8.急報
宿舎は静寂に包まれていた。
開けた窓から、カーテンの端を掠めて夜風が忍び入る。
壁に貼った地図が風を受けてわずかに揺れる。
女性の部屋というには殺風景な部屋だが、ある意味騎士らしい部屋だ。
ふと目に入る地名の一つ一つに、戦いの記憶がよみがえる。
何度も窮地を乗り越えた仲間たち。
ぎりぎりの戦場で、背中を預け、互いの生命を守り、支え合って来た。
そして、そのどの場面にも、一番近くにカインがいた。
戦友……パートナー……様々な言葉で誤魔化してきた、カインの存在が浮き彫りになる。
――皮肉だな。戦場の記憶より胸を痛めることがあったなんて……。
想定外の戸惑いに、指先がこわばるのを感じるが、軍服を脱ぎ淡々と寝支度をする。
鎧のように重い軍服を脱ぎ去れば、さすがに騎士の仮面は外れ、否応なく素顔が晒される。
ろうそくの炎が風に揺れる。
戦のあとよりも静かに感じる夜――孤独……一人は、やはり少し苦手だ。
「女であることを捨てきれないのかもしれないな。」
ふと、鏡に映った自分に"恋心を自覚した女性"を見つける。
その姿に真っ先に感じたのは罪悪感だった。
胸の奥の痛みは、どんな剣技や鎧でも防げなかった。
無自覚でいられたころの自分の鈍感さを、憎らしいほど望んだ。
どんな任務でも躊躇したことはない。
大型魔獣を前にしても、怯んだことさえない。
女としてではなく、騎士として生きてきたのだ。
アナスタシア・マーベル第三騎士団団長――それが自分だ。
そんな自分が、ただ一人……たった一人に心を乱されている。
どれほど望んでも、もう鈍感にはなれない。
「わたしは存外、弱かったのだな。」
知らなかった自分の姿に、僅かな皮肉と悲しみを感じた。
でも同時に、ゆっくりと満たされる幸福感も確かに感じているのだ。
カインへの想いが全身に広がり、指先まで温かさを感じさせる。
「この気持ちを、知られるわけにはいかないのだがな……。」
自覚してすぐ終止符を打つように、恋心に蓋をする。
揺れる心を反射するように、壁に映った炎の影が大きく揺れていた。
***
一度だけ天井を見上げ、大きく息を吐く。
戻した視線の先に不在中に届けられていた封書を見つける。
差出人は――マーベル伯爵、父だ。
未開封のそれを手に取る。
開けなければと思いつつ、嫌な予感に封を開けられずにいる。
封蝋に刻まれた紋章を、指先でなぞる。
「現実逃避はいただけないな。」
そうこぼしても、早鐘を打つ心臓がどうしても開封を躊躇させる。
蝋で封じられた手紙は、ただの私信ではない――正式な伯爵家の通達の証だ。
「父上が改まって書簡に書くほどのことが、あったというのか……。」
何度か呼吸を繰り返す。
あたたかく励ましてくれた家族の顔が脳裏に浮かぶ。
騎士になると決めたとき、実家は兄が継ぐから問題ないと家族みんなが背中を押してくれた。
両親も兄も、アナスタシアの決断に懸念は示したが、強く反対はしなかった。
「人と違う人生を送るなら、それ相応の覚悟をし、努力しなければならないものだ。それを忘れてはいけないよ。」
騎士訓練生として家を出るとき、父が餞に贈ってくれた言葉だ。
母は何か言いたげだったが、何も言葉を告げず、ただアナスタシアの手を握りしめた。
侮蔑にも偏見にも耐えられたのは、この父の言葉と母の手の温もりが覚悟をくれたからだ。
「どうしたものか。」
開けられない封書を、再び机に戻し、想いを馳せる。
家族の問題、領地の争い、誰かの不幸、可能性を考えながら、思考が負に捕らわれていく。
この知らせ……まさか……
「この手紙が何を告げようと、わたしは伯爵家の娘として、第三騎士団団長として、そのどちらにもふさわしい行動をとらなければならない。」
決意を改めて窓辺に歩み寄る。
ポツリ、ポツリと、王都の明かりが消えていく。
一日を終えて、みなが眠りにつくのだろう。
このゆっくりと消えていく灯りが、王都の幸せの証明なのかもしれない。
馬蹄の音がわずかに聞こえてくる。
明日は雨だろうか……空気の少し湿った匂いがする。
「わたしの仕事は、この静かな安息の夜を守ること。」
討伐遠征を終えると、高揚して眠れない夜が幾日か続く。
それを何度か繰り返し、王都の消えていく灯りを数えて決意を新たにすることが習慣になった。
大切な人たちの顔が浮かぶ。
その中には仲間たちの笑顔も……もちろんカインも含まれている。
入り込んだ風に、ろうそくが大きく揺れる。
扉の向こうでかすかにノックする音がした気がした。
息を止めるように耳を澄ませる。小さな炎が燃える音が聞こえそうな静けさの中、心臓の鼓動が耳に響いたが、今度は確かにノックが聞こえた。
「……誰だ?」
不意を突かれて、返す声がわずかに震える。
「夜分遅く失礼します。団長、ご実家から急報が届いております。」
「何だって!?」
胸の鼓動が、一拍遅れて跳ねた。
嫌な予感がカタチになって目の前に現れる――そんな気がした。
ろうそくの炎が、もう一度ひときわ大きく揺れ、突然小さくしぼんだ。
悪い予感ほどよく当たる。
とはいえ、この知らせがアナスタシアの未来も運命も大きく変えるものになる。
そんなことは、想像することすらできなかった。




