32. 責任の取り方
愛も信頼も、騎士としての矜持も、
アナスタシアのすべてが、この一瞬で崩れ落ちていく――
結論から言うと、大公はどこまでいっても大人の男性だった。
手紙にしたためた内容は、気持ちに忠実な……つまりは、『自分のわがまま』だったのだが、それに対して、想像よりもシンプルで、驚くほど速い返事が届いた。
――君は自由だ。
君の思うまま、後悔のないように生きればいい。
わたしは、いつだって君を応援しているよ。
「かなわないな。」
本音がぽろりとこぼれた。
大公の言葉は、心に燻っていた騎士への未練を勇気に変えてくれたような気がした。
そしてあの言葉さえなければ、アナスタシアは騎士団復帰を決めることができた――はずだった。
***
「アナスタシア、結婚してほしい。」
目の前のカインが、真っ赤な顔をしている。
想像すらしていなかった言葉に、アナスタシアは息をするのも忘れた。
鼓動がひときわ大きくなり、愛しさが溢れて泣きそうになる。
「今度こそ、お前を守りたい。俺に、お前を守らせてくれ。
俺に……責任をとらせてくれないか。」
バシャッと頭から冷水を浴びせられたように、アナスタシアの身体が凍りついた。
「今、なんと……?」
プロポーズではなく『責任をとる』と聞こえた。
――守らせて……くれと?
機械的に言葉を繰り返し、カインの意図を理解しようと心が足掻く。
衝撃の大きさに、思考は上手く働かず、言葉が出てこない。
――なぜ、カインが責任をとる必要が?
指先から、足先から、感覚が失われていく。
身体が硬直し、心も凍りつく。
「カイン」
かろうじて名を呼び、アナスタシアはカインを見る。
言葉の真意を確かめたくて、震えながら目を合わせた。
カインは真っ直ぐにアナスタシアを見つめている。
緊張の面持ちはあっても、その言葉に迷いはないようだ。
アナスタシアの呼びかけに、答えを待つカインの喉が上下に動く。
「帰ってくれ。」
「えっ?」
やっとの思いでそう答えた。
だが、アナスタシアの言葉を理解できず、カインが固まった。
「頼む、帰ってくれっ!」
アナスタシアが声を荒げる。
眉を寄せ、ひどく苦しそうに肩で浅い呼吸を繰り返す。
「アナスタシア……」
カインがそっと肩に手を置いた瞬間、アナスタシアが弾かれたようにその手を振り払った。
「触るなっ!」
バシッという乾いた音と、アナスタシアの悲痛な声が静かな部屋に響く。
静寂の中、驚いた顔でカインがアナスタシアを見つめている。
「……もういい……帰ってくれ。」
アナスタシアが肩を落とし、視線を逸らしたまま、小さくつぶやく。
カインは何か言いたげにアナスタシアを見つめるが、その視線が彼女と重なることはなかった。
沈黙だけが残り、戸惑うカインの前で、アナスタシアは小刻みに震えている。
――何を間違えた?
あまりに明確な拒絶に、もはやそう聞くこともできない。
カインは、なすすべもなく伯爵邸を後にした。
***
――アナスタシアを誰にも渡したくない
カインは、ただその一心だった。
「アナスタシア……」
馬に跨り、カインが呆然とつぶやく。
ルーカスを失ったとき、側にいてやることができなかったことを後悔した。
騎士として、団長として復帰してくれたことに喜びを感じたと同時に、男として何一つ支えになれなかった不甲斐なさに、改めてアナスタシアを特別に思う心があることを自覚した。
「お前が騎士団に復帰できないなど……お前を失うなんて……考えたくもなかったんだ。」
空を見上げる。
――独り占めしたいと思った、そんな情けない心を見透かされたのかもしれないな。
アナスタシアは伯爵令嬢だ。騎士団を辞めるとなれば、彼女への縁談は後を絶たないだろう。
その事実に気づいた瞬間、考えるより先に伯爵領へ向かっていた。
―― 子爵家三男の俺では……所詮、不釣り合いだということか。
「帰ってくれっ!」
悲痛な声が耳から離れない。弾かれた手を握りしめ、拳を額に当てる。
「お前の人生に責任を持ちたかった……幸せにするのが俺じゃ、ダメなのか……」
騎士として隣に立つ日々に、身分差など感じたことはなかった。
――騎士でなければ、俺は隣に立つことさえ許されない。
どんな戦況においても、カインは負けることなど考えたことがなかった。
常に最善を模索し、実行してきた。
その彼に、身分差という大きな壁が立ち塞がっていた。
***
アナスタシアの騎士としての矜持は、カインの手で破壊された――少なくともアナスタシアにとっては、それほどの衝撃だった。
悪意はなかったのだろう。
だが、カインの言葉に、意識を取り戻した直後に聞かされた『あの言葉』が蘇った――
だからこそ、カインの言葉はアナスタシアの心を深く傷つけた。
『ともに戦う仲間』から『守られるしかない女性』となってしまったからだ。
――仲間にまで「戦えない」と判断されたんだな。
そんなつもりはなかったのだろうが、わたしには……
自分の一番大切な部分を打ち砕かれた。
「わたしの居場所は、もう騎士団にはないということか。」
つぶやきが胸の深いところに突き刺さる。
それは、アナスタシアの騎士復帰を諦めさせるには十分な痛みだった。
***
カインの訪問から数日後、塞ぎ込むアナスタシアのもとに、大公が訪ねてきた。
「ひどい顔色だ。」
優しく頬に触れる指先が、とても温かい。
決して大丈夫かと聞かない。ただ寄り添ってくれるのが、策士の彼らしい。
そのぬくもりに、かろうじて押しとどめていた涙が溢れそうになる。
心地いい沈黙の中で、ゆっくりと指先が頬を上下する。
「君はどうしたい?」
どこまでも優しい声は、こんな時でさえアナスタシアに無理を言わない。
「騎士であろうが、無かろうが、関係ない。わたしにとって君は、唯一無二の存在だよ。」
顔をあげたアナスタシアは、暗闇に置き去りにされた子供のようだった。
その一瞬に、彼女の悲しみも絶望も感じ取った大公が、強く身体を抱き寄せた。
不安を包み込むように、彼女の心を全身で受け止める。
「これ以上、傷つかなくていい。」
その言葉に、アナスタシアの涙腺は完全に崩壊した。
うあああああああ
――騎士であった自分を、カインが否定した。
愛した人にとって、自分はもう、ともに戦う人ではない。
紅蓮龍を前に感じた絶望より深く、アナスタシアの心が闇に沈んでいった。
***
紅蓮龍で意識不明になっていた自分が目覚めた日――『欠陥品』の烙印を押されたあの日――アナスタシアは父の腕の中で泣き崩れた。
あの絶望からアナスタシアを救ってくれたのは、確かにカインだった。
――同期として、仲間として最も信頼してきた男性。
『失いたくない仲間』だと言ってくれた。
わたしの生命は重いと教えてくれた。
未来を、誰かにゆだねることはしない――そう、心に強く誓ったはずだった。
「わたしはもう、戦えない……のか」
薄暗い静かな部屋に、声にならないつぶやきが落ちる。
リハビリは続けているが、剣は持てなくなった。
――どんな迷いも、無心に素振りをすると心が落ち着いたのに……
いつだって、そうすれば自分の中の答えを見つけることができた。
「それすら……もうできない。」
胸にずしりと重くのしかかる正体不明の何かが、じくじくと痛みだけを明確にしていく。
無情なほど何もない朝だけが繰り返し訪れ、無力さと孤独だけが、はっきりとした輪郭をもって心の内側を侵食していた。
――今のわたしになにができるというのだ……できることなど、何もない。
部屋の片隅にある剣は、主を失ったまま寂しく鈍い光を放つ。
アナスタシアは、その光に気づかないふりをしてかろうじて心の均衡を保っていた。
『若さ故』と言い訳するには、あまりにも残酷な一言。
アナスタシアのすべてが、一瞬で崩れ落ちた。
信頼しているから、愛しているから、受け入れられない――。
次回「もう放っておいて」
傷ついたアナスタシアを救うのは、もちろんあの『大人の男』です。
どうぞ、お楽しみに!




