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30/37

30_ありがとう

風渡(かざわたり)!」


 椿が地面を蹴ると同時に風が弾ける。


 地面から何かが破裂するような音が響き、彼女は矢のような疾さで人々の視界から消え、三十メートルはありそうな距離を一瞬にして埋めた。


 母が覆い被さるように娘を抱きしめる。

 そして、どぉん!という轟音と、硝子の割れる細かな高音が同時に聞こえた。


 電気吊燈(シャンデリア)が床に叩きつけられるように落下したのだ。


 その様子を見ていた周囲の人たちから、か細い声が聞こえる。


 皆、見てしまったのだ。


 母娘が、電気吊燈(シャンデリア)の下敷きになってしまった、と。


 大人でもあの高さからの直撃では即死するだろう。

 年端もいかない幼女では、おそらく直視することすらできない状態であろう——。

 誰もがそう思っていた。


「お、おい。あれ……」


 若い華族が、震える指で広間の中央を指した。

 舞い上がった粉塵が、ゆっくりと降りていく。

 その中に、——三つの影が浮かび上がった。

 丸くうずくまりながらも、娘を守ろうとにしっかりと抱き寄せる母親。


 そして、落下してきた電気吊燈(シャンデリア)を真下から受けるように静かに立つ、凛とした姿の少女。

 その三人の上に、大きな傘が見えた。

 否、傘と呼ぶにはあまりに美しい。皆がいっそう目を凝らす。


「帯……?」と誰かが呟いた。


 椿の背にある錦の帯が、大きく伸び、広がり、傘のように三人を覆っていたのだ。


「間に合いました」


 細かい硝子の破片が、しゃらしゃらと三人を覆う帯から滑り落ちる音。

 母親は娘を抱きしめたまま、恐る恐る顔を上げた。

 そして、その手に抱いた娘を見る。

 顔にも、手にも傷はなく、硝子の破片一つ刺さっていない。


「頼子……!」

 震える手で娘の頬に触れる。


「お母さん!」

 頼子もまた母親の顔を見上げて、その小さい手でぎゅっと母の腕を掴んだ。


「頼子…!頼子!あぁ、本当に…よかった……!」

 堰を切ったように安堵し、母親が涙を流しながら頼子のことを強く抱いた。

 椿はその様子を見ながら、目元を和らげる。


「お二人ともご無事でよかったです」


 その声に母親が振り返り、椿の顔を見上げた。

「あぁ…あなたが助けてくれたのね…本当に…本当になんとお礼を言ったら良いか…!」

 母親はまだ立ち上がれない様子だが、椿の方へにじり寄って手に触れ「ありがとう、ありがとう…」と掠れた声で何度も礼を言った。


「助かった…んだよな」

 広間の外側にいる一人が呟く。


「三人とも無事だ!」

 また別の誰かが、大声で叫んだ。


「信じられん!あんな小さい人形が助けおった!」

「しかも喋ってなかったか?」

「ばかっ!そんなこたどうでも良いんだよ!それよりあんな仕込み帯で防ぐなんて!」

「あれも機巧(カラクリ)なのかな?」

「なんでも良い!よかったじゃねぇか!」

「俺知ってるぜ!御影の人形だろ!」

「あそこか!なら納得だな!」


 様々な言葉が飛び交い、歓声と拍手が起きる。

 椿は、広間の外で賞賛されているその様子を見渡し、静かにお辞儀をした。

 この広間の自律人形は全て鎮静化した。

 自分はただ、主の命を遂行しただけなのだ。

 けれど、母親に抱かれた頼子が、涙の跡を残したまま、椿に手を振っている。

 それを見て、椿も微笑み、小さく手を振りかえした。

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