらニコラを見上げた。
「……このようなことをして、タダで済むと思っているのかニコラ貴様」
「ほう、ではどうなさるおつもりですか。まさかこの窮状を救ったカノン様と私を牢にでも閉じ込めますか」
カノンが意識を失う直前、『すべてはニコラに託す』と言葉を遺していた。それは自分とニコラが一心同体であり、ニコラの行動の責任は自分も負うという意味でもあった。
「くっ……それとこれとは別だ。何をしている、早くこいつらを捕らえろ!」
ゲオルクは部下に指示を飛ばす。しかし、部下たちはニコラの発する圧倒的な気圧に呑まれ、硬直していた。
「私に近づく者は、すべて同じ目に遭うと思え。それが嫌ならば、今から私の言うことを大人しく聞いていろ」
ニコラは横抱きにしていたカノンを抱え直し、深く息を吐き出すと、静かに言葉を紡いだ。
「街を崩壊させ、兵士のみならず市民を巻き添えにして多くの命を失わせたのは、ゲオルク王子、まさにあなたの愚かな執政が招いた結果だ」
峻烈なニコラの糾弾に、ゲオルクは反論の手立てを失っていた。
ニコラは続ける。
「私たちが今日この場、この窮状に駆けつけたのは、あなた方王家のためにではない。すべては市民を守り、街を守りたい一心でこの地へ来たのだ」
ニコラは抱きかかえたカノンの汚れた頬を見つめ、再び言葉を繋いだ。
「カノン様の守護神獣フェンリルがこの異変を感じ取り、私が王都へ向かうと口にした瞬間には、すでにカノン様は立ち上がっておられた。フェンリルもカノン様をこの地へと運び、すべての力を使い果たして私たちと共に懸命に戦った。国の為政者たる者が、この命懸けで窮地を救った者に対する態度がそれか。まずは疲弊を労い、追って王宮へと招いて礼を尽くし、相応の報奨を下すのが英雄に対する最低限の礼義であろう」
ゲオルクは何も言い返せず、俯いたまま地面を見つめることしかできなかった。
「カノン様は誰よりも市民を守りたい一心であった。私には民を守るガーディアンとしての使命があるが、今のカノン様にはそのような責務などどこにもない。にもかかわらず、身一つでこちらへと向かわれた。それがどういう意味かお分かりか。カノン様の民を想い、世の安寧を願う心は、あなた方などより遥かに気高きものだ」
ゲオルクの身体が震えていた。自分は安全な王宮で暮らし、民の安否など平素から顧みてもいなかった。財のことばかりを気にかけ、他者からの体面ばかりを察する日々を思い返し、ニコラだけでなく周囲の誰の目も見ることができなくなっていた。
「だが、此度のあなたに唯一救える点があるとすれば、それは誰よりも先頭に立って戦ったことだ。訓練衛兵時代、同じ釜の飯を食った仲間だからこそわかる。ゲオルクよ、そこだけは認めてやろう」
ゲオルクはついに決壊したように嗚咽を漏らした。涙が溢れ、喉を落ちる体液に思わず咳き込んだ。ついには胸を押さえ、その場に突っ伏してしまった。
その姿を高い位置から見下ろしていたニコラは、ゲオルクの呼吸が少し落ち着くのを待ち、先ほどよりも低い声で最後の言葉を注いだ。
「もしあなたのその涙が、この惨状の代償になるとお考えなら、それはあまりにも脆く、軽い。命というのはそれほど易いものではない。この国を治める者として、命の重みをこれから学ぶといい」
いまだ嗚咽に震え続けるゲオルクを背に、ニコラはカノンを抱え直し、駐屯地から静かに去っていった。




