34. 愛してくれる大人の男
何も選べないと思っていたアナスタシアは、
「選ばなくていい場所」へと導かれる――
特別な役割も、存在証明もいらない。
ただ『思うままに過ごせばいい』と、その人は言ってくれた――。
『強硬手段』というのは、時と場合によっては、ある種の救済かもしれない。
戸惑う暇も、迷う暇もなく、キースランに連れられて領地へと向かっていた。
「わたしが領主を務める公爵領へ――一緒に来てもらうよ。」
言葉にされた決定事項は、覆す方法をすべて封じられ、お茶をしているわずかな時間に、優秀すぎる侍女たちによって準備まで整えられてしまった。
「何も考えなくていい。」
そっと握られた手から、優しさが流れてくる。
「何も言わなくていい。」
手の甲に触れた唇の感覚に、指先まで温かいしびれを感じる。
「世の中がどんなに広くても、騎士をエスコートする栄誉を与えられる人は少ないだろうな。
まして、これほど美しい人の騎士になれるなんて、わたしはどこまでも幸運らしい。
感謝するよ、シア。」
驚くほど快適な馬車の中で、侍女もおらず、二人きりになっていることに動揺しているうちに、いつの間にか愛称で呼ばれるようになっていた。あの慌ただしい準備の最中に、まるで荷物を確認するような流れで、愛称を認めさせられてしまったのだ。
「大公閣下……急すぎます。」
突然に詰められた距離に、どうしていいかわからず、アナスタシアは俯いた。
「キースラン。」
「え?」
「キースランだ。」
射貫くよう眼差しが向けられる。
「キースラン……さま。」
一段と大きくなる心音に、胸が裂けてしまわないかと心配になる。
照れくさくて、小さな声で名前を呼ぶ。
大人の策士は、ここと決めたら退路はすべて断って攻めてくるらしい。
「シア、もう一度ちゃんと呼んでくれ。」
名を呼ぶまでは諦めないだろうと、顔を見なくてもわかる。
「キースランさま。」
意を決して、今度は顔を見て名を呼ぶ。
「領地に着いたら、何がしたい?」
名前を呼ばれたことが嬉しかったのか、キースランが屈託のない笑みを浮かべる。
あはは
緊張が弾けたように、つられてアナスタシアも笑い声を上げた。
「いいな。その笑顔が見れて安心したよ。」
眼差しが大人びる。
ガタンと大きく揺れた拍子に浮いた身体を、自然に抱きとめられる。
気づけば身体は密着している。
バクバクと不自然なほど大きな音を立てる心臓に、身体が熱くなったことを感じると、キースランの心音も近くで響く。どことなく、鼓動が速く聞こえる。
腰に添えられた手にわずかに力がこもり、そっと顔を見上げると、目が合った。
何も考えられないまま、時間がスローモーションで過ぎていく。
ごく自然にあごを持ち上げ、キースランの顔が近づいてくる。
甘くなった空気に気づいたときには、もう逃げられなくなっていた。
「残念、時間切れだ。」
ふっと笑ってキースランの手が緩む。
馬車がゆっくりと止まった。
どうやら、公爵邸に到着したようだ。
アナスタシアは、離れていくキースランの指先に、寂しさを感じたことには、気づかないことにした。
***
「おかえりなさいませ、大旦那さま。」
一目で家令とわかる紳士が、キースランを迎えている。
「シアの前で、大旦那はやめてくれ。」
「ノックスさまは若旦那様と呼ばれることを嫌がり、キースランさまは大旦那さまと呼ばれることを嫌がられては、使用人は困り果ててしまいます。申し訳ございませんが、呼び名は業務に差し支えますので、受け入れていただきます。」
「相変わらず、手厳しいな。」
「褒め言葉として、受け取っておきましょう。」
何気ない会話に、二人の信頼を感じる。家令としての秩序を守りながら、心地よい距離感をもつ。彼が一流であることが、この一瞬で感じられた。
「ヴィクター、こちらがアナスタシア・マーベル伯爵令嬢だ。」
「アナスタシア・マーベルです。お世話になります。」
家令とはいえ、相手は公爵家の使用人。失礼にならないように礼を尽くす。
「一介の使用人に、丁寧なごあいさつ、痛み入ります。ミルグレン公爵家で家令をしております。どうぞ、ヴィクターとお呼びください。」
視線を交わし挨拶を済ませると、キースランがすぐに会話に入ってきた。
「準備は?」
「整っております。中庭へどうぞ。」
「ありがとう。」
会話の意図が読めず、二人の顔を交互に見る。
「シア、疲れているかい?」
「いえ、大丈夫です。」
「それは良かった。じゃあ、中庭へ移動するよ、おいで。」
流れるような仕草で手を取る。エスコートに慣れているのだろう。気が付けば取られた手は腕へと運ばれ、キースランが歩き出していた。
「うわぁ。」
玄関の吹き抜けにも驚いたが、左右の階段をまるで額にしたように、中央には大きな扉があった。
軽々とその扉を開けて、一歩踏み出すと、そこには中庭というには広すぎる美しい庭園が広がっていた。
柔らかい日差しの中に広がる風景に、思わず感嘆の声が漏れた。
「気に入ったかい?」
「とても綺麗。」
「わたしのお気に入りの場所へ案内しよう。」
手を引いて歩きだすキースランは、さっきまでの色気とは対照的に、はしゃいでいる子供のようだ。
「ここだ。」
「……すごい。」
庭の真ん中に大きな木が立っていた。そして、その幹にはいくつもの小さな白い花が咲いている。
「木の枝ではないところに、花がいっぱい。」
「この大きな木は楠。咲いているのは富貴蘭という東洋の蘭の花だ。」
「東洋の花?」
「まずは、ゆっくり深呼吸してごらん。」
促されるまま大きく息を吸う。すっと心が洗われるような、爽快感溢れる香りがした。そして、その香りに、少し甘い匂いが混ざっている。
「香りは、楽しめたかい?」
「香りを楽しむ?」
「そうさ。庭は見て楽しむ人が多い。でも、わたしはシアに、全身で楽しんでほしいと思ってるんだ。」
「全身で?」
「五感を使ってね。」
キースランが、茶目っ気いっぱいにウインクを飛ばす。
「視覚、嗅覚ときたら、次は聴覚かな……ほら、耳を澄ましてごらん。」
促されるまま、アナスタシアは静かに耳を傾ける。
風が青く茂る木の葉を揺らし、ざわめく音が聞こえる。
「そして、残りは二つ……触覚と味覚だ。」
楠の下に整えられたテーブルに、二人で腰掛ける。ヴィクターに確認していたのは、このことだったのかもしれない。まるで魔法のように、絶妙なタイミングで何もかもが揃えられている。
「ボナ・ぺティート。」
上品なティーカップにはオレンジペコの優しい香り。そして、お皿にはバターたっぷりのマドレーヌが用意されている。
「どうだい?」
旅の疲れを癒すように、紅茶がゆっくりと身体にしみていく。口にしたマドレーヌからは贅沢なバターの味がする。そして、それをくどく感じさせないオレンジピールのさわやかさと、わずかな苦みに気づく。
「美味しい。」
気が付けば、自然と笑みがこぼれた。
心から自然に笑えたのは、いつ以来だろう。
ポロリと涙がこぼれる。
「君の心は疲れていたんだ。傷ついていることに気づくことさえできないくらいね。」
キースランが指先で涙を拭う。
「シア。ここでは君は君の思うようにすればいい。好きなものを見て、好きなものを食べて。泣きたいときには泣いて、好きな時に笑っておくれ。わたしはどんな君も見逃さない、見逃したくない。最高に贅沢に、わがままに過ごそう。」
芝居がかった口調で笑うキースランの優しさに、また笑みがこぼれる。
――わたしが思うように過ごす、最高に贅沢でわがままな時間
キースランの優しさが、静かにアナスタシアの心へ届いた。
大人の溺愛は、どこまでも甘く優しい。
傷ついた心をゆっくりと癒し、
やがてそれは、再生へと繋がっていくのだろうか――
次回「穏やかな日々」
ゆっくりと癒されていく毎日の中で
アナスタシアが気づいた譲れない想いとは――
お楽しみに!




