36. 偽りのしあわせ
気づいてしまった事実から、もう目を背けることはできない。
アナスタシアの心は大きく揺れながら、もう一度自分の未来を問い直すことになる――
「第三騎士団は、つい先日大きな功績を上げたよ。」
意を決して騎士団の話を聞きたいと告げたアナスタシアに、キースランが優しく語り始める。
「団長としてニコルソン、カイン殿だったかな?彼が活躍しているそうだ。」
耳に入ったその単語に、息が止まる。
第三騎士団、そして団長の名――カイン。
胸の奥が冷える。
「彼が団長になって、さらに強くなったらしい。とても優秀な騎士だな。」
キースランが感心したように告げた言葉に、心臓がやけにうるさく反応する。
「団長は君の」
「わたしの部下でした。副団長として背中を預けてきたパートナーでもあります。」
アナスタシアが無意識に口にした、今なおパートナーであるかのような表現に、キースランがピクリと肩を揺らす。
「そうか、よく知る人物なんだね。」
「はい。」
アナスタシアは静かに俯いた。
「ルーカスも」
「えっ?」
「ルーカス・ポルタコフも君と戦ったのだろう?」
不意に告げられた戦友の名に、アナスタシアに戸惑いの表情が浮かぶ。
「彼はノックスの親友だったからね。」
その言葉に、婚約するはずだったノックス・ミルグレン公爵がキースランの息子であったことを思い出す。
同時に、紅蓮龍討伐で戦死したルーカスが、ノックスと親しく、その彼のおかげで伯爵家が救われたことも思い出した。
「そうでしたね。ルーカスはとても優秀な魔法騎士でした。」
彼の名を穏やかな気持ちで告げることができることを嬉しく感じながら、アナスタシアは公爵家への礼を告げていなかったことに気づいた。
「ミルグレン公爵にも、お世話になりました。感謝しています。」
キースランは、アナスタシアには気づかれないよう、わずかに手のひらを握りしめた。
「君の口から、他の男の名を聞くのはこんなにも不愉快なものなんだな。」
小さく落とした吐息のようなつぶやきは、頭を下げているアナスタシアには届かない。
「ノックスとは、あのあと」
「友人として交流していこうと言っていただけました。」
その言葉に、もう一度キースランが指を握り込む。
自身が驚くほどの嫉妬心を悟られないよう、キースランはにこやかに会話を続けた。
「今度、夜会に参加するんだ。君をエスコートさせてもらいたい。」
「えっ?」
「社交界へ顔を出すのは、まだ怖いかい?」
挑発的なその言葉に、アナスタシアの勝気さが顔を出す。
「問題ありません。」
「じゃあ決まりだな。」
――また、この人の思惑通りになってしまった。敵わないな……
指を握り込んだキースランの嫉妬には気づかないまま、アナスタシアは目の前の笑顔に苦笑いがこぼれた。
***
その夜、アナスタシアは夢を見た――血の匂い、金属がぶつかる音、叫び声――そして、剣を握って立っている自分。
――まだ戦える。
――まだ終わっていない。
身体が勝手に動くが次の瞬間、視界が揺れる。
――剣が重い。
――呼吸が乱れる。
「……っ」
倒れかけた瞬間、身体が大きく跳ねて目が覚める。
全身がじわりと汗に濡れ、息が激しく乱れ、浅い呼吸を繰り返す。
汗で濡れた手で、無意識にシーツを握り込み、皺だらけになっている。
――まだ……。
剣を握る感覚が手中に残り、戦場のピリッとした空気まで肌に感じる。
身体がすべてを覚えているのだ。
「わたしは……」
心は回復しているはずなのに、消えてはいない――消えていないどころか、むしろ、感覚がより鮮明に蘇る。
――わたしは、騎士だった……そしてそれは、今もまだ変わっていないのだ。
突きつけられた現実に、胸がえぐられるように痛む。
どこまでも捨てきれない未練に、自分の弱さと狡さを突きつけられた。
***
アナスタシアに騎士団の話をした夜、キースランは珍しくグラスを片手にある日の王宮での会話を思い出していた。マーベル伯爵家に治癒師が慌ただしく出入りし、その理由を知ったばかりの頃……定期報告で王宮を訪れるだろうある人物に、キースランは偶然を装って話しかけた。
「第三騎士団長、カイン・ニコルソン殿かな?」
王宮での定期報告を終えたカインをキースランが呼び止める。
堂々とした風格と、見覚えのある顔立ちに、カインはすぐに大公であると気づいた。
「初めまして。第三騎士団長、カイン・ニコルソンです。」
貴族の礼儀に疎くとも、大公相手に不敬を働くほど愚かではない。カインは騎士らしく一礼すると、キースランの言葉を待った。
「君は、シアと……アナスタシア・マーベル嬢とは同期だったか?」
キースランがアナスタシアを愛称で呼んだことに、カインの視線が鋭くなる。
「失礼を承知で、お伺いしてもよろしいでしょうか。」
苛立ちを隠さない口調に、キースランは内心その真っ直ぐさを眩しく思った。
だが同時に、その気持ちに気づかれないように冷静に頷いた。
「大公閣下は、団長殿の……お知り合いですか?」
団長とあえて呼んだのだろう。自分が親しいと誇示したかったのかもしれない。
「今度、療養のため、マーベル嬢をわたしの領地へ招待する予定だよ。」
告げる言葉に無意識に身体が反応するのだろう。
カインが息を呑んだ。
――若いな。
その素直さが彼の長所でもあるのだろう。キースランが余裕たっぷりに笑って告げる。
「心配しなくとも、彼女の傷はちゃんと癒えるよ。」
「彼女は大丈夫ですか?」
「わたしが回復させられないとでも?」
キースランが挑発的に笑ってみせる。
「そうではなく……」
「君は君の責任を果たしたまえ。」
『責任』という言葉に、カインが傷ついた顔をする。
「君は彼女を特別に思っているんだな。」
直球に確信を告げられて、カインは言葉を失くした。
「ならば、君への恩情として教えておこう。わたしは大公妃として彼女を迎え入れる。」
弾かれたように、無言でカインがキースランを見る。
「シアの願う未来を共に歩むつもりだ。君では、彼女の帰る場所には成り得ないだろ?」
「騎士団に居場所はないと?」
カインが握り込んだ拳がわずかに震えている。
「今の騎士団には、無いだろうな。」
――この言葉が何を意図するのかに気づけなければ、君は完全に敗北するんだが……
はたして、気づくことができるかな?
俯いたままのカインを見つめ、キースランは様々な可能性を考えていた。
「失礼します。」
カインはそれだけ告げると、一礼してその場を去って行く。
――このままで終わるなら、君の気持ちはそれっぽっちだということだ。
悪いがシアは渡さないよ。
小さく鳴る足音に、まだ未知の可能性を秘めたアナスタシアの想い人を見送る。
「まぁ、それほどお人好しにもなる気はないがね。」
キースランはそう呟いて、笑った。
***
一度気づいた騎士への未練は、アナスタシアの心をえぐり、感情が高ぶり、眠ることができなくなっていた。月明かりに誘われるように、バルコニーへ足を運ぶ。風は少し冷たく感じたが、その風にのって楠の香りがする。
――冷たい風も悪くない……心を落ち着かせてくれる。
思ったより明るい空に、美しい中庭が映し出される。
「……でも今は、こうしてここに君がいてくれる。」
キースランの言葉が優しく耳の奥にこだまする。
心を拾い上げ、全身を包み、優しく守るあの大きな手――キースランの温もりは、確かに『救い』だった。
けれど――
剣を持つ感覚が、不意に心を疼かせる。
――中途半端な未練に縋っているような自分が、彼の手をとるなど
キースランの横で微笑む自分を想像しかけて、首を振る。
指先が震え、浅い呼吸を繰り返す。
救われている――それはまぎれもない事実なのに、どうしても、その優しさに身を預ける自分が許せなかった。揺れた視界の奥で月明かりが滲んだ。
幸せな気持ちは本物でも、
譲れないものの前では、『偽りの幸せ』のように感じてしまう。
人の心はあまりに複雑で、ときに残酷なものなのかもしれない――
次回「皮肉な再会」
やらかしカインはアナスタシアとの再会に何を思うのか――
お楽しみに!




