35. 穏やかな日々
優しさに包まれながら、
少しずつ心を回復していくアナスタシア。
穏やかな暮らしの中で、
知らなかった過去と見え隠れする未来に触れていく――
大公領はとても落ち着く温かい場所だ。
――キースランさまの人柄を映し出したようだな。
陽だまりは、静かなそよ風に揺られた木々の影を色濃く映す。
「ここでの生活に、少しは慣れたかな?」
「……はい。素敵な場所です。」
「まさか君が、政務を手伝うと言い出すとは思わなかったけどね。」
キースランが苦笑いする。
「何かお役に立ちたくて……お世話になっているばかりは嫌だったから……」
アナスタシアは、言葉にして改めて、令嬢らしからぬ行動だったと恥ずかしくなる。
「シアはやっぱり優秀だ。改めて君がここにいてくれることに感謝したよ。」
「えっ?」
「享受されるだけじゃなく、君自身がわたしのために何かしてくれることが、どれほど嬉しいことか」
意味深な言葉の続きはやってこない。
代わりに、キースランの優しい眼差しに掴まる。
時間の感覚を忘れるような長い一瞬に、瞬きも息をするのも忘れる。
少しだけ息苦しさを感じる。
「不便はないかい?」
その直後、キースランがその雰囲気を自らの言葉で破壊する。
重い空気が瞬く間に離散した。
「何も……みなさん、とてもよくしてくださいます。」
大公領で過ごして数週間。侍女も使用人も、もちろん家令のヴィクターも、アナスタシアを客人以上に扱ってくれた。でも、それがアナスタシアに少しだけ不安を感じさせる。
――このままでいいんだろうか
何かしていないと落ち着かなくて、大公領の政務を手伝い始めた。書類整理や、邸の管理、使用人たちとの円滑な関係構築――キースランやヴィクターが進めてくれた仕事は、まるで大公夫人としての役割だ。
「君に価値がないという人間には、何も見えていないんだろうな。もっとも、その方がわたしには都合がいいんだが。」
「……なにかおっしゃいましたか?」
あまりに小さいつぶやきに、アナスタシアはキースランを見つめて問い返した。
「何でもないよ。」
キースランが静かに笑みを浮かべる。
そして、アナスタシアの手を取ると、軽く唇を寄せてその甲に口づけて、また笑った。
「君がここにいてくれるだけで、わたしは幸せだと言いたかったんだ。」
当たり前のように告げられる言葉は、幸福感と一緒に正体不明の薄暗い闇を連れてくる。
――本当に?
ふるりと一瞬、身体が震える。けれど、疑う余地がないほどの愛情を示してくれるキースランに、そう思うことさえ失礼な気がして、考えを打ち消す。そして、アナスタシアはその罪悪感を心の奥底にしまうことにした。
***
「この中庭、随分気に入ってくれたみたいで嬉しいよ。」
昼下がりのティータイムは、キースランがお気に入りと言ったあの楠の木陰が定位置となっていた。
「わたしもこの場所が好きになりました。」
風に揺れる木の葉が、爽やかな香りを運んでくる。
「昔から、ここへ来ると落ち着くんだ。」
「……昔から、ですか?」
「あぁ、前の持ち主がわたしのために作ってくれたんだ。」
「前の……?」
その言葉の意味が分かって、紅茶に伸ばした手が止まる。
「亡くなった妻だよ。」
ざわざわと風が大きく吹き抜けた。
楠を見上げるキースランの表情は、アナスタシアからは見えない。
ただ、優しく微笑んでいる……そんな確信はあった。
「素敵な方だったんですね。」
「そうだね。」
声がどこまでも優しい。
「愛して……」
「ん……?」
「なんでもないです。」
愛していたのかと聞こうとして、それが愚問だと気づいて打ち消した。
この場所を今も『お気に入り』と呼び、大切にしている――それが何よりの答えだ。
アナスタシアの胸がわずかにざわつく。
「……でも今は、こうしてここに君がいてくれる。」
彼の人を懐かしむように……でもアナスタシアを慈しむ気持ちも滲んだ、穏やかな声だった。
また、風が吹き抜ける。
ざわついた心に落ちてきた穏やかな言葉に、まるで子どものような対抗心を見抜かれたような気がした。
絶対的な経験値の差がそこにあるのだと、気づきたくない気持ちに強引に蓋をした。
そして、その感覚を紅茶に溶かし、飲み込んでしまった。
***
大公領で過ごす時間が長くなると、邸の外での仕事も引き継がれるようになった。
「孤児院のボランティアなのですが、引き受けていただけますか?」
遠慮がちにヴィクターが問いかける。
「何か、気にかかることが?」
「以前は」
気まずそうな口調に、ヴィクターが何を言いたいのかわかってしまった。
「キースランさまの奥さまが?」
「はい。公爵夫人としてなさっていたお仕事でございます。申し訳ありません。」
いつも落ち着いているヴィクターがこれほど恐縮するのが、なんだかおかしくて、アナスタシアは笑ってしまった。
「なぜ謝るのですか?とても光栄です。」
「えっ?」
「公爵夫人がなされていたことを引き継ぐだけの能力があると、認めてくださったのですよね?」
「アナスタシアさま。」
「ぜひ、お邪魔させていただくわ。」
「ありがとうございます。」
詳細を聞けば、公爵夫人が亡くなってからというもの、引き継げる人物がおらず、孤児院は資金援助のみとなっていたらしい。そのため、現状の把握が間に合っておらず、キースランも気に留めるだけが精一杯だという。
「ようこそお越しくださいました。」
上品なシスターに出迎えられ、美しいカーテシーで礼を尽くす。
子どもたちは、少しやせているが元気そうで、孤児院の庭を交代で世話していた。
そこには畑もあり、少ないが自給自足もできていると教えてもらった。
「刺繍や大工見習いのような技術も、孤児院の子どもたちが小さい子に教えてできることを増やしているんです。」
「ここまでされているとは、すごいですね。」
「公爵夫人がこの基礎を残してくださいました。」
キースランの奥さまという人は、人柄だけでなく先見の目もあったのだろう。単なるボランティアではなく、その行動の一つ一つに意味があり、子どもたちの未来へ確実につながるものを残していた。
「お姉ちゃん、お姉ちゃんは何が得意?」
小さな手がスカートの裾を掴む。
「騎士さま……?」
男の子が遠慮がちにぼそっとつぶやいた。
「……どうして、そう思ったの?」
「僕たちの剣術……真剣な目で見てた。なにか言いたそうにしてたし……」
子どもの目にも明らかなほど、剣術の稽古を熱心に見ていたのだと指摘されて、頬が熱くなる。
男の子が真剣な顔で、アナスタシアの言葉を待っている。
「気づいたことを言っても?」
真っ直ぐに向けられた瞳に、剣を始めたばかりの頃の自分の姿が重なって見えた。
アナスタシアの言葉に、嬉しそうに笑うと、大きな声で返事が返ってきた。
「教えて!」
その言葉を聞きつけた他の子どもたちも集まってくる。
そんな子供たちに囲まれて、アナスタシアはあれほど怖くて握れなかった剣を、気が付けば自然に手にしていた。
「君は本当に……」
孤児院から戻り、すぐにレポートを書き上げた。
執務室にいたキースランに、そのレポートを手渡すと、何とも言えない表情を浮かべた。
「すみません……勝手に」
剣術を教えたことも、当然レポートに記した。
――落胆させてしまっただろうか。
逃げるように訪れたこの場所で、キースランは一度も騎士団の話や剣の話をしなかった。
わたしの心を守ってくれていたはずなのに、自ら剣術に関わったのだ。
「強い人だ。」
その言葉に顔をあげると、キースランが眩しそうにアナスタシアを見つめていた。
「君が知りたいというのなら、騎士団の話もしてあげられるよ。」
「えっ?」
「君に真実を知る勇気があるならね。」
何かを確かめるような低く落ち着いたキースランの声に、アナスタシアはスカートをギュッと握りしめた。
自分にできることをしていたアナスタシアだが、
運命は彼女に『忘れられない大切なもの』を突きつける。
次回「偽りのしあわせ」
気づいてしまった現実に、
アナスタシアはどう向き合うのか――
お楽しみに!




