30_ありがとう
「風渡!」
椿が地面を蹴ると同時に風が弾ける。
地面から何かが破裂するような音が響き、彼女は矢のような疾さで人々の視界から消え、三十メートルはありそうな距離を一瞬にして埋めた。
母が覆い被さるように娘を抱きしめる。
そして、どぉん!という轟音と、硝子の割れる細かな高音が同時に聞こえた。
電気吊燈が床に叩きつけられるように落下したのだ。
その様子を見ていた周囲の人たちから、か細い声が聞こえる。
皆、見てしまったのだ。
母娘が、電気吊燈の下敷きになってしまった、と。
大人でもあの高さからの直撃では即死するだろう。
年端もいかない幼女では、おそらく直視することすらできない状態であろう——。
誰もがそう思っていた。
「お、おい。あれ……」
若い華族が、震える指で広間の中央を指した。
舞い上がった粉塵が、ゆっくりと降りていく。
その中に、——三つの影が浮かび上がった。
丸くうずくまりながらも、娘を守ろうとにしっかりと抱き寄せる母親。
そして、落下してきた電気吊燈を真下から受けるように静かに立つ、凛とした姿の少女。
その三人の上に、大きな傘が見えた。
否、傘と呼ぶにはあまりに美しい。皆がいっそう目を凝らす。
「帯……?」と誰かが呟いた。
椿の背にある錦の帯が、大きく伸び、広がり、傘のように三人を覆っていたのだ。
「間に合いました」
細かい硝子の破片が、しゃらしゃらと三人を覆う帯から滑り落ちる音。
母親は娘を抱きしめたまま、恐る恐る顔を上げた。
そして、その手に抱いた娘を見る。
顔にも、手にも傷はなく、硝子の破片一つ刺さっていない。
「頼子……!」
震える手で娘の頬に触れる。
「お母さん!」
頼子もまた母親の顔を見上げて、その小さい手でぎゅっと母の腕を掴んだ。
「頼子…!頼子!あぁ、本当に…よかった……!」
堰を切ったように安堵し、母親が涙を流しながら頼子のことを強く抱いた。
椿はその様子を見ながら、目元を和らげる。
「お二人ともご無事でよかったです」
その声に母親が振り返り、椿の顔を見上げた。
「あぁ…あなたが助けてくれたのね…本当に…本当になんとお礼を言ったら良いか…!」
母親はまだ立ち上がれない様子だが、椿の方へにじり寄って手に触れ「ありがとう、ありがとう…」と掠れた声で何度も礼を言った。
「助かった…んだよな」
広間の外側にいる一人が呟く。
「三人とも無事だ!」
また別の誰かが、大声で叫んだ。
「信じられん!あんな小さい人形が助けおった!」
「しかも喋ってなかったか?」
「ばかっ!そんなこたどうでも良いんだよ!それよりあんな仕込み帯で防ぐなんて!」
「あれも機巧なのかな?」
「なんでも良い!よかったじゃねぇか!」
「俺知ってるぜ!御影の人形だろ!」
「あそこか!なら納得だな!」
様々な言葉が飛び交い、歓声と拍手が起きる。
椿は、広間の外で賞賛されているその様子を見渡し、静かにお辞儀をした。
この広間の自律人形は全て鎮静化した。
自分はただ、主の命を遂行しただけなのだ。
けれど、母親に抱かれた頼子が、涙の跡を残したまま、椿に手を振っている。
それを見て、椿も微笑み、小さく手を振りかえした。




