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二十八話

 身体が反転する。

 抑えたものが抑えられない。そんな感覚に何故か逆に怒りは引いていく。

 身体が変質していく。


「ゔらあああああ!」

 左腕が結晶化し、全身も同じ末路をたどると思われた時、何かが黒い水を全て掬い去った。

 それは蓮のように広い、口だ。この世界においてどんな生き物とも酷似しない大きな顎と広い口蓋が幾多に染み付く黒い水を物理的に取り去ってしまった。

 その口は幾多の左腕から伸びていた。アポックの装甲を破き、変形した腕が蓮のような口を生み出していたのだ。

「―――ムント?」

 ミタカでさえもその姿には驚かざるを得なかった。何せ打倒したはずの相手の能力がまたミタカの前に立ちふさがっているからだ。

 幾多は半狂乱に陥る中、ナイフを用いもせず右腕の手刀だけで黒い水に染まった変形した左腕を切り離す。

 そして四肢が三本になりながらも、犬のように地を這い。どこかを目指していく。

 それはムントの元だった。

「肉が、肉が足りないいいい」

 恐ろしいことに、幾多はムントの亡骸を捕食し始めた。ちぎれた左腕はヒルのようにやすり状へ変化し、幾多自身の歯も大型肉食獣のそれのように変化して肉を食い漁る。

 <毒の意思>に侵されているミタカでさえ、その有様に動揺を隠せなかった。

「まさか、媒介者の特性が幾多に移って、媒介者に?」

 ミタカはそれに気付くと、腹を抱えて笑い転げた。

「はっはっは、何だそれ。人間として私に対峙しようとしてた奴が、媒介者に? 因果応報? 自業自得? ミイラ取りがミイラに? 全く滑稽だな」

 ミタカがそうして嘲笑を浴びせている間に、ムントの死体は見事幾多の腹に収まってしまった。いや、正確にいれば幾多の身体と同じ細胞になり同化したのだ。

 同化した細胞はすぐさま幾多の左腕を補填するように、移植するように移り。身体を五体満足に戻した。

 ただ左腕は元よりも肥大し、ワニのような長く広い顎に変わっていた。

 幾多はそのワニのような顎を振り回し、ミタカに向かって考えもなさそうに走り出した。

 だがミタカは黒い水を鞭のように伸ばし、先に攻撃を仕掛ける。それに対して幾多はワニの顎で凌ぐのが精一杯だった。

 また黒い水が付着し、結晶化した左腕の部分を切り離すしかなかった。

 ミタカはその姿を見て、勝ち誇ったかのように両腕を振るう。

「どうしたこれ以上何もできないのか」

 ミタカは分かりやすく幾多を挑発する。それにも関わらず、幾多は獣のようにぐうぐうと唸りを上げているだけだった。

「何か気の利いたことを言ってみれば、少しは状況が良くなるんじゃないの」

「うううう」

 その瞬間、幾多は大きく口を開いた。

「―――!」

 絶叫、それはそうとしかいえない音響だった。

 耳をつんざき、肌さえも震え、空気はわななく。耳をふさがずにまともに立ってもいられないほどだった。

 ミタカはあまりの声量に伸ばしていた触腕をしまい、耳を中心に覆うように黒い水を凝縮する。それで、なんとか立っていられる音にまで収まった。

 幾多から発せられる音は明らかに人間離れしており、それはあたかもある媒介者の特徴を伝えているようだった。

「ノクト!? ありえない」

 幾多から浴びせられる音量が大きくなり、ついにミタカは自分の手のひらで耳を覆う。

 ノクト、それは幾多がサンクタムに行く途中で遭遇した媒介者の名前だった。音をつかさどり、パイプの歌声で地下に潜るものを混乱狂乱に陥れ、死にも至らしめる恐ろしい野良の媒介者のはずだった。

 だがその能力が今こうして幾多の元にある。

 幾多自身は自分の声で耳をふさぐ様子はない。完全に能力をものにしている。

 その一方、先ほどまでの落ち着きのなさはなくなり、熱々の鉄塊が冷えていくような雰囲気を醸し出していた。

 幾多の変化はそれだけにとどまらない。今度は幾多の左腕から、アポックの上から黒ずみだす。それは内側から沸々と黒い水が溢れだすようだった。

「なんで、そこにおかあさんがいるの… …?」

 ミタカの驚きを待たずに、幾多の左腕からは黒い水が噴出する。それはそのまま噴水のように噴き出し、ミタカに向けられる。

 ミタカに黒い水が、ミタカを覆う黒い水越しにかかる。

 すると不思議なことにミタカの黒い水と幾多の黒い水は反発しあうことなく混ざり合い、それは一体化し始めた。

 そして、ミタカの身体は引っ張られた。

 正確に言えばミタカの所有物である黒い水が幾多の黒い水に取り込まれ始めているのだ。

「なんでなんでなんで!?」

 ミタカはさっきまでの余裕は既に失せ、逆に黒い水を引き戻そうと格闘する。

 しかし水中で無意味に水をかくかのように取り返すことはかなわない。それどころか、ミタカのほとんどすべての黒い水を剥ぎ取ろうとしていた。

「こんな、こと」

 ミタカは仕方なく、自分の言うことをきく黒い水の部分までを生かすために分断させる。もはやミタカの八割がたの黒い水は幾多のものとなり、彼の左腕に浮遊する。

 あたかも風船を持つかのように軽々と黒い水を持ち、幾多は逡巡するような顔つきをしていた。その顔はもはや幾多本来の熱き心は宿っておらず、氷のように冷え固まった表情をしている。

 ミタカはその時、はっきりと恐怖を感じていた。それは捕食されるとか殺されるとかのものではない。

 自分が、自分のアイデンティティとか思考とか肉体とか、精神的と物理的に全て取り込まれるのではないかという恐れだった。

 幾多は恐怖に支配されそうなミタカを、意思のない双眸で見つめていた。


 黒い世界、遠くは見えず、風景はただ闇を凝集したかのように濃かった。

 幾多はそんな世界で暗いぬかるみに足を取られて動けずにいた。

 幾多は何故か泣いていた。理由は分からない。ただ悲しくて悲しくて、今までの怒りを忘れたかのように涙に暮れるのだった。

 正面には多くの誰かが立っていた。彼らのうち身元が分かるのはムントとリデルの姿があるというだけだった。

 顔は良く見えない。どうしてかと言えば、彼らは全員幾多に背を向けているからだ。

 彼らが何を想い、何を感じているのかは伺えない。立ち尽くして黙しているだけなのだ。

 幾多は何となく察した、彼らは皆、幾多が目撃した死者なのだ。死者は語らず、その追い姿しか見ることができないのだ。

「何を、泣いているんだい」

 幾多に声をかける存在がいた。

 声の方向に振り替えると、横には真っ白な、書き始めのキャンパスみたいな人影が立っていた。

「悲しいんだ。理由はわからないけどな」

「理由? 理由ならそこにあるじゃないか」

 白い人影は幾多の正面を指す。もちろん、死者たちのことだった。

「君は死者を慰めるために、慰められるために泣いているだけに過ぎないんじゃないのかな」

「じゃあ、どうすれば泣き止める」

「私が答えを言ってもいいのかい。君が向き合うべきものじゃないのかい」

 向き合うべきもの。

 それは現実、それは約束、それは仲間、それは未来。

 きっとそうだ。

「これは忘れものだよ」

 白い人影は右手に銀色の鳥かごを持っていた。それは幾多の見覚えのないものだった。

「それは、俺のじゃねえ」

「違う。君のだ。君のものだ。君に与えられたものだ。君に与えたものだ。君に願ったものだ。君を憂うものだ」

「どういうことだ」

「その答えは、私じゃないから、言えないね」

 幾多は渋々、その銀色の鳥かごを受け取る。

 すると何故か懐かしさがこみあげてくるのだ。

 それは心を滾らせ、赤い感情を想起させ、熱を取り戻す。

 それの名前は、怒り。怒りという名の檻だ。

「行きなさい、幾多。君にはまだ使命が残っている」

 白い人影が空を指さす。空は、黒いドームが卵の殻の内側からひび割れたかのように砕けている。

 幾多の身体が独りでに宙に浮かぶ。

「あんたは」

 幾多は自分を見送る白い人影の存在に見覚えがあった気がした。

 だが、はっきりとその名を口にすることはできない。

 代わりに白い人影が応える。

「私は稲荷荘司、私は山城―――、私は阿原陽一、私は」

 最後に少し、言いよどんだ。

「私はおかあさんだ」

 幾多は問いかけを終えると、空に登っていく。

 帰るべき場所へ。向かうべき相手に会うために。


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