【甘い声と美人局】 2
「いらっしゃいませー。何名様で……」
店員の言葉を無視して、大男はスティーブ達がいる方へと向かってくる。
(……あれですね)
ネルンが身構えたとき、しかしスティーブがちらりと横目で彼女を見た。
彼も当然気付いていた。その視線は、一瞬ではあるが鋭かった。
……まだ動くな。まだ何も起きてねえからな。
視線だけで彼はそう指示していた。
(…………)
主人がそう命令する以上、ネルンは様子を静観することにした。ただし心構えだけはしておいたが。
それらのやり取りは、時間にして一、二秒ほどの短い間だった。
厳つい男はスティーブ達のテーブルに到着していて、バンッ!とテーブルに熊の手のような大きな手をついた。
「おい兄ちゃんよオ、誰の許可取って俺の女に手ェ出してんだァ⁉」
「ロールちゃんは可愛いねえ。何でも頼んでいいからねー」
「無視してんじゃねーぞオラァッ!」
男がスティーブの胸ぐらを掴んで思いきり引き寄せた。テーブルの上にあったコップが倒れて水が飛び散り、店内の客や店員が固唾を飲んでスティーブ達を見ている。
額がぶつかりそうな至近距離で、男がドスのある睨みを利かせていた。
「俺の女に手を出したんだ、有り金全部むしり取ってやるぜ。相当金持ってるようだからな、ついでに家にある金目のもんも全部頂くぜ」
「離せよ熊さん。男とキスする趣味はねえぜ。俺がイケメンなのは分かるがよ」
「ふざけてんじゃねえ!」
男がスティーブを突き飛ばす。スティーブが近くの壁にぶつかり、鈍い音を立てた。
周りの客が悲鳴を上げて、店員もざわめいていた。警察を呼べなどという声も聞こえている。
「ごめんねぇ、おにいさーん。私の彼って短気なのぉ」
それまでテーブルにいた女が男のそばに寄り添っていく。
「早くしないと警察が来るわよぉ」
「分かってるって。いま財布を盗るからよ」
そうはさせないとネルンが動こうとしたとき、床に座り込んでうつむいたままのスティーブが声を上げた。
「動くな!」
……!と、ネルンの動きが急停止する。
男がスティーブに近付きながらニヤニヤしていた。
「なーに言ってんだ? 動いたら何かあるってのか兄ちゃんよォ?」
ネルンには無論、いまのスティーブの言葉が自分に対して言われたものだと分かっている。
(自分で片付けるおつもりですか、スティーブ様)
問うまでもないことだった。彼がそう言ったのなら、そうなのだから。
「俺は動いてるぜェ、ほらほら何かしてみろよ兄ちゃんよォ」
男はヘラヘラしながらスティーブに近寄っていく。
「財布は懐よぉ、さっき見えたわぁ」
「おうよ」
女の言葉を聞いて、男がスティーブの懐に手を伸ばしたとき、スティーブがその手を掴んだ。
「アア? 汚ねえ手でデデデデ⁉」
男が悲鳴を上げて、女が目を見開く。
「ちょっと! 遊んでないで早く財布を」
「痛でえ! 離せ! こいつとんでもねえ馬鹿力」
スティーブが、掴んでいた手を上に振り上げた。
ドゴオン!という衝撃音とともに、男の全身が天井に突っ込んでいた。一撃で気絶したのか、うめき声すら聞こえてこない。
「…………⁉」
女も、他の客達も、店員達も、唖然として見上げていた。
「誰が馬鹿だ。馬鹿って言った方が馬鹿なんだよ」
ぽきぽきと肩と首を鳴らしながらスティーブが起き上がる。
懐から財布を取り出しながら、彼は入口へと向かっていく。その途中で、近くにいた店員に財布から抜き出した一枚の名刺を渡した。
「修理費はここに書かれてる人に請求してくれ。俺は帰る」
その店員も含めて、周りの者達はぽかんとしたままだった。
ネルンだけが普段のように動いて、スティーブの一歩後ろをついていっていた。
「あの名刺は……」
「親父だよ。ったく、親父の財布を盗られたら、流石に親父が可哀想だからな」
「スティーブ様が既に勝手に拝借しておられますが」
「いいんだよ、俺は。入ってんのも端した金だしな」
「はあ……」
ネルンの口から深い溜め息が出てしまった。
……後で旦那様が絶叫しそうですね……。
陽の落ちた街のなか、二人は帰路に就いていた。
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