27_蟠蛇瓶(ばんじゃびょう)
灯真は振り返らずにその場を立ち去った。
多分、酷い剣幕だったのだろう。ボディガードとして付いていた男二人は、灯真を避けるように道を開けた。
だが女の方だけは、直近を通っても身じろぎ一つしなかった。黒眼鏡の奥から視線は感じるがその表情は読み取れなかった。
微かな、香の匂い。甘ったるい香りだった。
それらを振り払うように人が行き交う会場へ戻ると、幾分歩く速度を緩めてから、深く息を吸って、吐いた。それを何度か繰り返すうちに漸く、頭の中に充満していた怒りが薄まる気がした。
「……よし」
椿たちにこの顔は見せられない。落ち着いた。そう言うことにしておこう。
無理やりでもそう言い聞かせて、灯真は椿たちのいる場所へと帰った。
***
「身の程を知らぬ若造だ」
灰皿へ葉巻を押し付ける。灯真の背中が見えなくなったところで、烏丸は苛立たしげに吐き捨てた。
「吉利」
ソファに座ったまま、視線を護衛の女に向ける。
「はい」
吉利、と呼ばれた女は、艶のある蠱惑的な声で返事をし、一歩前に出た。
「奴の評判を落とせ。この会場でだ」
「どのように致しますか?」
「そうだな…とりあえずお前の術で、奴の作った自律人形を暴れさせる、というのはどうだ」
「まぁ、面白そう」
吉利は口元を隠し、ふふ、と笑う。
「でも、そうすると騒ぎになりますわよ。よろしいのですか?」
「構わん」と烏丸は即答する。
「私からの話を棒に振った罪は償ってもらわねばな……だがそれは、バチだと思ってもらわねば困る。評判が落ちて取引先がなくなれば、あの小僧も向こうから頭を下げてくるだろう。その時は安く買い叩く。奴は救われ、悔い改めるだろう」
「なるほど…烏丸様の知略、流石でございます」
女が恭しくお辞儀をすると、烏丸は細い顎に手を当て、満足そうに口角を上げる。
そして立ち上がると、吉利に近づき、指先で彼女の頬に触れた。
「期待しているぞ」
「まぁ……。いけませんわ。このような場所で」
上品な仕草で、頬にかかった烏丸の手を両手で握り、そっと胸の前へと移動させる。
侯爵は口元を緩めふっと短く息を吐くと、残る二人の護衛を従えて会場の奥へと歩いていった。
烏丸の姿が見えなくなったことを確認し、宝条吉利は、舌を出しておえーと小声で言った。
「全く、気持ち悪い」
手の甲で触られたところを一度払う。そのまま指をへし折ってやろうかと思っていたが、すんでのところで我慢した。
「あの御方の命で護衛してやってるけど…そろそろ消してやろうかしら」
だいたい、烏丸から吉利などと名前で呼び捨てされるだけでも悍ましいことだ。
それが赦される、呼んで欲しいのはあの御方だけ。
その人に名を呼ばれる時だけ、自分という存在に形が与えられるような気がする。
短い声で呼ばれるだけで、胸の奥が痺れる。あの御方のためなら、どれほど退屈な男に仕えようと、どれほど長く仮面を被ろうと耐えられる。
独り言を呟きながら、吉利は商談スペースを後にする。そして歩きながら、それとなく周囲に目を向けた。
会場には明るい音楽が流れている。天井から吊り下げられたシャンデリアが無数の硝子飾りに光を散らし、磨き上げられた床には人々の影が幾重にも重なっていた。
給仕人形は銀盆に酒杯や菓子を載せ、客の間を器用に縫って歩いている。
展示台では職人たちが自慢の機構を説明し、客たちは感嘆の声を上げていた。
談笑する者、興味深そうに展示物を見ている者、飲み食いする者。
皆、それぞれの時間を過ごしている。
誰もが、この穏やかな時間が次の瞬間にも続くと疑っていない。
吉利は、その光景をゆっくりと見渡した。
——さて、この時間をめちゃくちゃにしてやろう。
そう考えたら、先ほど烏丸に触れられた不快感が少しだけ薄れた。
想像するだけでも楽しくなる。その指示だけは、烏丸に感謝してやっても良い。
御影の評判?そんなものどうでも良い。私が好きなのは壊すこと。
人を、物を、場所を、空気が壊れる瞬間、壊れていく過程が堪らなく好きだ。
悲鳴が一つ上がれば、周囲の笑顔が消える。
誰かが走れば、別の誰かも理由を知らぬまま走り出す。
安全だと信じていた場所が危険へ変わり、隣にいた人間を押し退け、助けを求める声さえ雑音になっていく。
その変化が好きだった。整然としたものが崩れ、築き上げた秩序が連鎖的に壊れていく様は、どれほど美しい装飾品よりも吉利の心を満たした。
その破壊のために関係を築き、お膳立てして献身していると言って良い。
笑顔を見せることもできる。
頭を下げることも、媚びることも、忠実なふりをすることもできる。
すべては、最もよい瞬間に壊すためだ。
吉利は、会場の二階に移動し、空いてる部屋を見つけて入る。
ここも商談として使用可能なスペースだが、今は昼時だ。人は一階に集中している。
二階の廊下には人影がなく、等間隔に並んだ扉の向こうからも声は聞こえない。
吉利は一度だけ左右を確認し、鍵の掛かっていない一室へ音もなく滑り込んだ。
扉を閉じると、階下の音楽も話し声も、厚い壁の向こうへ押しやられた。
黒眼鏡を外し胸のポケットに仕舞う。そして懐から片手で持てるほどの小瓶を取り出した。瓶の下に膨らみがあり、口が細くなっている。古びているが青みがかった艶があり、細い線刻がとぐろのように幾重にも巻き付いているように見えた。
「あの子、あの御方の仰せのとおりなら……どの程度か見せてもらうわよ」
蓋を開け、その瓶を床に置き、静かに印を結んだ。
「謹請——軍荼利明王が纏いし眷属よ、無心の器に宿り、蟠れ……!」
瓶の口が、静かに蠢く。
「——蟠蛇瓶」




