30.運命の分かれ道
「わたしの元に来ないかい?」
キースランの声が、数秒遅れて思考の奥深くに届く。
指先に感じるぬくもりが、幸せな未来を確信させてくれる。
「わたし……」
「少し、卑怯だったね。」
放された手のひらに冷たさを感じて不安になる。
「覚えておくといい、大人の本気は諦めが悪い。」
そう言って笑った顔は、どこか少年のようだった。
***
小鳥の鳴き声に目を覚ます。
昨夜の出来事に支配された思考では、窓から吹き込む心地よい風も感じることはできない。
アナスタシアの動揺は酷く、あのバルコニーからどうやって家に戻ったのか思い出せないほどだった。
「わたし、大公さまに婚姻を申し込まれた……?」
言葉にして改めて、ことの大きさにめまいがする。
夜会でのキースランは、終始にこやかで抜け目のない紳士だった。
アナスタシアだけと踊り、エスコートを完璧にこなした。
そのうえで、周囲からのもの言いたげな目線をも封じ込めていた。
「幸か不幸か、大公さまに問いただすことができる人物はいなかったのよね。」
体感温度が、急激に変わる――キースランの放つ殺気は、体感温度でいう絶対零度だ。
一方で、彼の視線は暖かく優しく、向けられる悪意すべてから守ってくれるものだった。
戦場以外では、一人で戦ってきた。そんなアナスタシアにとって、『守られること』は初めての経験だった。
彼の微笑みを思い出して、頬が少し赤くなる。
「わたし……」
戸惑いと同時に心に浮かんだのは、カインの姿だった。
戦場で肩を並べ、命を預けた。
誰よりも信頼し、共に紅蓮龍討伐を果たした。
――騎士として、一緒に生きられるなら……
そう思った瞬間、痛みを感じないはずの傷跡に痛みを感じた。
騎士として『欠陥品』と烙印を押された。
もう、あの場所には戻れない。
二度とカインの横には立てないのだ。
思い出すと軋む胸の痛みに気づかないフリをする。
――見ないフリは得意だ。
騎士として慣れ切った『封印』が何とも皮肉で、アナスタシアは笑うしかなかった。
***
「アナスタシア、大丈夫かい?」
兄が心配そうに顔を覗き込む。
夜会で呆然自失に近い状態となり、動かなくなったアナスタシアを自宅へと連れ帰ったのは兄だった。
母も心配そうに扉の近くから様子を伺っている。
「お前とキースラン大公のダンスは、ひどく噂になってしまってね。」
兄が困ったように笑う。
「そのまま姿が見えなくなったろ?夜会は一時、騒然としたんだ。」
促されるまま移動したバルコニーでは、二人きりだった。
よく考えれば、それが意味することが分からないほど子供ではない。
アナスタシアは、同時にキースランの策を感じた。
「キースラン大公が体調を崩したお前を保護し、わたしを呼んで夜会からお前を退場させた。」
「迷惑には?」
「なってないよ。おそらく、彼の計算通りだろうね。」
キースランが言った『大人の本気』を垣間見た気がした。
「お兄さま、ありがとう。」
お礼を言うと、兄はまた、困ったように笑った。
「アナ……」
そんなやり取りの中、母が申し訳なさそうに名を呼ぶ。
「そのキースラン大公なのだけれど……」
母の口調に嫌な予感がする。
「今朝早くに、あなたへの婚姻の申し込みがあったわ。」
どうやら、ここまでが『大人の本気』だったようだ。
アナスタシアは、驚きに絶句した。
噂の種を撒き、醜聞にならないように守り、かつ正式に婚姻へと道筋を立てる。
逃げ場などない。
一流の策士だ。
「アナ……?」
母の心配そうな声に、微笑む。
「報告が遅れてごめんなさい。昨夜、キースラン大公さまから直接、婚姻のお話がありました。」
「返事は?」
ふるふると首を振った。
「今はまだ、答えを出すことはできません。」
そう口にするのがやっとだった。
***
返事を保留にしたと告げたアナスタシアに、母も兄も静かに頷いてくれた。
父は頭を抱えているらしいが、母が大丈夫だと笑ってくれたのが救いだった。
自室に戻ると、少しだけ高くなった日差しが部屋の半分まで明るく照らしている。
アナスタシアは小さく息をついて、窓の外を眺めた。
騎士として訓練を続けた小さいころの自分が、屋敷のあちこちにいる。
迷うことなく剣を振るうことができた日々。
家族に支えられ夢を叶えた。
侮辱されようと一人で歩み続けた道で見つけたかけがえのない仲間たち。
その未来が、ずっと続くと信じていた。
「先のことなど、本当にわからないのね。」
本音がポロリとこぼれる。
初めての感情を持て余し、気が付くと思考が止まっている。
考えればたいていのことは先が見えたし、まして人生に迷うことなどなかったのだ。
「アナスタシア、大公妃になってくれないか?」
バルコニーで聞いた、キースランの低く優しい声を思い出す。
婚姻の申し込みに同封された手紙には、答えを急いではいないと書かれていた。
両親に知らせたのは、『誠意をあらわすため』急いだものらしい。
同封された手紙にもう一度視線を送る。
「本当に、あなたは策士。」
『誠意の婚姻の申し込み』は両親に対してのものだったらしい。
アナスタシア宛の手紙には、自分の本気を知ってもらいたかったとあった。
それなのに、答えは急ぐ必要がないこと、結論はとことん迷ってから出せばいいと綴られていた。
「何もかも、お見通し。」
先回りで心を読まれることには慣れていない。
どちらかと言えば、自分は常に先々を読んで行動するタイプだ。
キースランの手のひらで踊らされている。
なのに、それが不思議とイヤではなかった。
ふわっと柔らかい風が頬を撫でた。
「俺はお前を信じてる。」
風の音が、手紙に添えられた言葉にカインの声が重なって聞こえる。
騎士として生きてきたどの瞬間にも、カインは側にいた。
言葉を交わさなくとも分かり合えたいくつもの戦いの中で、確かに自分の人生を彼に託していたのだ。
カインがいてくれたから、紅蓮龍討伐にも立ち向かえた。
「とことん迷っていい……か。」
答えを出すのはアナスタシア自身だ。
迷い続ける時間も、守られる未来も。
そのどちらでも戦う自分――すべてが、どれもがアナスタシアだ。
――わたしは自分を信じたい。
遠くの空に浮かぶ雲が、ゆっくりと流れていく。
その姿に、明日の自分を思い描く。
答えは見えなくとも、前を向いて立つ。
迷いながらも歩みを進める。
新しい未来も、過去から続く未来も――すべてがアナスタシアの選ぶ生き方だ。
そして、そのどちらに心を決めても、後悔しないと迷わず言える。
静かに流れる雲の行き先に、未来がある。
その未来を、誰かにゆだねることはしない――そう、心に強く誓った。
お読みいただき、ありがとうございます。
無事に第一章「女騎士団長、アナスタシア・マーベル」を完結させることができました。
アナスタシアの未来は、ここから大きく変わっていきます。
幸せになる選択肢は、一つだけではありません……
実はここまで書いて、心がポキッと折れかかっております……汗
次回からは異世界恋愛の要素がより強くなる……ところまで決まっていて、
どんな展開にするかアイデアも固まりつつあるのですが、
まだ続きが書けずにいます……涙
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