7. 特別な男
窓の外では、魔導灯が、王都の通りと人々の安全を照らしている。
もっとも、今は人の気配もほとんどない。
帰途を急ぐ馬車の蹄の音が、かすかに夜の気配を震わせるだけだった。
遠征から帰還して数日、報告、祝宴、事後処理と忙しい毎日が過ぎていた。
気が付けば、喧騒は遠く、城の中は静けさを取り戻していた。
静寂が闇を支配するいつもの執務室。
積み上げられた書類に目を落とし、手にした報告書をそっと一番上に置く。
「……静かだな。」
その静寂の中に、剣の音を聞いた気がした。
記憶の中の訓練時代の日々が、自然と脳裏に蘇る。
***
「わたしが女なのが気に入らないか?」
随分と唐突に不躾な質問をしたものだと、自分の行動に思わず苦笑いした。
初対面で、カインと最初に交わした言葉がそれだった。
当時の自分は、女として扱われることも、女に見られることにすら不満があった。
剣の打ち合いの合図を口実に、かなり前のめりで攻撃を仕掛けたことを覚えている。
打ち込むたびに、金属音が澄んだ空気を切り裂いた。
腹立たしさにムキになって剣を振り回す自分。
けれど、そんな自分を見つめるカインの瞳には、侮りも嘲りもなかった。
そこには、戦う者としての真っ直ぐな光があった。
そして、彼の剣も――その誠実さを鏡に映したような強く鋭いものだった。
「顔に出てたな、すまん。」
自分の幼稚な態度とは対照的に、カインのとった行動はとても成熟していた。
非があることを認め、頭を下げて謝罪できる潔さに、好感をもった。
「何か書いてあったか?」
真顔でとぼけてみせた自分のあざとさを、あとで激しく後悔した。
「紅一点だぞ。知らない奴は、いないさ。」
あの時差し出された手の温かさと、屈託のない笑顔は今も忘れない。
騎士になるために無我夢中だった自分。
立ち位置を固めることに必死だった自分は、それ以外を考える時間は無駄だと思っていた。
お世辞にもいい初対面とは言えない。
けれど、カインのあの時の誠実さが、その後の自分たちの関係を大きく位置付けた。
――あの頃からカインは特別だったのかもしれない
訓練時代は、時間を惜しんで剣技を磨き合い、魔術を競い合った。
騎士団に所属が決まってからも、互いを信頼して戦い、野営では何度となく助けられた。
気づいてしまえば、分からなかったことが嘘のようにたくさんの『特別』が思い浮かぶ。
『近すぎて見えなかった』というのは、単なる言い訳だろう。
気づきたくなかった……ということだな。
風当たりの強い王宮で何度も煮え湯を飲まされた。
その度に、同期の仲間たちは、その嫌な空気を笑いに変えてくれた。
カインもその仲間の一人だ――そう言うのが一番簡単だった。
努力した日々は認められ、いつしか、女である自分が騎士団長として認められた。
その団長に任命されたばかりの重責の中で、最初の任務が副団長の任命だった。
一部の貴族たちには、女の騎士団長の下に就きたいものなどいないだろうと嫌味を言われた。
カインは絶対にそんなふうに考えない。
アナスタシアは、そう信じていた。
自分の信念を理解し、同じ未来を望んでくれる。
そんな確信があった。
「カイン副団長で間違いないよな。」
「団長の見る目は確かだ。」
副団長任命が終わった翌日、団員たちの声が聞こえてきた。
自分の判断に間違いがなかったと、誇らしく思った。
同時に、自分の中にあったわずかな違和感と向き合うことを恐れた。
「感情に流されず、客観的な判断を――」
何度も自分に問いかけた。
判断を誤ったと思ったことは一度もない。
訓練最終試練の戦いで、阿吽の呼吸の心地よさを知った。
視線だけで意図が読める……命のやり取りの場で、信頼できる絶対的存在。
カインは、わたしにとってそういう『特別』だと、そう思ってきた。でも――
***
シャンデリアに反射した光が、グラスに差し込み、シャンパンの輝きが増す。
討伐の功労者たちは、華やかな笑い声に囲まれている。
祝宴で見かけたカインも例外ではなく、令嬢たちに囲まれていた。
人懐っこさは、昔から変わらない彼の最大の魅力だ。
軍人の前では委縮しがちな令嬢たちも、穏やかな雰囲気のままだ。
カインの話術に、その場の空気が和らいでいるのが分かった。
「優しい色のドレスを纏い、無邪気に笑う彼女たち。それに比べて自分は――
黒い軍服姿の自分が、まるで美しい鳥に囲まれたカラスのようだな。」
うるさく鳴り響く鼓動……コントロールできない『何か』がそこにあることだけはわかった。
カインがドレス姿の美しい女性たちと笑いあっている姿に、どうしようもなく心がざわついた。
その場にいない自分、いたとしても場違いな自分。
わかっているのに、理不尽な感情に支配されそうになった。
「お前、実は不器用だよな。」
カインは、つねに片意地をはって男と対等であろうとする自分をよく笑い飛ばした。
「お前はこっちだ。」
ニンジンの皮むきができなくて苦戦する自分に気づき、さっと役割を交代した。
それをバカにするわけでもなく、笑い飛ばすのでもなく――当たり前にやってのける。
「美味いな。」
差し出されたスプーンから、スープを一口受け取って笑った。
令嬢たちに向けられた、社交辞令の笑顔ではない。
初めて出会った時、野営の時に見た時、とちらも貼り付けたような笑みではなかった。
そう、自分に向けられている笑みは、いつだって『特別』だった。
気づいた瞬間、一気に体温が上がる。
「わたしはどこまでも自分をごまかしていたんだな。」
自覚した恋心に、自嘲の言葉が出る。
――カインが好きなんだ。
訓練時代からずっと、討伐での全幅の信頼を、生命を預けることができる唯一の存在。
強がってみせても、僅かな変化に気づいてくれる優しさに、無条件で安堵できる唯一の存在。
随分と長い間、口にすることを躊躇っていたが、いつだって"他とは違う存在"だった。
――彼こそが、"唯一無二の人"だったのだ。
気づいた恋心の余韻を断ち切るように、夜の到来を告げる鐘の音が聞こえる。
一日の終わり……この音は王都民に休息を促す合図だ。
もう、帰らなければな。
さっきまで見ていた報告書をもう一度手にした。
素早くサインをし、処理済みの書類に重ねる。
宿舎まではそれほど遠くない。
「とりあえずは休息だ。」
いつものように自室へ歩みを進める。
自分の気持ちに気づいたところで、何かが変わるわけでもない。
そんな皮肉めいた状況を噛みしめるように、薄暗い廊下を歩いていった。




