21. 帰郷
マーベル伯爵領は、農地よりも鉱山が主流産業の領地ではあるが、緑は豊かなのどかな場所だ。
王都からは馬車で三日ほど離れるが、馬で駆ければ二日はかからない。
騎士団に所属していた頃は、社交シーズンを終えて領地に戻った母を訪ねるときによく早駆けをした。
最後に馬車で領地へ移動したのは、デビュタントの年だった。
王都に長く伸びた石畳や、訓練場の土埃とは違う。
土と草の匂いを含んだ柔らかい風が、木々を揺らしている。
「懐かしいな。」
馬上から見る流れる景色ではない風景を見るのは、ひどく久しぶりだ。
謹慎を受け入れてから、抜け殻のように生きていた。
父も母も、そんな娘にどう声をかけていいのかわからなかったのかもしれない。
謹慎の通達から数日後、父が領地へ行くことを薦めてくれた。
王都には、よからぬ噂が多すぎる――その多くは悪意に満ちたものばかりだったからだ。
「雑音の届かないところで、ゆっくり休暇を取っておいで。」
謹慎を休暇と呼ぶ当たり、なんとも父らしいと笑みがこぼれた。
「あなたの耳に入れる必要があるものは、何一つないわ。」
母は……社交場で何かを聞いたのだろう。
心を痛めなかったはずがない。
それでも、笑顔でわたしと共に領地へ来ると言ってくれた。
感情をどこかに忘れてきたような人形。
それでも、両親は受け入れ愛してくれた。
アナスタシアは、その両親の優しさを無下にする理由はなかった。
***
領地の実家の庭先。
剣の音も、号令も聞こえない静けさ。
鎧を打つ音も、血と魔獣が焦げ付く独特な臭いも存在しない。
風が運んでくるのは、優しい小鳥たちの鳴き声と、さわやかな木々の香りだ。
庭は良く手入れされていて、踏みしめるたびに柔らかい芝が優しく足元を押し返す。
訓練場の踏み固められた地面とは、まるで違う感触だ。
頬に感じる風は、鎧の隙間に入り込む冷たい戦場の風とは違い、温かく心を慰める。
緊張も、警戒も必要ない平和で穏やかな場所。
ここには、剣を握る理由すら存在しないのだ。
「アナ、お茶が入りましたよ。」
優しい声に振り向くと、母が四阿で満面の笑みを浮かべている。
領地に戻ってから、騎士服の代わりにドレスを纏っている。
一つに束ねるだけだった髪も、今は毎日、侍女が結ってくれる。
早朝訓練の習慣が抜けず、日が昇るころには目が覚めてしまうが、それは秘密だ。
空がゆっくりと明けていく時間に、剣を打つ音が聞こえて耳を塞ぐのも、気づかれてはいけない。
眠りが浅く、真夜中に目が覚める。
暗闇の中で膝を抱え、声を殺して泣くことで腫れる瞼を隠すことも慣れた。
時間だけは残酷に過ぎていく。
指先に、母の入れてくれたお茶の温かみが伝わってくる。
実家に到着してから幾日か過ぎ、ようやくアナスタシアの身体は温度を感じるようになっていた。
生きていることを証明するように、温かさを感じてしまうことが、裏切りのように思えた。
自分だけが暖かさを取り戻していいはずがない。
アナスタシアは何もかもが許せなかった。
「窮屈なのではなくて?」
ティーカップを持ったまま固まってしまったアナスタシアに、母が困った笑みを見せる。
おそらく、隊服でも稽古用のスラックスでもなく、令嬢らしいドレスを纏っていることに気を遣ってくれたのだろう。
「いえ……」
曖昧に応えてみるものの、母を前に偽りの笑顔は作れなかった。
騎士になると決める前から、稽古は一度たりとも欠かしたことがなかった。
なのに――素振りでさえ、領地に戻ってから一度もしていない……剣が持てないのだ。
剣を握れば、技も、型も、身体は自然に動くだろう。
それでも、剣に触れる勇気がないのだ。
一度触れてしまえば、心が戦場に戻ってしまう気がした。
血と炎と咆哮の中へ、心ごと引きずり込まれてしまう……そんな気がして怖いのだ。
そんなアナスタシアに何も聞かないでいてくれる母は、すべてをわかっているのかもしれない。
「アナ、無理はしないでね。」
真綿に包まれたように温かく、日差しの中で感じる安心。
過去と現実と、今と未来が心の中でせめぎ合っている。
胸の奥で何かがパチパチと爆ぜる。
避け続けたドレスを着て、母とお茶をする午後。
本来ならば、伯爵家として当然の光景に、アナスタシアだけが異質なものを感じる。
淑女としての振る舞いができることに驚きながら、自分が『女である』ことを再確認する。
避け続けた『女としての自分』を否が応でも突きつけられる。
「これもまた、逃げなのだろうな。」
小さなつぶやきが、冷め始めたティーカップに落ちる。
守り切れなかった。
脳裏に浮かぶ炎と咆哮。
紅蓮龍の爪がルーカスを襲う瞬間。
目の前で散っていく仲間を助けられなかった。
誰が何と言おうと、犠牲になった生命の責任は指揮官にある。
『ポルタコフ団長は、わたしの指揮下で戦死した。それが事実、それがすべてです。』
軍事会議での発言が、繰り返し響く。
自分自身の声が、誰の罵声よりずっと鋭く胸を刺す。
「アナ、顔色が悪いわ。」
母の心配そうな声に、はっとする。
「すみません。少し考え事を……」
「休暇中に、余計なことは考えなくてもいいのよ。」
父が休暇と笑ったが、どうやら我が家では『謹慎』ではなく『休暇』という認識が決定されているようだ。
戦場に置き忘れた感情が、常にアナスタシアの意識を呼び戻す。
実際、彼女の心は一度としてあの戦場から戻れてはいないのだろう。
アナスタシアの心は――確かにまだ、戦場にいるのだ。




