28.覚悟の別離
運命というのは、ひどくいたずら好きのようだ。
絶望の中でようやく見つけた希望の日々でさえ、静かに過ごすことを許してはくれなかった。
騎士団復帰の道が難しいと知らされてすぐ、アナスタシアは先送りにしていたミルグレン公爵との婚約に向き合うことにした。丁寧に手紙をしたため、婚約を前向きに考えたいと伝えた。驚くべきことに、その手紙を送って三日もせず、公爵家の紋章入りの馬車がやって来たのだ。
「前触れを出したとはいえ、突然の申し出を快く受けていただき、感謝しています。」
アナスタシアの目の前で、祝宴の席で見かけた、また手紙で知り得たままの紳士が、優美に微笑んでいた。
***
未婚の女性が、婚約するだろう相手とはいえ、男性と二人きりになることは許されない。
秩序を守り、可能な限りプライベートの空間をとミルグレン公爵には中庭の見えるテラスへ招待した。
「素晴らしい庭ですね。」
「母の自慢の庭です。公爵さまにそう言っていただけたと知れば、母も庭師もとても喜ぶことでしょう。」
貴族らしいやり取りで互いの様子を伺う。
「本日は、お越しいただきありがとうございます。」
アナスタシアは改めて礼を伝えた。
「婚約の返事は、あなたに会って聞きたかったのです。」
心地よい風が、二人の間を吹き抜ける。
「そのことなのですが……」
アナスタシアの声のトーンが一段下がる。
ミルグレン公爵に手紙を書いてすぐ、ひいきにしている商会長がやって来た。そして聞かされたのは、王都でのアナスタシアの噂だった。
どうやらその噂は、朗らかな商会長を口ごもらせるほど辛辣で、罵詈雑言の域に達していた。
その中には、ミルグレン公爵との婚約話に触れる者もあり、そのほとんどが口にするのも憚れるようなものだと、商会長は言った。
「それほどまでに……」
「お嬢さま、あなた様の友人として、この場での発言を許していただけますかな?」
両親が全幅の信頼を置く商会長が、珍しく一言断りを入れた。アナスタシアは、それが何を意味するのかすぐに理解できた。こくりと頷くと、商会長は人払いを願い出て、はっきりと告げた。
「貴族というのは口さがない者のほうが多い。お嬢さまを平気で傷物扱いし、あまつさえ公爵家の足を引っ張ろうと画策する者もいる。商売において、信頼は最も重要です。故に、これ以上はご勘弁願いたいですが、わたしの耳には、確実に悪い噂が聞こえてきました。」
心配そうに、商会長はアナスタシアを見つめた。それがいかに残酷なことかわかっているからだ。
「覚悟はしていました。ただ……少し思慮が浅かったようです。」
一度、目を伏せてから商会長を見つめる。
「貴重なお話をありがとうございました。大切な決断を、間違えずに済みそうです。」
手紙から三日……その短い時間に、アナスタシアの決断は全く違ったものになっていた。
「公爵さまにお返事をした後、侍医と話をしました。身体の傷は完治の可能性がほとんどないそうです。そして、世継ぎが望めない可能性があることも告げられました。」
「それが、何か?」
何でもないことのように、ミルグレン公爵が笑う。
「君のことをとやかく言う連中のことは把握済みだ。それが、何を意味するのかを知るころには、後悔だけで済まないだろうけれどね。」
中央で要職を担いながら、長く王家を支えてきた公爵家の力を否応なく思い知らされたようだった。
その言葉の重みが、避けられない未来の予言に聞こえる。
「あなたは何も心配しなくていい。わたしが、あなたを選んだのですから。」
アナスタシアは、その言葉が泣きたくなるほど嬉しかった。
そして同時に、自分の答えが間違っていないことを確信した。
「公爵さまがわたしを認めてくださった。だからこそ、その公爵さまを貶めるようなこの婚姻を結ぶことはできないと思ってしまったのです。わたしは……あなたの未来と公爵家の傷になる。」
「それでもわたしは、あなたがいいと言ったら?」
ゆっくりと息を吸い、アナスタシアが微笑む。
「わたしがそれを望みません。あなたの弱みになることが、あなたに守られなければならなくなることが、わたしは許せないと思うのです。」
その場を支配する美しさだった。彼女の高潔さ故の決断。その覚悟を目の当たりにして、ミルグレン公爵は小さく息を吐いた。
「父の言うとおりになったな。」
「えっ?」
「大公である父に言われたのです。あなたはきっと、わたしを守るために婚姻は結ばないだろうと。」
「大公さまが?」
思いもしない人の予言じみた言葉に、驚きが隠せなかった。その瞬間……一度だけ祝宴で見かけた面影が、ふと、つい先日出会った人の姿に重なった。
「図書館で会ったお節介だとでも記憶しておいてくれないか。」
名乗ってはもらえなかった――あの時の図書館の紳士。
騎士として生きたいと願いながら、剣を持てなくなっていた自分の背中を押してくれた人……それが、大公さまだったことにようやく気づく。
「これを」
ミルグレン公爵から手渡されたのは、封蝋された一通の手紙だった。
「あなたを賭けの対象にしたようで申し訳ないが、婚姻を断られたら、この手紙を渡してほしいと父に託されていたんだ。あなたの覚悟を無下にできないことも、すっかり見透かされていたな。」
そう笑った顔は、やり手の公爵でも、王都で貴族院のメンバーと渡り合う手厳しい貴族でもなく、年相応の青年のようだった。
「我儘を言ってすみません。」
「あなたが謝る必要などないよ。ただ……父より先にあなたに会っていたら、わたしは何があってもあなたを諦めなかったと思うけどね。」
少しだけ砕けた口調が、心を許してくれているようで嬉しくなる。ただ、その瞳には、迷いのような熱意のような『何か』が揺れる気配があった。本当ならば、これほど気楽に話せる相手ではない。
「これからは、良き友人の一人として、接してもらえないだろうか。」
思ってもみない提案がされた。
「よろしいのですか?」
「婚姻は叶わなかったけれど、ルーカスが信じたあなたとは、よき友になれると思う。どうだろう?」
「ルーカス……」
彼の名を穏やかな心で呼べるほど、傷が癒されていることに気づく。大切な仲間が結んでくれた縁を、未来につないでいくことに迷いはなかった。
――頬を撫でた温かい風が、『何か』が動き出す予感を運んできたのかもしれない。
この覚悟の別離こそが、アナスタシアの人生を再び大きく揺り動かすことに――そして、その運命の出会いは、すぐそこまで来ていた。




