33. もう放っておいて
カインの残した傷跡が、どこまでもアナスタシアを追い詰める――
愛も信頼も、騎士としての矜持も否定された。
――もう、戻れない。
彼女はすべてを手放す覚悟を決める――。
「今度こそ、お前を守りたい。俺に、お前を守らせてくれ。
俺に……責任をとらせてくれないか。」
カインの言葉が、何度も何度もこだまする。
――それが誠意だとしても……受け入れられるはずがない。
騎士として共に立った日々を否定されたようで、許せなかった。
もう二度と、騎士には戻れないと言われたようで、絶望した。
「愛した人に、わたしを……わたしの矜持を否定されたんだな。」
独り言にも自虐が混ざり、自然と声が震える。
――あの日から、どれくらいの時間が過ぎたのだろう。
わたしは、人としての生き方を忘れてしまったようだ……もう、何もない。
アナスタシアはひとり、閉じこもったまま薄暗い部屋の中でただ膝を抱えていた。
小刻みに震える手は、剣を握ることを忘れたかのように柔らかくなり、無防備な心がじくじくと痛む。
重く閉めきったカーテンが、時折思い出したように揺れる。
光は届かない。
重い心のまま、涙が一筋……頬を伝った。
***
焼け付いた戦場の匂いがした気がする。
「ルーカスっ!」
もう何度目だろうか……目の前で消えていく生命に何もできないまま目が覚める。
ルーカスを亡くして凍えた身体が、風の冷たさを感じることを忘れた――あの時に引き戻される。
『重い鎧を脱ぐ』……結婚をそう表現したときのルーカスの声。
同じ重圧を感じながら、絶対的強者に挑み、失った大切な仲間。
孤立した薄暗い闇の中に、一人取り残された感覚。
一度は穏やかに名を呼べるほど回復したはずのルーカスの死が、生々しく襲い掛かる。
――わたしとカインは対等だった。
あの時一度、命を預けた戦友の背中が遠のいたと感じた。
――でも、間違ってた。
カインを中心に活躍を続けた騎士団は、アナスタシアの復帰を待っていた。
辛抱強く待ち、功績を掲げて討伐の団長に引き戻してくれた。
――批判と非難ばかりの貴族院と真っ向からぶつかってなお、わたしを必要としてくれていたんだ。
そして、共に戦場に立ち紅蓮龍討伐を果たした。
「あの戦いに、欠片も悔いはない……が、払った代償は大きかったな。」
自嘲気味に苦笑いがこぼれる。
無意識に傷跡に触れた指先に、ざらりとした不快感と、何も感じない違和感が残る。
それでも無意識に触れてしまうのは、そこにある未練なのかもしれない。
騎士に戻れる可能性は、医師によって無情なほど明確に否定された。
――もう、戦うことはできない。
『欠陥品』と烙印を押され、『解雇通知』を突きつけられた。
――俺がお前の価値を忘れることはない。
お前が思うより、お前の生命は重い。
忘れてくれるなよ。俺にとって、お前は失うことのできない仲間だ。
――カイン
喉を引き裂くような絶望の声をあげて泣いたあと、手元に届いた一通の手紙。
開けられず、置き去りにされたままだったカインの想いが詰まっていた。
――あの手紙が、わたしを救ってくれたのに……。
あの絶望の底から、引き上げてくれたのは――間違いなくカインだった。
***
――なのに。
引き戻される現実は、どこまでも残酷だ。
「守ると言った……責任を取ると……」
――戦えない自分は、もう騎士として不必要だと言われたんだ。
誰よりもアナスタシアを知っているカイン、その人からの『最後通告』。
「……ははは……」
乾いた笑いが虚しく宙を舞う。
「誰よりも信じていたのに……騎士ではないと言われたんだな。」
ガラガラと音を立てて、信じたもの全てが崩れていく。
胸の奥にしまった大切なものを押しつぶしながら、何もかもを破壊しつくして……
――もう、戻れない。
そう思った瞬間、アナスタシアの世界から、すべてが色を失った。
***
――諦める前に、できることはすべてすると決めていましたが、
わたしに騎士を続ける資格は、もうないようです。
わがままを許していただきながら、何も成し得ることができませんでした。
今のわたしは、剣を取ることさえ許されない卑怯者です。
あなたの信じたアナスタシアは、もういません。
大公さまのお側にいる資格も、もうないようです。
無礼をお許しください。
これが、最後のわがままです。
アナスタシア・マーベル――
手紙をしたためて、窓辺から流れる風を感じる。
数日ぶりに浴びた光が、少しだけアナスタシアの肌を刺す。
それすらどこか他人事だ。
――もう少し早くけじめをつけるべきだったかもしれないな。
気持ちを落ち着かせるために、午後のデイドレスに着替えて大公宛に手紙を書いた。
結論を急がず待ってくれた人への、最低限の礼だと思ったからだ。
それでも、随分と時間がかかってしまった。書き終えた手紙を一瞥し、自分がどこまでも己の都合で行動していることにあきれ果てる。
窓の外から、ガラガラと馬車の音がする。
髪を揺らす心地よい風さえ、皮肉に感じる。
「この手紙を出してしまえば、大公さまにも呆れられてしまうかな。」
わずかな寂しさをにじませ、小さなつぶやきが落ちる。
優しさに仇で返すような行いを恥じるべきなのに、不思議と何も感じなかった。
虚無、無関心、無感動――感情はどこかに置き去りにされてしまった。
バタバタと屋敷が少し慌ただしい。
使用人たちの落ち着きがない――というか、予期せぬ出来事に慌てふためいているようだった。
「お嬢さま。」
珍しく、乳母がノックを忘れて部屋に入ってきた。
「い、今すぐ準備を……」
「どうしたの?」
「つい数分前に先触れが届いたばかりなのですが、大公閣下がおみえです。」
「……えっ!?」
「大公閣下が、お嬢さまに会いにいらっしゃいました。」
アナスタシアも、乳母の言葉に頭が真っ白になった。
「お嬢さま、ドレスはそのままで、御髪を整えましょう。」
それが功を奏して、着替える時間は省略できた。
百戦錬磨の乳母の魔法によって、あっという間に髪もきれいに結われていく。
「大公さまはどちらに?」
「今、家令が対応しております。四阿にお通ししているはずです。」
大きく息を吐き、目をつぶって集中する。
――手紙より、よっぽどいい。これでもう、すべてを終わらせることができる……
アナスタシアは、大公との未来も手放すことを覚悟した。
***
「アナスタシア。」
アナスタシアを見つけて、にこやかに大公が歩み寄る。
「突然の訪問を許してくれ。わたしは君に逢わなくてはいけないと思ったんだ。」
その言葉に、この人が大公閣下と恐れられている理由を悟った。
何もかもを見透かされている気がして、落ち着かない。
「何も心配しなくていい。君の父上からは許可はいただいている。」
話が見えなくて混乱しているうちに、さっと両手を取られる。
「わたしが領主を務める公爵領へ――一緒に来てもらうよ。」
――まただ。大公さまのこの一言に抗える人物などいるのだろうか。
部屋から出ることさえできなかったというのに、強い眼差しと、優しいが断定的な説得に、迷う選択さえ失っている。この人は交渉に長けた人だ。
その策士たる手段とは裏腹な、青年のような笑顔がやたら眩しい。
数日ぶりの強烈な光に、アナスタシアは幾度も瞬きを繰り返した。
絶望に閉ざされた闇に差し込んだ光――
それは、揺るがない強さを持ったキースランだった。
次回「愛してくれる大人の男」
傷を癒すのは、大人の溺愛
どうぞお楽しみに!




