3_妖
▪️第一章
「上手くやるんじゃぞー」
酩酊気味の祖父は玄関先で徳利を持った方の腕を振り、見送ると工房の奥の母屋へと姿を消していった。
そして灯真と椿は氷室が運転する蒸気自動車に乗り、鷲尾侯爵の屋敷へと向かうことにした。
車窓から外を眺めていると、時折車輪の脇から吐き出された白い蒸気が深夜の景色と共に流されていく。
半刻ほど西に向かって進んでいくと、大きな屋敷が見えてきた。
車が屋敷の門をくぐる。
砂利を踏む車輪の音が、窮屈そうに車内に響いた。
「——到着いたしました」
「どうも」と言って灯真は車の扉を開ける。
「広いですね」
灯真は顔を顰めながら辺りを見回す。
氷室が車を止めたのは門を入ってすぐの場所だ。
まっすぐ進めば屋敷があることは夜目にもわかるのだが、距離はそれなりにある。
「さすが、侯爵様ともなるとすごいなぁ」
ぽつりぽつりと佇むような瓦斯灯は、自分の周りを照らすのに精一杯で庭の全容はわからない。
「こちらでございます」
氷室は迷うことなく、瓦斯灯とは異なる方向に歩き出す。
「あちらではないのですか?」
灯真が微かに揺らぐ光を指差す。
「はい……まずは事が起きた場所を見ていただきたいのです」
「なるほど」
灯真は納得したという表情で氷室に微笑みかけた。
「ちなみに、鷲尾卿は息災ですか」
「はぁ……そうですね。今はお休みになられております」
「こんな時間に我々を働かせておいて?」
灯真は少しオーバーに目を見開き、驚いてみせた。
「侯爵様の朝はお早い。余計な心労をかけぬよう、解決したいのです」
「そうですか…ではその妖を早く退治してしまわねば」
「えぇ、ぜひそうしていただきたいです」
「なるほど。やっぱりそうなのですね」
「——はい?」
ぴたりと、氷室の足が止まる。
先導していた鷲尾卿の使いと称していた壮年の紳士が、振り返り灯真を見る。
「あなたは最初、自律人形が女中を殺めた、と言った」
闇と同化しそうな陰鬱な顔がこちらに向いている。
「怪異と言った。式神札を見ても雑務をこなす命令しか書かれていなかったとも言った。しかし」
灯真は目を細め、目の前の男を睨める。
「妖がやった、とは一言も」
「……そう、でしたかな。申し訳ありません、伝わっているかと思っておりましたので」
「あなたはその妖を視たのですか?」
「いえ……」
「なるほど、そうでしょうね。妖は鏡に映らないですから」
自分を見ることはできないだろうなぁ、と云った。
その瞬間。
霧が濃くなり、夜の暗がりが少しだけ白んだ。
氷室の目だけが微かに歪む。
灯真は僅かに口元を上げて氷室を指差す
「お前がやったのだろう?」
「はて……何を」
「あぁ、臭いがわからない類か。門を入ってから死臭がひどいぞ」
その時、氷室は初めて意外だ、と言った顔をした。
そして。
「ふ、……ふふ」
笑い声が、揺れた。
端正だった声の、つるりとした表面にひび割れのような亀裂が生じる。
「いつから、気づいて、おられたので?」
「最初から」
灯真はふっと息を吐いた。
「うちの工房には結界が張ってある。赦しのない妖は敷居を跨げない。だからお前は戸を叩くしかできなかった」
「なら、なぜ招き入れた」
「だってお前、入れなかったら表で暴れてただろう?」
しん、と静まる。
「俺は迷ったんだがな。爺ちゃんが入れろって言うから通してやった」
「……ひゃっ、ひゃひゃひゃ」
びりびりとした独特の不快な音を出した。嗤ったのだろう。
「ご、ご老体も、ぐる、で、ございましたかァ」
言葉とは裏腹に慇懃な響きは姿を消し、高音と低音が入り混じった湿った声。
氷室の、いや、氷室と名乗ったモノの笑みの形が、ぐにゃり、と横に広がった。
「然シ、見くビられたモノダ。あの老陰陽師ならまだシも、お、お前みたいな小僧ガ!」
ぎちぎち、と。
背広の縫い目が、内側から軋み、膨らみ、盛り上がる。
痩せた頬の下の関節めいたものが、いくつもいくつも、折りたたまれては伸びていく。
「いや、結構。結構ですトも。若い方が旨イ、ウマい」
闇に沈んだ眼窩に、ぽつ、ぽつ、ぽつ、と。
赤い光がひとつ、ふたつと増えていく。
「一応聞いてみるけど、屋敷の人たちは」
「モチロン喰ってやったわ。あァ——腹が減っタ。お前も…オマエも喰らってやろう!!」
ずるり、と背広が裂けた。




