第5話 帰還の布石
三人。
その数字は、夜が更けても耳から離れなかった。
死者三名。
負傷多数。
北方伯拘束。
火は教会に向いたが、完全には燃え広がっていない。王家は動いたはずだ。王太子も、きっと。
翌朝、霧の立ち込める森の中で、私は地図を広げていた。
「王都は今、二つに割れているはずです」
エヴァンが腕を組み、私の向かいに立つ。
「反教会派と、王家・教会の連合か」
「ええ。ただし王家の中にも亀裂はあります」
私は一点を指差す。
「王太子殿下は、教会を全面的に信じているわけではありません」
「断言するな」
「断言はしていません。可能性です」
彼は小さく笑う。
「だが賭けるつもりだろう」
「ええ」
私は地図を畳んだ。
王都を揺らす第一段階は成功した。
だが揺らしただけでは意味がない。
次は、私が“必要とされる”状況を作る。
「次の石は何だ」
エヴァンの問い。
私は懐から別の封書を取り出す。
「これは?」
「王家の古い血統記録の写し」
彼の眉が動く。
「戴冠の兆しについての記述が含まれています」
「……それを出すのか」
「出しません」
私は微笑む。
「流します」
事実と虚偽を混ぜる。
王家の血に“選び直し”の力があるという噂。
それが王太子ではなく、別の血に宿った可能性。
「お前自身を疑わせるのか」
「疑わせるのではなく、“探させる”のです」
王都の学者たちが動く。貴族が調べる。教会が焦る。
やがて誰かが気づく。
婚約破棄された令嬢の名を。
「戻る気か」
「戻ります」
即答だった。
「追放された女が、王都へ?」
「混乱の中なら可能です」
今、王都は不安定だ。教会と王家の軋轢。貴族の不満。民衆の不安。
そこに“正統な血を持つ存在”という餌を投げる。
彼らは縋る。
エヴァンはしばらく黙っていた。
「王都へ戻れば、お前は矢面に立つ」
「承知しています」
「失敗すれば処刑だ」
「承知しています」
彼は深く息を吐いた。
「命を賭ける価値があるか」
「あります」
迷いはない。
いや、迷いはある。だがそれ以上に、確信がある。
王妃としてではなく、王として。
あの玉座に座る未来が、脳裏に焼き付いて離れない。
「将軍」
伝令の騎士が駆け寄る。
「王都より追加情報。王太子殿下が教会への監査を命じました」
私は目を細めた。
「動いたか」
エヴァンが私を見る。
「お前の石が効いたな」
「まだ序章です」
だが胸の奥で、何かがわずかに疼く。
王太子は完全に教会側ではない。
それなら。
「王太子殿下は、教会に不信を抱いている」
「だが婚約は破棄した」
「ええ」
守るためだったのか。
それとも、自身の地位を守るためか。
答えはまだ出ない。
「どうする」
「王太子殿下に選択肢を与えます」
「選択肢?」
「私を排除し続けるか。利用するか」
エヴァンが目を細める。
「大胆だな」
「大胆でなければ、王にはなれません」
マリアが不安そうに近づく。
「お嬢様、本当に王都へ戻られるのですか?」
「ええ」
「危険です」
「危険でなければ、意味がないの」
彼女は唇を噛む。
「……私も参ります」
当然のように言う。
胸が少し痛む。
「あなたは選ばなくていいのよ」
「選びます」
その真っ直ぐな瞳。
私は一瞬だけ視線を逸らした。
情は刃を鈍らせる。
だが完全に捨てることはできない。
「分かりました。ですが約束を」
「何でしょう」
「私がどんな選択をしても、止めないで」
マリアは一瞬戸惑い、それでも頷いた。
「はい」
エヴァンが小さく笑う。
「忠臣だな」
「羨ましいですか」
「……少しな」
彼の横顔に、わずかな陰が差す。
将軍という立場。王位継承の可能性。祖国への忠誠。
彼もまた、何かを背負っている。
「エヴァン将軍」
「何だ」
「王都へ戻る際、あなたの軍は動けますか」
「動かせる」
「どの程度」
「一個大隊」
十分だ。
王都近郊に敵国軍が展開すれば、王家は無視できない。
私は微笑む。
「では、第二段階に入りましょう」
「計画を聞こう」
私は空を見上げた。
霧が晴れ、青が広がる。
「王都へ帰還します。ただし――」
ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「追放された令嬢としてではなく、“招かれる存在”として」
そのために必要なのは。
王家の血の証明。
教会の失態。
民衆の不安。
そして。
――王太子の決断。
遠くで雷鳴が轟いた。
嵐の前触れのように。
私は小さく呟く。
「お待ちくださいませ、殿下」
あなたが捨てた駒は。
いま、盤上へ戻ろうとしている。




