七話
玄関のドアを開けると、廊下の照明はもう点いていた。
千夜は俺より半歩先に入って、靴を脱ぎ、それから振り返って深く頭を下げた。
「おかえりなさいませ、湊様」
一分前まで三歩後ろを歩いていた人間の台詞ではない。
だがこの家の玄関は、この子にとって舞台の幕だ。跨いだ瞬間に、メイドになる。それは、いつも変わらない。
「……ただいま」
「お荷物を」
鞄を取られた。ブレザーを脱がされた。ネクタイを緩められた。
いつもの流れだ。いつもの流れなのに、今日はひとつひとつが少しだけ長い。
「湊様」
「なんだ」
「手を洗ってください」
「洗う」
「洗います」
洗面所に連れていかれた。蛇口をひねられ、後ろからバックハグをされる形で手を取られ、石鹸を泡立てられ、指の間を一本ずつ洗われた。
顔が近い。むにゅっと柔らかい感触が背中に伝わる。
……これは本当にまずい。暴発する。
「自分でできる」
「知っています」
「じゃあ」
「今日は、やらせてください」
タオルで拭かれる。指先まで、一本ずつ。
その手つきが、あまりにも丁寧で、千夜の指先の感触を意識してしまって、変な気持ちになる。俺はそういう時、決まって、天井を見る。けれど、今日は何故か天井を見る気にはなれなかった。
「夕食は、三十分後です」
「わかった」
「湊様」
「なんだ」
「今日もたくさん作ります」
「……なんで」
「たくさん食べていただきたいので」
理由が短い。短すぎて、返す言葉が用意できない。
いつものことだ。いつものことなのに、今日は少し息が苦しい。
洗面所を出る時、鏡に二人が映った。
俺と、俺の後ろに立っている千夜。
千夜は鏡の中の俺を見ていた。俺の後頭部ではなく、鏡越しの目を。
目が合った瞬間、この子は視線を落とした。
三年間で、この子が先に目を逸らしたのは、多分、二度目だ。
一度目がいつだったかは、覚えている。
……三年前、メイドをやらせてくださいと言った日だ。
夕食のテーブルは、昨日より皿の数が多かった。
唐揚げ、だし巻き卵、肉じゃが、ほうれん草の胡麻和え、豚汁、それに茶碗蒸し。
「多いだろ」
「多いです」
「認めるのか」
「はい。多く作りました」
千夜は俺の隣に座った。また、ゼロ距離。互いの太腿がぴたっとくっつく。
「あーん」
「自分で」
「あーん」
「……はい」
唐揚げを口に入れられる。うまい。今日も敗北の味がする。ただし、下味がちゃんと効いている。
「湊様」
「なんだ」
「今日は、いかがでしたか」
「普通だな」
「そうですか」
「……嘘だ。普通じゃなかった」
「はい」
「知ってるだろ、全部」
「はい。全部見ていました」
この子は、こういう時だけ異様に正直になる。
「鷹司様は、湊様の後ろの席になりましたね」
「なった」
「移動教室に三度、ご案内なさいましたね」
「した」
「お昼を、お隣で召し上がりましたね」
「……された、が正しい」
「……そうですか」
千夜は箸を置いた。それから、茶碗蒸しの器を持ち上げて、スプーンですくった。
「あーん」
「今の流れであーんしてくるのか」
「今の流れだからです」
口に入れられた。あたたかい。銀杏が入っていた。俺が好きだと言ったのは、小学四年の時だ。互いの両親と料亭に行った時に出てきた茶碗蒸しが美味しかったからその時に、好きだと言った記憶がある。
「湊様」
「なんだ」
「ひとつ、伺ってもいいですか」
「どうぞ」
「鷹司様のことを、どう思われますか」
スプーンが、俺の口の前で止まっている。
「……いい子だと思う」
「はい」
「素直で空気は読まない。でも悪気がない。だから困る」
言ってから、気づいた。放課後に渡り廊下で聞いた言葉と同じ形をしていた。
千夜はほんの少しだけ目を伏せた。
「そうですか」
「なんだ」
「いえ」
「言ってくれ」
「……同じことを、私も思いました」
スプーンが動いて、俺の口に茶碗蒸しが入った。
甘やかされている。甘い。でも、さっきよりも冷めて、冷たい。
「千夜」
「はい」
「怒ってるか」
「怒っていません」
「じゃあ、不安か」
千夜の手が、止まった。
昨日、この子は不安だと言った。素直すぎるくらい素直に言った。
今日は、言わなかった。
「……いいえ」
これは嘘だ。
ずっと見てきたから分かる。この子は基本的に嘘をつかない。つかないから、つく時は必ず、こうやって一拍遅れる。
「そうか」
俺は追及しなかった。
追及しても、この子は答えない。答えられないものを抱えている時、この子は徹底的に甘やかしてくる。
今日は、いつもの三倍甘い。つまり、いつもの三倍、何かを抱えている。
風呂から上がると、リビングの照明は一段落とされていた。
窓の外は晴れていた。昨日と違って雨音がない。かわりに、庭の草むらで虫が鳴きはじめている。
「湊様。座ってください」
床のクッションを指さされる。俺はもう抵抗もしなかった。
温風。指が髪をかき分けて、頭皮を撫でるように動く。
「気持ちいいですか」
「まあ」
「よかったです」
ドライヤーが止まった。
「膝、貸します」
「今日は早いな、それ」
「今日は、早く貸したいので」
腕を引かれて、頭が柔らかいものの上に落ちた。見上げると、三つ編みが顔の横に垂れていた。
……ほどいていない。
家に帰ってからもう二時間経つのに、この子はまだ学校の髪型のままだ。
「髪」
「はい」
「ほどかないのか」
「今日は、このままでいます」
「なんでだよ」
「……分かりません」
はじめて聞く答えだった。三つ編みは学校の髪型だ。他人の顔をするための髪だ。
それを家の中でほどかないということは、この子はまだ、他人の顔をやめていないということになる。
家に帰ってきて、二時間経って、風呂も済ませて、それでもまだ。
三年間、この子はすべての行動に理由を持っていた。理由は事務的で、行動は甘い。それがこの家でのこの子だ。
でも、分からない、と言われたのは初めてだ。
「湊様」
「なんだ」
「ひとつ、お伺いしてもいいですか」
「今日、二回目だな」
「二回目です」
「どうぞ」
千夜の指が、俺の前髪に触れた。
「鷹司家は、使用人を何人抱えているか、ご存じですか」
質問の意味が分からなかった。
「……知らない」
「私も知りません」
「調べたのか」
「調べました」
「分からなかったのか」
「分かりませんでした。公表されていないので」
天井の照明が、この子の輪郭の向こうで滲んでいる。
「なんで、そんなこと調べてる」
千夜は、しばらく答えなかった。指だけが、ゆっくりと動いていた。
「……知っておきたかったので」
「何を」
「大きな家というのが、どういうものかを」
それ以上は、何も言わなかった。俺は目を閉じた。
閉じながら、頭の隅で、何かが引っかかっていた引っかかっているのに、何に引っかかっているのか分からない。
この子は今日、嘘をついた。不安ではない、という嘘。そして、もうひとつ、嘘をついている。
でも、もうひとつが、どれなのかは分からない。
「湊様」
「なんだ」
「もう少し、このままでいてください」
「何分」
「私の体感で、三十秒です」
「絶対三十秒じゃないだろ」
「はい」
否定しない。それだけは、いつも通りだった。
目が覚めたのは、午前二時過ぎだった。
喉が渇いていた。というのは半分嘘で、また眠れなかった。
階段を降りる。手すりが冷たい。家の中は真っ暗だ。
だが、リビングにだけ、うっすらと明かりがあった。
覗くと、千夜がいた。
明かりは点いていない。カーテンが開いていて、外の街灯の光が床に細長く落ちているだけだった。
千夜はその光の帯の中に、座っていた。
パジャマ姿。髪は、まだ三つ編みのままだ。手には何も持っていない。スマホも、本も、何も。
ただ、まっすぐ前を見て座っていた。
「……何やってんだ」
千夜が顔を上げた。
驚いた様子はなかった。俺が降りてきたことを多分、知っていた。
「湊様。起こしてしまいましたか」
「勝手に起きた」
「そうですか」
俺は冷蔵庫から麦茶を出して、コップに二つ注いだ。ひとつを千夜の前に置いて、その隣に座る。
「電気、点けないのか」
「点けると、考えがまとまらないので」
「暗いと、まとまるのか」
「暗いと、余計なものが見えないので」
余計なもの。この子にとって何が余計なのか、俺には見当もつかない。
見当もつかないのに、その中に俺が入っているのだろうという予感だけはあった。
「眠れないのか」
「はい」
「なんで」
「考えごとをしていました」
「何の」
千夜はコップを両手で持った。持ったまま、口はつけなかった。
「計算です」
「計算」
「はい」
「何の計算だ」
「献立の予算の」
嘘だ。
今度は、一拍も遅れなかった。完璧なタイミングで返ってきた。
完璧すぎる。この子は、この嘘を今日一日ずっと準備していた。
「千夜」
「はい」
「言いたくないなら、言わなくていい」
千夜の肩が、わずかに動いた。
「ただ、ひとつだけ言っとく」
「はい」
「一人で計算するな」
街灯の光が、床の上で少し揺れた。外の木が風で動いたのだと思う。
千夜は長いこと黙っていた。それから、コップに口をつけた。一口だけ飲んで、また両手で包んだ。
「……湊様は」
「なんだ」
「ずるいです」
「なんでだよ」
「そういうことを、一番、言われたくないタイミングで言うので」
「褒めてないだろ、それ」
「褒めていません」
「怒ってるのか」
「怒っていません」
「じゃあなんだよ」
千夜は麦茶のコップを、床にそっと置いた。
「……困っています」
初めて聞く単語だった。この子は不安がることはあっても、困ったことは一度もなかった。困る前に、全部先回りして処理してしまう人だからだ。
先回りできないものが、今、この子を悩ませている。
俺にはその意味が分からなかった。
分からないまま、俺たちは真っ暗なリビングで、麦茶を飲んでいた。
三十分くらい、そうしていたと思う。
立ち上がる時、千夜が俺の袖を軽くつまんだ。
「部屋まで、送ってください」
「昨日もそれ言ってたな」
「今日も言います」
部屋の前で、千夜が深く頭を下げた。
「おやすみなさいませ、湊様」
「おやすみ」
「……湊様」
「なんだ」
「明日、何があっても」
そこで、言葉が切れた。
「何があっても、なんだよ」
千夜は顔を上げた。暗い廊下で、この子の表情はよく見えなかった。
「……いえ。なんでもありません」
ドアが閉まった。俺はしばらくその前に立っていた。
明日、何かがある。この子はそれを知っていて、俺は知らない。
こんなことは、初めてだった。




