10 みのり
カノンやニコラ、村の住人たちが王都ロックフォールの城下町カマンベールにて炊き出しの配給をしてから、数日が経った。これからも定期的に活動を続けるべく、料理の味付けやレパートリーについて知恵を絞っていた。
「カマンベール一丁目の住人が屋台を預かってくれるそうです」
先日の炊き出しの際、ニコラの部下が交渉をまとめていたのだ。町人たちはカノンへ拝むように感謝を捧げ、再訪を強く願った。カノンとしても森のダイニングを疎かにはできず、一度始めた以上は責任を持って出張屋台を絶対に辞めないという確固たる意志を抱いていた。
「王都から参りました」
やがて噂が噂を呼び、カノンの棲む森のダイニングまで直々に足を運ぶ者さえ現れた。
「こちらの森も発展なさるとか」
どこから聞きつけたのかは定かではないが、以前ニコラが提案した街道整備に関する情報が一部漏洩しているようだった。大した問題ではないにせよ、多少の統制は必要であるとニコラは考えた。
森へ向けて街道を整備し、豊かな自然を壊さぬよう切り拓いた末に何を目指すのか。そしてその土地に規制は必要なのか。それは流入する人材次第であり、何を求めて森に移り住みたいのかにもよる。そうしたまだ見ぬ未来に、カノンは一抹の不安を抱きつつも、ほんのわずかな希望を寄せていた。
この森に来てから久しいが、未だカノンの心が真に癒えることはなかった。時折訪ねてくるニコラへ淡いときめきを覚えることはあっても、芯から心を許すまでには至っていない。しかしニコラもまた、そんなカノンに無闇に近づきすぎることはせず、必要な時に必要な手助けをするにとどめていた。二人の距離は近いようでいて、いまだ遠い存在でもあった。
それから数日後。
「ゲオルク様、何やらカマンベール中央区にて怪しい動きがございます」
「何だ、そんなものはお前たちで処理しておけ」
「あの……その、誠に申し上げにくいのですが……」
「あん?なんだ?…………なにぃ!?」
警備兵からの伝令を受け、王宮官僚たちが王子ゲオルクに報告したこと、それはカノンたちがカマンベール中央区の公園にて炊き出しをしているということだった。
「追放したはずの女が城下町で民の支持を集めているだと……?」
民の心が自分ではなくカノンへ傾きつつあるという事実は、ゲオルクにとって何より容認しがたい恐怖であり、政治的な危機でもあった。それを聞き捨てならなかったゲオルクはすぐに挙兵し、カノンが行っていた活動の元へと急行した。
「うめえうめえ……」
「おとうちゃん、よかったね……」
「ああ……本当に助かった……カノン様、本当にありがとうごぜえますだ」
「カノン様、おとうちゃんの病気、この間お料理を頂いてからすごく良くなったんです。本当に嬉しくて……ありがとうございます……」
以前から原因不明の病に悩まされていた父を持つ娘は、涙ながらにカノンへ何度も礼を述べ、頭を下げ続けた。
「うふふ、よかったね。本当に親孝行だね……これからもお父様をお大事になさってね」
カノンの目尻にも光るものがあった。その涙を目にした娘もまた、同じように涙を零し続けた。
「はい……!私、カノン様のように毎日祈りを捧げます。どうか、この世に安寧が訪れますように」
病弱だった父を持つこの娘も、いずれは敬虔な信徒となるのだろうか。まだおぼつかない手つきで胸の前で手を組み、そっと目を閉じてカノンへ祈りを捧げるのだった。
「カノン様、うちの畑もここのところ荒らされなくなったんです」
「カノン様の結界のおかげですじゃ」
「うちもまったく魔物が来なくなりましてねぇ」
「日焼けせずに外に出られるのが本当にありがたいです」
「ありがとうございます」
「本当に嬉しいです。感謝いたします」
口々にカノンとその一行へ礼を述べる市民たちであった。今までの苦しみを忘れてしまうほどに。
それにしても、ついにというか、あっけなく身元が露見してしまったカノンであった。しかしそれほど大騒ぎになることもなく、かといってそれを疎ましく思う者もいない。こればかりはカノンの人望というべきか、カマンベールの町の住人の人柄と言うべきか。何はともあれ、そこには穏やかで温かな空間が広がっていた。
「おいおいおいおいおいおい」
そこへ、招かれざる者が現れた。その者は複数の従者を連れ、そればかりか重装備を身に纏い、まるで敵に対峙するかのような装いであった。
「これはゲオルク王子」
カノンの周辺警備を行っていたニコラがその場に跪き、王家に対する最大限の敬礼を取った。
「ニコラ・ヴァランタインよ。お主はこのような場所で何をしているのだ」
「はっ、ご覧の通りにございます。市民への配給活動でございます」
「なぜこのようなことをしているのかと問うているのだ」
明らかに不機嫌さを全身から漂わせるゲオルクであった。
「そうですね、それはゲオルク王子もよくご存じなのではございませんか」
ニコラは跪いたまま、目を閉じて静かにそう呟いた。
「何だと!?ニコラよ、よくもまあそんな口が叩けるようになったものだな」
ゲオルクは煽りとも取れるニコラの言動に激怒した。そしてあろうことか、暴挙とも言える行動に出た。
「おい、そこのほっかむりをしている女」
カノンは俯き、震えていた。覚悟はしているつもりだった。しかし思いと心は裏腹にトラウマが蘇り、その声と姿の影に怯え、手足が凍りついたように動かなかった。屋台に並んでいた一般市民たちも突然の王子の出現に恐れおののき、その場に平伏していた。
「おい、お前。カノンであろう。なぜこのようなことをしている」
さらに背筋へ戦慄が走り、頭頂部から大量の冷や汗を流した。その問いかけに答えることができず、そのままその場に崩れ落ちそうになった。
その時、ニコラがカノンを優しく受け止めた。とうに気を失っていたカノンは、ぐったりとニコラの腕の中に倒れ込んだ。
「ゲオルク様、今日のところはお引き取りいただけませんか」
「ははは、そうはいかん。おい、やれ!」
ゲオルクは部下の兵たちに顎をしゃくって命令を下した。屋台を取り壊し、ニコラの従者やサントモール村、ゴルゴンゾーラ町の民たちを逮捕せよと命じたのだ。
兵が一斉に取り囲み、万事休すと思われたその時
「う、うわあああ!」
「な、何だこの光は!」
ニコラが抱き留めていたカノンの身体の中心から、眩い光が溢れ出た。その光は天まで届くほどの輝く筋となって空を照らし、周囲にいる者たちの瞼を強制的に閉じさせた。
「ぎゃああ!目がぁ!」
思わずゲオルクも手で目を塞ぎ、その場に膝をついた。他の者たちはその激しい光に耐えきれず、逃げ惑う者まで現れた。ニコラの部下や村長たちも目を塞ぎ、地面に突っ伏した。
しかし、ニコラだけは真っ直ぐにカノンを見つめ続けた。海よりも深く、大地よりも強固な慈愛がそこにはあった。それが聖なる存在への畏怖と崇拝によるものなのか、それとも一人の女性へ抱く感情なのか、ニコラ自身、未だその境界を整理できずにいた。だが今この時だけは、彼女を護る盾でありたいと強く願うのだった。
眩い光に後ずさる者たちを横目に、ニコラはその顛末を見届け、緩やかに抱擁を解いていった。
「カノン様」
「嬢ちゃん、平気かの?」
揺れる馬車の中で目を覚まし、ゆっくりと瞼を開いたカノンは、今日起きた出来事の説明を受けていた。身体の不調はなく、気分もそれほど悪くはないとのことだった。しかしこのようなことが再び起きないとも限らず、不安を拭えぬままの帰路であった。
「そんなことになっていたなんて……ご迷惑をおかけしました、皆さん」
「いやいや、嬢ちゃんが無事で本当によかったべ」
「そうです。私たちには何も起きなかったのですから。カノン様の御心が私たちをお守りくださったのです」
ニコラはそう言うと、祈りを捧げた。敬虔なニコラは常に神に祈り、感謝を捧げる日々を送っていたのだ。カノンのような聖なる存在に対し、ニコラは胸を打たれていた。
「ありがとうございます。私、負けませんわ」
「おお、その意気じゃぞ、嬢ちゃん」
「ええ……どうかあまりご無理をなさらないでくださいね……」
今日という日はまた忘れ得ぬ一日となったが、それは確かな前進であり、同時に新たな課題ともなった、実りある一日であった。




