31. 帰る場所
アナスタシアは、何を選び、誰との未来へ向かうのか――ついに、第二章開幕です。
無意識に握る指先に、剣先の重さを感じない――いや、感じられない。
その不条理な現実に痛む胸を無視した直後に浮かんだのは、心をかき乱すあの言葉だった。
「アナスタシア、大公妃になってくれないか?」
あの夜から、何度も反芻した大公の言葉。
同時に、カインの声も思い浮かぶ――
「俺はお前を信じてる。」
信じるという言葉が、曖昧ながらも温かく感じる。
カインが信じてくれた自分が誰なのか、つい考えてしまう。
「当然、騎士団長として責任を全うしているはずのわたしだろうな。」
騎士として、仲間として戦ってきた同志――
多分、カインにとって自分は、それ以上でもそれ以下でもないのだろう。
そこに意味を持たせようとしてしまうのは、間違いなく、彼を同志以上に思っている自分だ。
「わたしは……」
――カイン……今のわたしを見たら、お前はなんというのかな。
騎士としてのわたしを認め、真の心を置くカイン。会いたいと思いながら、変わり果てた今の自分がカインの前でどんな顔をすればいいのかわからず泣きたくなる。大公の言葉はそんな心を救ってくれる。
「大公さまに守られることが選べれば、傷つくことなどないんだろうけれど……」
その答えに納得できていない自分がいる。
――決められたくないんだ……まだ、決められない。
騎士として長年培った習慣はそう簡単に変えられない。
朝日が昇る前には目が覚める。
稽古に打ち込んでいた時間……少しずつ明るくなる空をぼんやりと見つめながら、交互に浮かぶ二人への想いを手のひらで握りしめ、選べない未来から目を逸らした。
***
夜会での醜聞は、まったくと言っていいほど聞こえてこなかった。
さすがは策士のすることだ。
相手が相手だけに、噂を広める者もいない。
王都のタウンハウスに滞在するのは久しぶりだ。
騎士見習いの頃から宿舎に住んでいたのだ。
ここで暮らすのは、幼少期以来……だろうか。
そのせいか、使用人たちは少しぎこちない様子だ。
もちろん、古くから仕えてくれている乳母や執事長、料理人たちは顔なじみだ。
ただ、年若い……と言っても自分と同じか少し上くらいだろうが……彼らからは戸惑いが伝わってくる。
父から許可を得て、午前中は執務室へ詰める。
それも、令嬢らしからぬ行動だ。驚くのも無理はない。
「わたしには、こちらのほうが性に合っているんだが……」
そんなつぶやきを聞き取った乳母が笑う。
「お嬢さまは、そのままでいいんですよ。あの子たちもすぐに慣れます。」
「そうか?」
「そうですとも。聡明で思慮深いアナスタシアさまは、変わらず素敵なお嬢さまです。」
言い切られてしまうと、どう反応していいかわからなくなる。
真っ赤になった頬を隠そうにも、乳母が髪を結ってくれているため動けない。
「ほら、こんなにも美しい。」
髪を結いあげて乳母が笑う。鏡の中には、驚くほど『女性の姿』をした自分が映っていた。
***
「アナスタシア、こちらの案件はどう思う?」
執務室で、父と兄と領地管理に関わる書類を広げ、意見を求めてきた。
ミルグレン公爵家との事業は順調に進んでいる。
そのうえで、領地への還元をどうするか、将来的に領民の生活にどのように生かすかを話し合っていた。
「財政を健全に保つという意味では、領民に依存させるのは良くないでしょうね。」
「ならば、どうする?」
「この事業の一端を、領民に任せるのはどうでしょう?もちろん、兄上が経営管理をするのですが」
父と兄が少し考え、顔を見合わせる。
「アナ、座学ではわたしの方が優秀だと思っていたが、やはりお前はすごいな。」
兄が満面の笑みを浮かべる。
「信じて任せる……騎士として生きてきたお前らしい判断だ。」
満足そうな父の言葉に、今までの人生が少しだけ報われた気がした。
仲間を守る決断には、いつも大きな責任が伴っていた。
騎士団長として、常に仲間のことを考えながら、一歩先を見てきた。
それは、騎士でなくなった今も生きている――そのこと嬉しい。
書類を前に、数字を分析し策略を練る。
戦場とは少し違った緊張を感じるが、それは決して居心地の悪いものではない。
自分が生きている実感をもたらしてくれるほどの満足感が、胸に広がった。
***
午後は、母との時間に充てることにしていた。
自分のために領地と王都をいつもより多く往復してくれた母。
ただ優しいだけじゃない、しなやかな女性的な強さに、幼いころからあこがれていた。
「アナ、無理はしていない?」
時に触れて、母が訪ねてくれる。
それは、騎士としての日常に未練がある心を見透かしていたからかもしれない。
あるいは、慣れない買い物や、街歩きに突き合わせているという、母の罪悪感なのかもしれない。
「騎士以外、何も知らなかったのだと実感させられています。」
母には本心を隠さないでいると決めた。
騎士への未練を無理に押し殺したとして、それに気づいた母に心労をかけるのは不本意だからだ。
香ばしい焼き菓子の匂い、鮮やかな色どりできれいに並べられた野菜や果物。
子供たちのはしゃぐ声に市場での景気のいい笑い声。
「街は生きている。この人たちの笑顔を守りたい。」
戦う以外にも、この笑顔を守るすべがあることは、父や兄の仕事を見ていて実感した。
「あなたは変わらないわね。」
「えっ?」
「あなたが変わらないことに、ホッとしているのよ。」
母の微笑みに、肩の力が抜けた。
いつだって、自分の心の真ん中には「守りたい」という気持ちがあった。
「守り方は、いろんな形があるの。あなたは――どう守りたいのかが、見えているのではないかしら?」
楽しそうに走り回る市場の子供たちを見つめながら、母が呟いた。
「戻れるのでしょうか?」
ポロリと本音がこぼれる。
「戻れるかどうかを考えるより、あなたがどうしたいのかを決めなくてはね。
生き方を選べる人というのは、存外少ないものよ。」
母の言葉が、ゆっくりと心にしみていった。
***
夕暮れの王都を見下ろしながら、昼間の母の言葉を思い出していた。
「わたしは、恐れているのか?」
騎士への未練を口にすることに戸惑いがあるのは、自分の弱さ故だと思っていた。
自分を弱いと決めつけることで、具体的な問題から目を背けていた。
――怪我の後遺症と筋力の低下。身体的不安はわかり切っている。
実際、午後に母と街歩きをするだけで疲れ切っている。
けれど、それよりももっと根本的な問題。
心の奥深く沈め、見ないフリをしていた。
「どんなに武装しようとも、王宮の貴族たちの言葉には無意味だったものな。」
砕け散った自尊心と捨て去られた名誉――心の奥で触れられたくない傷が疼く。
貴族院との政治的対立。
無価値だと侮蔑される日々。
すり減っていく神経を鍛錬で誤魔化していた。
見ないフリをすることで、慣れたつもりでいた。
「違ったのだな……わたしは、傷ついていた。」
これ以上、傷つけられるのを恐れていることを認めたくなかった。
「だから、逃げた……のか。」
ルーカスに託されたのは、騎士団の仲間たちだけではない。
逃げ出して見えなくなっていたのは、未来ではなく自分自身だったのかもしれない。
――カインが信じてくれた騎士としての自分。
その彼に恥じない人でありたい。
その夜、アナスタシアは大公へ手紙をしたためた。
――諦める前に、できることはすべてすると決めました。
わたしは騎士でありたい。
可能性はゼロかもしれない。
受け入れてもらえないかもしれない。
それでも、今わたしは騎士を辞められないのです。
わがままをお許しください。
アナスタシア・マーベル――
お読みいただき、ありがとうございます。
第一章を完結したあと、しばらく心が折れていましたが、
それでもアナスタシアはこのまま終わるような選択はしないと思い直し、
彼女らしい選択の結末まで描いていこうと決心しました。
次回「責任の取り方」
カインが登場します。
……けれど彼は、「大切な一言」を間違えてしまい――
お楽しみに!
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これからも、よろしくお願いします。




