18.死
アナスタシアは、睨みつけた一点を見失わないように、攻撃準備に入った。
次の瞬間――
大きく空を揺らして、紅蓮龍の翼が放った突風が、地面を叩きつける。魔術師戦闘部隊の結界が、辛うじて部隊を守るが、魔獣たちは、なすすべなく吹き飛ばされる。
「ばっ、ば、化け物……!」
誰かの叫び声が戦場に響き、騎士たちの士気が一気に揺るいだ。
まずい――。
恐怖は伝染する。戦場に響いてしまった一言が、その場を支配していく。
各隊を率いる隊長たちは、それでも己を奮い立たせて戦っている。
アナスタシアは、目の前で傷つく仲間たちを、まるで別の場所から見ているような感覚を覚えた。
焼け焦げる匂いも、耳をつんざく金属音も、どこか遠い。
浮遊感に包まれたような異様な感覚が拭えないまま、視界の端に空中の紅蓮龍をとらえる。
黄金の瞳が一瞬光り、見つけた『逆鱗』が何かを溜めるように鈍く赤く光っている。
「お前たち、逃げろっ!」
間に合わない。
目の前を白い閃光が切り裂く。
だめだっ――
絶望に崩れそうになった刹那……巨大な防御壁が現れる。
間一髪、閃光が弾かれた。
「ルーカス!」
大きく展開された防御壁は、続く紅蓮龍の攻撃から騎士たちを守っている。
守られていることに気づいた各部隊が、左右に散っていく。
「ルーカス!!」
防御壁の向こうで、散り散りになる騎士たちの間を縫うように、ルーカスの視線がアナスタシアをとらえる。
皮肉でも嫌味でもなく、優しい笑顔が浮かぶ。
「アナスタシア、あなたに会えて良かった。」
声など聞こえない。
聞こえないはずのルーカスの声が届いた。
「あとは、頼みます。」
風魔法だったのだろうか、それとも最後の言葉だったからだろうか、確かにルーカスは確かにそう言った。
「駄目だ。英雄になどなるなと言っただろう。ルーカス!!!」
この魔獣地帯に入ってから、ルーカスだけはアナスタシアと同じものを見ていた。
魔力の高さから、同じようにこの絶対強者の存在を知っているのだ。
ルーカスは、同じものを感じている。
だから、分かってしまった。
――『逆鱗の存在』に気づいたのだな。
目をそらしてはいけない気がして、ルーカスを見つめる。
その視線を知ってか知らずか、ルーカスがわずかに微笑んだ。
ルーカスの指先が唇に触れ、詠唱がはじまる。防御から攻撃へと魔力が移行し、防御壁は徐々に薄れていく。ルーカスめがけて、紅蓮龍の攻撃が押し迫る。アナスタシアは、立ち尽くしたまま冷えて感覚を失くしていく指先を握り込むのが精一杯だった。
「団長!」
異様な空気を感じ取ったカインも、慌ててアナスタシアを見る。
微動だに動かないことに苛立ちをぶつけそうになって、見つめたその表情にぎょっとする。
そこには、息をする一瞬さえ見逃さない覚悟と、走り出そうとする足を無理やりとどめる拳があった。
一心にルーカスを凝視する姿は、ほかの何も映さず、何も聞こえていないのかもしれない。
「風光の投槍」
美しい新緑の光の槍が一直線に『逆鱗』を貫く。
ギュオォッ!
紅蓮龍の咆哮と同時に逆鱗が砕ける。
空に飛び散る『逆鱗の欠片』は、空に降り注ぐルビーのように美しく散っていく。
――ルーカスの手が、空を掴むように伸ばされ、ゆっくり力なく落ちていく。
魔力が尽き、閉じた瞳はまるで眠っているようにも見える。
「ルーカスっ!」
喉が切れ、鉄の味がする。
地面に縫い付けられたように、足が動かない。
騎士たちからは、歓喜の声が上がった。
『逆鱗』を砕いたのだ。
絶望から勝利を導いたルーカスに、賞賛の雄叫びがあがる。
ザシュッ
その勝利の歓喜をあざ笑うかのように、紅蓮龍の爪がルーカスを引き裂く。
まるで弾くように爪の先一つで、いとも簡単に命を奪った。
伝説の龍の前では、命は平等ではなかった。
攻撃にすべての魔力を使い果たしたであろうルーカスは、鮮血と共に空へ投げ出される。
「ルーカスっ!!!」
アナスタシアが反射的にルーカスの元へ飛び出した。
傷だらけの身体を抱え、防御魔法をかけながら後援部隊に合流する。
「ルーカスさま!」
魔術師戦闘部隊の悲痛な叫び声が聞こえる。
どくどくと流れ出る赤い血が、地面をゆっくりと染めていく。
心臓が嫌な音を立て、アナスタシアの世界が凍りついた。
――行け。お前の仕事は、まだ終わっていない。
凍りついた世界で、聞こえるはずのないルーカスの声が聞こえる。
アナスタシアはルーカスを預け、素早く紅蓮龍を見る。
何故だ!何故、倒れない!?
ルーカスの攻撃は、確かに『逆鱗』を貫き砕いた。
アナスタシアの射るような眼差しで、紅蓮龍を睨みつける。
倒れる様子がない紅蓮龍に、全身が湧きたつような怒りを感じる。
『逆鱗』を破壊されてなお、平然としている。
予想から遥かにズレたこの状況に、嫌な汗が背中を伝い、戦況は最悪の事態を迎えていた。
「――全員、戦場を離脱せよ。」
独り言のようなつぶやきだった。
「急げ!――撤退だっ!!!」
今度は、どの部隊にも聞こえるような大声を張り上げた。
焦げた木々の匂いが鼻を突き、土煙、悲鳴にも聞こえる兵の叫び声が耳の奥に響く。
号令に弾かれるように、各部隊が撤退していく。
一瞬の攻撃の隙さえ与えさせないと、紅蓮龍を真正面から見据えた。
「まだやれる!」
カインの怒りに震えた声が聞こえ、彼の闘志が剣先に青い炎を宿す。
ルーカスが戦闘不能になったことで、作戦は大幅に変わる。
何より、紅蓮龍を討つ術がないのだ。
「これは団長命令だカイン、行け!」
一瞬の迷いが命を奪う。これ以上の戦闘は無理だ。
魔力には限界がある。そして、騎士たちの体力と気力にも……
譲れない想いを込めて、カインを見つめる。
「部隊とルーカスを……頼む。」
アナスタシアは、感情に呑み込まれないように唇を噛みしめた。
カインは大きく目を見開いて、空を仰ぎ一呼吸する。そしてようやく、馬を引いた。
「殿はわたしが務める!――撤退だっ!!!」
焦げ付いた獣の匂いがあたりに充満している。
パチパチと小枝が焼け弾ける音がする。
ぐらぐらと地面が揺れているのは、多分気のせいだろう。
ぐっと力を入れて、大地を踏みしめる。
ルーカスの最後の言葉を思い出す。
倒れたりするものか。
わたしは……ここから生きて帰る。
炎の向こうに、紅蓮龍の影がゆらめいていた。
――その眼が、アナスタシアを見つめている。
不気味なほど微動だにしない紅蓮龍は、アナスタシアのすべてを見透かすように、その黄金の瞳を怪しく輝かせていた。




