28_黒蛇
「謹請——軍荼利明王が纏いし眷属よ、無心の器に宿り、蟠れ……!——蟠蛇瓶」
吉利がその宝具の名を口にした瞬間、瓶口で蠢いていたものが、ずるりと落ちた。
いや、這いずり落ちたというべきか。一つではない。黒煙のような細い筋が、泥の底からぶくりと浮かび上がっては這いずり落ちるように、幾筋も出てくる。
やがて茫洋としていた姿をはっきりと視認できる頃、黒煙は床を埋め尽くすほどの黒蛇となっていた。
「行け!」
吉利が命じると、黒蛇たちは互いの身体を乗り越え、扉の下の僅かな隙間や空気口へと殺到し、壁や天井、階段の手摺りを伝って一階へと降りていく。
蛇たちが散るのを見届けると、吉利は小瓶を拾い上げ、懐に収めた。それから廊下へ出て、右手に向かって歩くと、すぐに吹き抜けの踊り場がある。
その踊り場から手摺りを持ち、吉利は階下を見下ろした。
明るく、優雅な音楽が流れている。
その空間を波を描くように這いながら、蛇たちが伝っていく。
その姿は、術者にしか見えない。人々の足元を、スーツの袖口や首筋をすり抜けていた。
「——ふふ」
楽しみだ、そう思いながら吉利は目を細めた。
この光景が、あと数呼吸でどうなるか。それを知っているのは、自分一人なのだ。
***
「なんだ……?」
ぞわぞわとする気配を感じて、灯真は辺りを見渡した。
特に変わった様子はない。皆、立食をしながら談笑している。
「どうかされましたか?」
椿が、灯真の様子に気付き声をかけた。
「いや……なんかめちゃくちゃ嫌な気配がする」
「気配……妖でございますか?」
「違う。妖なら椿もわかるだろう?」
「そう、でございますね。申し訳ございません。私には何も…」
「しかも一つじゃない。一定でもない。分散してるな」
独り言のように言いながら目を凝らすが、やはり何も見えない。だがこの感じは只事ではないと、灯真の勘がけたたましく警報を鳴らしている。
二本の指を揃え、術を唱えようとした時——
『ギィイ!!』
金田一が用意した神楽殿の舞台下からはっきりと聞こえる奇妙な鳴き声と、何かが焦げた匂いがした。
「あれは……」と椿が気付き、灯真もそちらに走っていく。
そこには、結界によって弾かれた蛇が、雷に撃たれたように焦げていた。
「退魔用に張ってた結界が反応した。これは……!」
その時、離れたところから悲鳴が聞こえた。
そちらを見ると、銀盆を持った給仕用の自律人形が招待客の男の腕を掴んでいた。それは、側から見ても強い力で握られていることがわかるほど食い込んでいた。
「な、何を…やめ…」
男が振り解こうとしても人形は離さない。関節の軋む音。
「ぅがぁぁぁ!」
男の腕が、骨格の構造を無視した方向へ曲がる。
近くにいた係員が人形の背後へ周り、背中にある停止栓を引いた。
蒸気が短く噴き出し、胸の内側で回っていた歯車が止まる……はずだった。
「た、頼む…!だれか…!」
人形の動きは止まらない。狼狽する係員は吹き飛ばされ、男は痛みと恐怖に泣き喚いている。
しかし人の心を持たぬ人形が容赦なく、さらに男を投げ飛ばすほどの力を入れようとした時。
「——斬!」
灯真が、破魔の剣を使い、人形の腕を切り落とした。
腕を切られた人形がバランスを崩し、よろめく。その瞬間に間合いを詰め、人形の胸に札を貼る。
「急急如律令——解!」
二本指を揃えて唱えると、給仕人形は胸と背中から黒い蒸気を出し、項垂れるように停止した。
「き、君、その刀は……」
「木刀だ!!」
係員らしき男が確認してきたので、灯真は持っている剣をずい、と前に出す。
「あ、あぁ木刀か……いや助かったよ。ありがとう」
この時代、警察官などの政府関係者を除き帯刀は禁止されている。破魔の剣は、呪力によって強化されているが、灯真が命じない限り見た目は黒い木刀だ。
しかし騒ぎはここだけではなかった。
二つ、三つと重なり、あっという間に広間中に広がっていく。
大手企業による最新の自律人形も、舶来のヴァイオリン演奏人形も、微笑みの形に固定されたその唇のまま、人々を襲い始めたのだ。
「椿!楽奏人形たち!」
灯真の呼びかけに、五体の人形たちが神楽殿の舞台から跳躍してくる。
「灯真様、どうか我らにご命令を」
先頭で跪く椿に向かって灯真が命じる。
「人命救助を最優先。暴れてる人形は止めろ。人を襲っているならどれだけ高価だろうが壊してオッケーだ。散!」
「は!」と椿が短く言うと同時に、五体の人形たちは会場中に散った。
「さて、俺は……」と言って灯真は会場中を見回す。
能力的にはおそらく人形などの器に乗り移り操作する類のもの。だとしたら術者は会場にいるはずだ。
「この厄介な術を使った奴を見つけないとな」




