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二十七話

 墨で染めたような手足は艶があり、黒の照りはふともものふくらみをなぞり、起伏の少ない腰と胸を通って、鬼女のように広がった髪一本一本に通じていた。

 その身体は幼さがあるのに、幾千年生きた妖怪のような凄味があり、相対すると背筋が凍る思いを持つ。

 ミタカは特に感情もなく、皿のような薄い笑いだけをして。獲物を見つけるために周囲を睨め回す眼球だけが世話しなく動いていた。それは動物的というよりも無機質な機械めいて、今までの人の温もりさえ感じえないように思えた。

 そんなミタカは黒い半透明の波の中で佇み、眼前にいる幾多を見下ろしていた。

「ミタカ! 聞こえるか」

 幾多は怪物めいた全景に変わったミタカの前で声を張り上げた。

「あのビルで、リデルは媒介者に殺された。ムントも、ここでお前に。いや、俺の手によって死んだ。もうこれ以上、何を望むってんだよ」

 <毒の意思>によって汚染された媒介者の思考の行き先など分かりきっている。それでも、幾多はミタカに微塵でも残っているであろう理性に、話しかけずにはいられなかった。

 ミタカは必死な幾多を意に介せず、口角を繊月のように吊り上げて嘲笑した。

「まだ足りない。渇いている。分かりきったことじゃない。誰が死のうが、そんなこと構わない」

 感情に訴えても、話が通じない。かつては会話できていた存在が、こう非人間的になるのはどことなく哀愁を感じる。

 だが、今そんな感傷に浸っている暇はない。幾多はそれさえも怒りに変えて、最後の手段に訴える。

 この場でのコミュニケーション手段はもはや闘争なしには語られない。

 先に手を出したのはミタカだった。

 黒い津波のような本体から数十本の触手を幾多に向ける。速さはそれほどでもないが、触手の面制圧は脅威だ。

 幾多は下手投げでスマートグレネードを投げて応戦する。グレネードは狙いを過たず触手の切っ先で爆破し、その衝撃で黒い触手はいくらか霧散した。しかしまだ数本が爆発を掻い潜り幾多に向かう。

 幾多は近場にあった人間大の瓦礫を、アポックのパワーに任せて持ち上げて盾にした。

 瓦礫は全ての触手を受け止めるが、当然瓦礫の中を黒い水が浸透する。

「オーダーリスト、スチームブースト」

 幾多は間髪入れずスチームブーストを蒸かして、瓦礫からも一気に距離を開ける。そして間一髪で瓦礫から伸びた黒い水を避けた。

 ミタカの追撃は終わらない。今度は大きな津波から小さな小波を、それにしたって三メートルを超す高さの波が幾多に迫った。

「それの対策を、俺がしないとでも思ったか」

 幾多はスマートグレネードを持ち帰る。それは青いラインが入ったものだ。

 そのまま青いラインのスマートグレネードが津波に向かって投擲される。

 スマートグレネードが波に飲み込まれる。と思われた時、それは破裂した。

 爆破の衝撃だけではない。中から細かいが透明なビーズ状のものも弾けて黒い水に付着した。

 すると津波は勢いをなくして、スマートグレネードの中から出たビーズに触れた部分は粘液性のある、ぶよぶよとした別の物質へと変化してしまった。

「超高吸水性ポリマーを含んだスマートグレネード、思ったよりいいじゃねえか」

 この仕掛けをしたスマートグレネードは後九個もある。十分に対策可能だ。

 一方、無表情だったミタカもこれには怒りを覚えたらしく、今度は小さい津波を三つに分けて流した。

 幾多はまた三度の投擲で三つの津波を粘性のある液体に固化させた。

「十分、効き始めてきたんじゃねえか」

 幾多はミタカの姿を指摘する。今やミタカを包んでいる黒い水はビル二階分にまで下がっている。これは単に黒い水を防ぐだけではない。ミタカの黒い水を消費させ、囲んでいる液体を少なくする一石二鳥の策なのだ。

 次に幾多はスチームブーストを蒸かした。そしてそのまま、ミタカに接近しながら左から回り込む、それから黒い津波の中央部に向かって特製グレネードを二個放り投げた。

 爆弾が着弾し、爆炎と超高吸水性ポリマーがばら撒かれ。ミタカを包む大きな津波が大きくえぐり取られ、巨体が揺らぐ。

 ついに自分の身に迫る暴挙にミタカは眼に怒りを込め、ビルの壁際を走る幾多を凝視し、裾を払うかのように太い触手で横に薙ぎ払った。

 幾多はスチームブーストの勢いに任せ、ビルの上階の壁に跳びこれを蹴り、触手を回避する。幾多は着地と共に再びミタカの側面を取ろうと回り込む。

 ある程度回り込んだところで、幾多は特製スマートグレネードを投擲する。それと共に黒い津波に突貫しだした。

 投げた二個が爆破される中、幾多はミタカの懐に潜り込む。既にミタカを覆う黒い水はビル一階建て分にまで減り、絶好のチャンスになっていた。

 幾多は黒い津波の中にいるミタカに向かいながら左手に抑制剤、右手に残りの特製スマートグレネードを握り距離を最小に縮めていく。

 最後の投擲で黒い水はいよいよ大きく裂け、ついにミタカが黒い水の装甲を外して肉薄する。

「約束を、果たしに来たぞ!」

 ミタカの周囲を覆う黒い水が破損個所を修復するように戻ってくる。それは想定よりも素早い。これは競争となる。

 今度こそ間に合えと、幾多は抑制剤の針をミタカに向かって突き付けた。

 その一撃はついに。

 間に合わなかった。

 寸前のところで左腕に黒い水が纏わりつき、幾多の前進は止まる。

「残念だな。幾多」

 黒い水は若干抵抗はあるものの、アポックの装甲を貫通して浸透していき、幾多の肌へと至る。

 触れた端から肌が筋肉が神経が骨が、黒い水により結晶化していくのを幾多は生きたまま感じた。

 それは寝違えて感覚のなくなった棒きれの腕のようだったけど、事態はそれほど軽くはない。

「おかあさん、また一人連れて行くよ。この人はきっと、おかあさんを満足させてくれる」

 黒い水は腕だけではなく、肩胸首や腹を包んでいく。どことなく温いそれは眠たくなるような触覚を与えた後、すぐさま遮断していく。

 全身がシャットダウンしていく感覚を、幾多は結晶化が脳に至るまで感じることになるだろう。

 もはや、ここには人類と媒介者はいない。媒介者ただそれだけになる。


 たぶん、それは過去の夢だろう。

「幾多はね。きっと回復力がすごいんじゃなくて、傷害に対する、免疫がすごいと思うのよ」

 山城がそう口を開いた。

 そこはいつもの、山城が安楽椅子で眠る白い居城。コーヒーとアルコールの臭いがこびりついた所長室だった。

 日差しは珍しく温かい木漏れ日のようで、カーテンの隙間から光がこぼれている。

「免疫って、回復力と一緒じゃないのか?」

「違う違う。全然違う。似てるけど、高校生だって知ってることよ」

 幾多は学力コンプレックスを刺激されて、むすっとした顔を作った。

「免疫はね。自己と他者を、他のものとを隔てる抗他のシステム。傷の治りを遅くする病原菌や非自己から自分を守り、自分を保つための大事なものよ。感情で言えば、怒りに近いかも」

「なんで、そんな発想になるんだ?」

「それは幾多はいつも怒っている風だからじゃない。それにね。免疫は感情の起伏に大きく影響されるの。笑うのが一番いいって言われるけど。きっと、怒りも何かしらの反応を起こすと思うのよ。私は」

 山城は、専門的見地からすれば悪影響の方が多いけどね。と付け加えた。

「なら、おれの免疫力は低いんじゃねえのか。笑うことなんて少ねえし」

「そのはずなんだけどね。試しに健康診断に使った幾多から採取した血液を使ったら、奇妙なことに細菌を取り込むような反応を起こしたの。それでいて、細胞自体は傷つかない。これってまるで率先して害悪を抑え込んでいるみたいなの」

「へえ、それって。俺は病原菌の抑制剤ってことか」

「まだ結論には早いけど、本当に奇妙。案外、幾多は媒介者っていうミタカの言い分も間違いはないのかもしれないわね」

「おいおい、ただの健康体だって証明してくれよ。今更、非人間扱いはかなわねえぜ」

 幾多はそう言って笑い。山城も釣られて笑った。日差しも相まってか、優しい森林の温もりの中で談笑している気分だった。

「ああ、ところでさ」

 幾多は思いついたように言葉を紡いだ。

「もしも、その免疫が無くなったら俺はどうなるんだ」

「そんなの決まっているじゃない」

 山城は当然のように胸を張って注意した。

「絶対にそんなことはないだろうけど、もし無くなれば、それまで無害化されて抑えられていた病原菌も、その症状も一気に噴出するでしょうね」


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