22.遅れて届いた優しさ――選べない未来
繰り返される白昼夢の中で、意識はいつもどこか上の空だ。
湯気が立たなくなり、温度を失くしたティーカップを持ったまま、どこか遠くを見つめている。
静寂が耳に痛い。
平和すぎる午後の日差しの中、心の片隅がゆっくりと崩壊している――そんな感覚だけがあった。
「……お兄さまは?」
ふと、兄の怪我の回復状況が気になって、母に尋ねる。
「ジョシュアなら、もう大丈夫よ。」
選ぶように、ゆっくりと発せられた言葉に、拭いきれない違和感を感じる。
「あなたに会いたがっているのだけれど、その前に整理しなくてはいけないことがあるらしいの。」
その説明で事情を察することができた。鉱山で起きた事故。思った以上に大きかった被害。
お兄さまの性格と、領主代理としての行動理念。
おそらく見舞金と人手不足に加え、滞る生産と広がっていく不安の対応に追われているのだろう。
遠い昔の約束通り、お兄さまは全力で領地を守ろうとしている。
ならばわたしは――
無意識に背筋が伸びる。
戦場で指揮を取る時と同じように、訓練場で団員と向き合う時のように、胸を張る。
決意とは裏腹に、状況が想像できればできるほど、言葉が喉の奥から出てこない。
「……大変、なのですね。」
ようやく絞り出した言葉に、母は一瞬だけ視線を伏せたが、柔らかく笑って言う。
「すぐにどうにかなる話ではないのよ。」
言葉より、沈黙が多くを語る。
戦場でも王都でも、どうやら家でも、この定義は通用するようだ。
「でも、いずれきちんとしなければならないこと……ですよね?」
母の言えなかった言葉を紡いでみる。
「そうね、間違ってはいないわ。」
母の言葉に、領地の情勢が芳しくない事実を確信する。
忙しさを理由に、一度も顔合わせをしていない『政略結婚』が現実味をもって、目の前に差し出された。
「お母さま、以前、父から聞いたあのお話ですが……先方の意向は聞いていますか?」
「……」
やはり、沈黙は時として雄弁だ。
「教えてください。わたしもマーベル家の一員です。」
わたしを慮る両親は、答えを簡単に口にしないだろうと思った。
強くはっきりとした口調で、真っすぐ母を見る。
「先方からは、正式に準備をはじめませんかと打診がありました。」
「忙しくて、時間が合わなかったなどと、失礼な理由で顔合わせができていませんでしたから、そう言っていただけるのは、ありがたいことですね。」
少し諦めたように近況を報告する母は、やはりわたしのことを気にしているのだとわかった。
皮肉なもので、聞いておきながら、どこか他人事のように思っている自分がいる。
ノックス・ミルグレン公爵は人望厚い人格者だ。
祝宴で見かけた彼は、立ち居振る舞いも美しく美丈夫な男性だった。
以前受け取った手紙にも、彼の優しさと穏やかな人柄が現れていた。
「今が休暇中ならば、お会いする時間はたくさんありそうですね。」
義務のような一言になってしまったが、我が家の憂いを晴らす最善の方法がここに存在している。ならば、使うべきだと思った。
戦場で剣を振るう時に、迷ったことなど一度もない。
そして、政略結婚は、貴族令嬢にとっては引くことのできない戦いだ。
「準備を……して、手紙を書きます。」
戦場とはまるで違う。慣れない戦に、鎧よりも重い未来の姿が圧し掛かる。
戦場では剣を捨てなかったのに、家族の前では、こんなにも簡単に心を置き去りにできる。
騎士団長としての最後の誇りが、どこか皮肉のように思えた。
***
貴族令嬢として生まれたからには、「政略結婚」は生まれたときから与えられている使命だ。
けれど、令嬢としてではなく騎士としての誇りをもって生きると決めた。
その生き方は、あくまでも「家族が認めてくれたわがまま」なのだ。
ノックス・ミルグレン公爵。
いつだったかの夜会で、上品な深緑の礼服を身に纏った紳士二人を思い出す。
自然と視線を引きつけるオーラを纏い、会話の中心に立っていたキースラン大公。
威圧感なく、笑顔でたくさんの人たちに囲まれていた――その横で、臆することなく静かに微笑んでいた――あれが、ノックス現公爵。
不意にルーカスの声が聞こえた気がした。
「ノックス・ミルグレン公爵も、いくつかの事業で成功している優秀な人物ですよ。」
ミルグレン公爵のことを教えてくれたのは、ルーカスだった。
彼は、ミルグレン公爵のことをよく知っているようだった。
政略結婚のことも――
ミルグレン公爵家と言えば、歴史ある名家。
そのうえ、事業では数々の成功を収め、人々の生活を向上させた王都でも指折りの高位貴族だ。
「お父さまに突き付けられた婚姻だと思っていた。
けれど、お母さまは、ミルグレン公爵家からの申し入れだと言っていた。」
母に渡された手紙を手にする。
ルーカスの優しさが遅れて届いた。
そして、そこにはミルグレン公爵からの誠実な言葉が綴られていた。
――アナスタシア嬢へ
あなたに告げるべきかを迷い、告げられなかった大切なことを告白します。
親友に「卑怯者」と呼ばれるわけにはいかないので、筆を執りました。
先の戦闘で、あなたと共に戦ったルーカスは、わたしの親友です。
「団長の覚悟を軽視するような軽い気持ちでこの婚姻を進めるな。」
これが彼と交わした最後の言葉――今となっては約束です。
騎士として生きてきたあなたから、誇りを奪うような未来は望みません。
あなたの人生において、わたしが意味を持つならば、この婚姻を、未来を考えてください。
事業提携とこの婚姻は別だと、そう考えていただいて構いません。
あなたに、わたしの覚悟が少しでも伝わるよう願っています。
ノックス・ミルグレン――
どこまでも優しい人柄。
ルーカスが信じていた人物。
立場も財力も、伯爵家より格上。
領地の問題が一気に解決する。ミルグレン公爵は、婚姻がなくとも事業提携を結ぶと言ってくれている。
これほどまでに誠実な人物に何を迷うのだろう。
「好条件の縁談」に踏み込めない自分は、貴族令嬢として失格。
それどころか子供の癇癪レベルなのではないだろうか。
「正解」はわかっている。
それでも、剣を持たない未来を選べずにいる。
昼間渡された、もう一通の手紙に視線を落とす。
見覚えのある字――カイン・ニコルソン
ゆっくりと手を伸ばすが、触れる寸前で手が止まる。
指先が震える。
――開けるのが怖いとは……情けない。
「字を見るだけでこれほど動揺するなんて……
知らない間に、こんなにも弱くなっていたなんて……。」
わたしが騎士団を去ったところで、訓練も遠征も問題はないだろう。
「お前、実は不器用だよな。」
カインのこの一言は、すべてにおいて自分の核心をついていた。
目を閉じ、深く息を吐き、ゆっくりと手紙をなぞる。
家を守るという未来。
わたしを理解し尊重してくれる旦那さまとの、剣を持たない未来。
騎士としての未来。
わたしを理解してくれる仲間と、剣で大切なものを守る未来。
答えは――
間違ってないと思いながら、正しい未来が選べないでいた自分。
家族と領民を守ることも、騎士として戦うことも――
想定外の場所で、自分が予期していない出会いが待っていることなど知らなかった。
大事な政略結婚でさえ、自分が不相応になるなんて思わなかった。
未来は、本当にわからない。
運命はわたしに想像すらしていなかった幸せを運んでくれる。
ただそれは、まだずっと先の話――
このときのわたしはその予感さえないまま、薄暗い未来を手探りで歩いていた。




