29.図書館の紳士
「正式な場で会うことがあると約束しよう。
それまでは、図書館で会ったお節介だとでも記憶しておいてくれないか。」
その言葉通り、運命の出会いは、必然が限りなく偶然に近い姿をしてアナスタシアの前に訪れた。
「初めまして、騎士殿。」
その微笑みは一瞬で空気を掌握し、息をするように周囲を彼の世界に引き込んだ。
***
封蝋されたキースランからの手紙は、簡潔でそれでいて思いやりにあふれたものだった。
王都での噂を心配する必要はないこと、公爵家との婚姻が無効となろうと支援は約束されていることなど、アナスタシアの懸念がまるで見えているかのような内容だった。
加えて、『良き友人の一人』、そう名乗りを上げたノックスは、アナスタシアとの友好関係を大切にした。
その証拠に、アナスタシアは公爵家主催の夜会に、兄と共に招待されたのだ。
夜会の招待には、たとえ婚姻がなくなっても、公爵家が伯爵家の後ろ盾であると知らしめる目的があった。そのうえで、事業提携は確約され、マーベル伯爵家の事業は安泰だと無言の保証を与えることもできる。
「公爵さまは、優しすぎる。」
婚姻を断ったにもかかわらず、伯爵家と公爵家の関係を維持できているノックスの善意に、胸をなでおろす。貴族社会における家格は絶対だ。公爵家との事業提携は、アナスタシアとは別に伯爵家そのものが重要な立場であることの証明になっているのだ。その証拠に、文句を言う貴族はいない。
「アナ、ありがとう。」
優しい兄は、夜会の道中でにっこりと微笑んだ。
「お前の決断が、領地の民を救ってくれた。ここからは、わたしが頑張るよ。」
「わたしは何も……婚約のお話さえお断りしたのに」
申し訳なくて俯く。
「それは違うよ。」
驚いて顔をあげると、兄が真っすぐアナスタシアを見つめていた。
「お前の生き方が、公爵家に認められたんだ。」
その一言に、救われた気がした。
不要と言われ、欠陥品の烙印を押された――騎士としての自分。
その生き方を誰かが認めてくれた。
兄の一言で、キースランの言葉が現実味をもって、アナスタシアの心の奥に届いた。
「ありがとう……ございます。」
こみ上げる想いが溢れて、涙が一筋頬を伝った。
「お前は泣いても美しいが、化粧が崩れてしまっては、わたしが叱られるな。」
苦笑いしてハンカチを差し出した兄に、微笑みを返した。
心の中が暖かい光に包まれて、それが勇気になるのを感じた。
公爵家の夜会とは言え、悪意を向けられないとは限らない。
商会長から聞かされた『噂』は、まだ心に深く刻まれている。
少しでも油断すれば、治癒しきれなかった生々しい傷から、痛みも悲しみもあふれ出すだろう。
兄のエスコートで公爵家に足を踏み入れる。
覚悟を決め、背筋を伸ばして歩くアナスタシアの美しさに、夜会に訪れた紳士たちはみな視線を奪われた。
***
「初めまして、騎士殿。」
夜会の空気を掌握し、その紳士は優雅に微笑んだ。
どうやら今夜、彼が直接声をかけたゲストは、アナスタシアが初めてだったようだ。
「以前は、図書館で会ったお節介として話をしたね。」
周囲には聞こえない声で、キースランがアナスタシアに軽く耳打ちする。
その声にピクリと肩を揺らすと、キースランが周囲に聞こえるように自己紹介した。
「キースラン・ミルグレンだ。皆には、キースラン大公と呼ばれている。」
よく透る低い声に、周囲の女性たちから感嘆のため息がこぼれる。
「ややこしいからね、わたしのことはキースラン大公、息子のことはノックス公爵と呼んでくれればいいよ。」
「お初にお目にかかります。マーベル伯爵家が長女、アナスタシア・マーベルでございます。」
キースランに習って、アナスタシアも初対面を装う。
「君に会いたいと思っていたんだ。来てくれて嬉しいよ。」
あまりにストレートな物言いに、その言葉を聞いた女性たちの顔が赤らむ。
「父上、わたしのゲストですよ。あまりいじめないでください。」
苦笑いしながら、ノックスがあらわれた。
そして、恭しくアナスタシアの手を取ると、その甲に口づけるそぶりをする。
貴族社会で親しい者だけに許された、女性に対する最大の尊敬と敬意を示す伝統的な礼儀作法だった。
「ノックス。その役目はわたしだったはずだぞ。」
「そうでしたか?」
ノックスが、いたずらが成功した子供のように笑う。
その横で、キースランが冷ややかに笑い、その場の空気が冷たくなる。
アナスタシアは左右の紳士が何を牽制し合っているのかわからず真ん中に立ち尽くしていた。
「本日は、お招きいただきありがとうございます。」
そんなアナスタシアを救うかのように、吹き抜ける春風を纏って、兄があらわれた。
そして、大公と公爵に最高敬意を示す礼をする。
「君はやはり、できる男のようだ。あちらの部屋でノックスと事業の契約の最終締結をしてくるといい。妹君は、わたしがエスコートさせてもらうよ。」
そう言うと、キースランが意味深な目線を投げかけながらアナスタシアの手をとった。
これは事実上の決定事項だ。この場で……いや、王都中を探しても、キースランに異を唱えることができる者など国王陛下くらいだろう。
にこやかに笑ってアナスタシアの手を取ると、優雅にダンスフロア中央まで足を運ぶ。
「踊れるかい?」
「激しい動きでなければ、大丈夫だと思います……でも」
アナスタシアは傷を心配するより、キースラン相手にダンスを踊ることに躊躇した。
「相手がわたしでは、不服かな?」
「そんな、まさか。」
「心配はいらないよ。わたしが選んだ君を貶めるような愚か者はいない。」
冷ややかな微笑みに、戦場で幾度も経験した殺気を感じる。
「君は、やはり素敵だ。」
キースランの冷気に充てられて、時が止まったようにあたりが静まり返る。
若い令嬢たちは気をやられていくが、アナスタシアはその冷気を受けて平然としている。
その姿に軽く頷き、キースランが嬉しそうに笑う。
ゆっくりと流れ出す円舞曲に合わせて大きくステップを踏み出す。
アナスタシアをリードし、二人がゲストの合間を流れるように移動する。
「大公さまにお誘いいただけて、光栄です。」
「わたしこそ、君と踊れる栄誉に感謝しているよ。」
アナスタシアは図書館で感じた安心感を再確認した。
この人の言葉と瞳に勇気をもらい、もう一度剣を持ち、大切な友人との約束を果たすことができた。
――わたしはこの人に救われたんだ。
恐怖も不安もなく、迷いのない自分自身でいられる――絶対的な安寧に包まれている。
幸せだけを感じていられる不思議な感覚に包まれながら、ふとまだお礼を告げていないことに気づく。
「……ありがとうございました。」
「?」
「わたしがもう一度、騎士として剣を握れたのは大公さまのおかげです。」
「後悔は?」
「ありません。」
ダンスを終えて互いに礼をする。
そのまま流れるような仕草で、バルコニーへと導かれる。
「アナスタシア。」
真剣な眼差しに射貫かれて、息をするのも忘れる。
夜風が木々を揺らして音を立てる。
夜会の喧騒は、もう聞こえない。
「わたしの元に来ないかい?」
あまりに突然のことだった。
聞こえてきた言葉が、うまく理解できず時間だけが止まった。
夜風がアナスタシアのドレスの裾を揺らし、木々がざわめく音が大きく聞こえる。
キースランは迷うことなく彼女の手を取ると、もう一度ハッキリとその願いを口にした。
「アナスタシア、大公妃になってくれないか?」




