表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/6

第2章 慈愛の選別


●隔絶


日曜日、五色山クラスの礼拝場。

朋美と和也は中ほどの席に座り、祭壇に立つシェパード前田の言葉に耳を傾けていた。だが、朋美の意識の半分は、背後の冷たい空間に向けられていた。


講堂の最後列。壁際にパイプ椅子が一つだけ置かれている。そこに座っているのは、真也だった。


「……ですから、サタンは容易に私たちの心に忍び込むのです」


前田の声が響く。名指しこそしないものの、前方に座る信者たちが、あからさまに後ろを振り向き、壁際の真也へ視線を投げかけていた。


「やっぱり除外処分らしいよ」

「あのブラザー真也がねえ……」


ヒソヒソという押し殺した囁き声が波打つ。

和也が居心地悪そうに身じろぎをする気配を感じ、朋美は膝の上で両手を重ね、背筋をピンと伸ばした。


決して後ろは振り向かない。瞬きすら最小限に抑え、祭壇だけをまっすぐに見つめ続けた。




●導き


集会の後、朋美は講堂のロビーでシスター洋子に呼び止められた。

洋子は朋美の古くからの友人だ。かつて和也の夜泣きと育児ノイローゼで崩壊寸前だった朋美に寄り添い、この五色山クラスへ導き入れた張本人でもあった。


「朋美。真也さんのこと、大変ね」


洋子は労うように朋美の肩に手を置いた。


「……シスター洋子。主人が、すっかりふさぎ込んでしまって」


朋美は周囲の目を気にしながら、声を落とした。


「見ているのが辛くて……ほんの少しだけでも、私が声をかけて慰めてあげられたらって……」


つい口をついて出た弱音。


その瞬間、朋美の肩に置かれた洋子の手に、ギュッと強い力がこもった。顔を上げると、洋子は口角を人工的なまでに吊り上げていた。


「ダメよ、朋美」


洋子の声は優しかったが、氷のように冷たい芯があった。


「彼が苦しんでいるのは、自らの罪と向き合っている証拠。あなたが中途半端に優しさを向ければ、ヤーボの導きを邪魔することになるわ。家族のために、あなたがしっかりしなくては」


かつて自分を絶望から救ってくれた恩人の言葉。朋美は小さく息を呑み、深く頷いた。そうだ、優しさは時に毒になるのだ。




●慈愛


その日を境に、真也は酒の匂いを漂わせるようになった。


帰宅しても自室に籠もり、ウイスキーの空き瓶が床に転がる音だけが響く。朋美は夕食のトレイをドアの前に置くだけで、決して中には入らなかった。


ある日の集会後、朋美は人気のない廊下で、補助監督であるシェパード木村に呼び止められた。


「シスター松本。あの……これ」


木村は震える手で小さな紙袋を朋美に差し出した。中には、市販の胃薬と睡眠導入剤が入っていた。


「ご主人の顔色、あまりに酷かった。教団の処置は絶対ですが……さすがに厳しすぎます。誰にも言いません。内緒で、私が彼と連絡を取りましょう」


木村の目は潤み、そこには明らかな同情があった。独身の木村はシェパードになる前、よく松本家に招かれて食事を共にしていた。


朋美の胸の奥で、張り詰めていた糸がふっと緩みかけた。孤立無援の日常の中で、木村の差し出した手は確かな温もりを持っていた。


朋美の指先が、無意識に紙袋へ伸びかける。


――あなたが中途半端に優しさを向ければ、ヤーボの導きを邪魔することになるわ。


その瞬間、洋子の言葉が脳裏をよぎった。朋美は震えそうになる手を急いで引っ込め、差し出された紙袋を静かに押し返した。


「……お気遣い、感謝します。ですが、私たちはヤーボの導きにのみ従わなければなりません」


戸惑う木村を残し、朋美は逃げるようにその場を立ち去った。


指先がまだ紙袋の感触を覚えていた。温もりだったはずのものが、急に焼けるように熱く感じられた。




●密告


翌日の午後、朋美は前田の応接室のソファで、膝の上の両手を白くなるほどきつく組んでいた。


「シェパード木村が、主人に不適切な接触を図ろうとしました。薬を渡し……教団の処置に疑問を抱いているようでした」


前田は表情一つ変えずに話を聞き終えると、おもむろに立ち上がり、応接室のブラインドの角度を調整した。スリットから漏れる光が、前田の顔を幾何学的な縞模様に切り取る。


「シスター松本。よく報告してくれました」


前田はブラインドから手を離し、振り返った。


「同情は、規律を腐敗させます。あなたは家族とクラスの純潔を守り抜いた。素晴らしい信仰です」


――素晴らしい。


その単語を浴びた瞬間、朋美の背筋を覆っていた得体の知れない罪悪感が、嘘のように麻痺していった。


「私は間違っていない……」


数日後、クラスの集会で前田から「シェパード木村は、一身上の都合により移転しました」と事務的な報告があった。


その夜。


真也の部屋からは、ひび割れたような低い嗚咽が漏れ聞こえていた。


朋美はキッチンに立ち、和也の夜食のうどんを茹でていた。

沸騰する鍋の音と換気扇の唸りに夫の嗚咽を紛らわせながら、彼女の唇は微かに、教団の賛美歌のメロディをひたすらに刻み続けていた。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ