八話
翌朝、目を開けると、カーテンが半分だけ開いていた。
空は晴れていた。光が眩しい。夏らしい朝だった。
「おはようございます、湊様。六時三十分です」
ベッドの脇に千夜が立っている。髪は、下ろしたままだった。長い黒髪が、身を屈めるのに合わせて肩から滑り落ちる。
下ろしたまま。今日は甘えたい日だ。
今朝も、千夜の機嫌の法則は、正しく作動している。作動しているのに、なぜか安心できなかった。
「おはよう」
「よく眠れましたか」
「三時間」
「私は一時間です」
「勝ち負けじゃないんだよ」
「勝ちました」
「起きられますか」
「起きられる」
「そうですか」
布団に指がかかる。予告だ。
「では、剥がします」
「聞いた意味は」
視界がもっと明るくなる。
「あと五分」
「だめです」
「三分」
「……十分」
「増えた」
「増やしました」
千夜がベッドに腰を下ろした。今日は髪に指を通してこない。代わりに、俺の手を取った。
両手で包んで、自分の膝の上に置いた。
「……何やってんだ」
「充電です」
「玄関でやるやつだろ、それ」
「今日は、先にやります」
「なんで」
「あとだと、まだ充電が足りないかもしれないので」
言葉の意味が、うまく取れなかった。千夜は俺の手を包んだまま、しばらく動かなかった。窓の外で、雀が二羽、続けて、鳴いた。
「湊様」
「なんだ」
「動かないでください」
「動いてない」
「もっと、動かないでください」
そう言って、千夜はベッドに登ってきて、身体を倒した。肩に、千夜の額が当たった。
抱きついているわけではない。ただ、身体を預けられている。それだけだ。
それだけなのに、俺は指一本動かせなかった。
三年で、この子から言葉の後に、接触を求められたのは、多分、これが初めてだった。
いつもは黙ってやる。黙ってやって、後から事務的な理由を後から一つ添える。
今日は、先に許可を取った。
「……千夜」
「はい」
「何かあるのか」
「ありません」
「昨日、何かあるって言いかけただろ」
「言いかけましたが、ありません」
「言い方が下手だ」
「下手です」
肩の重みが、少しだけ増した。
「三十秒だけ、こうしています」
「体感で?」
「実測です」
このまま、二分過ぎた。
朝食のテーブルには、和食が並んでいた。
味噌汁、焼き鮭、卵焼き、ほうれん草のおひたし。全部、俺が好きなものだ。
そして、弁当の包みを渡される時、千夜が言った。
「今日は、三つです」
「……何が」
「苺です」
「増えてくな」
「はい。増やします」
「特別じゃなくなるんじゃなかったのか」
千夜は、少しだけ間を置いた。
「特別でなくても、いいと思うようになりました」
「なんで」
「毎日、増える方が確実なので」
意味がまた分からなかった。分からないのに、聞き返せなかった。この子の言葉には、たまにこういう、触ると、何か崩れてしまいそうな形が混じっている。
だから、触れない。触れられない。
玄関で、千夜は髪をまとめはじめた。三つ編みだ。学校用の、いつもの。編むのに、いつもより時間がかかっていた。
一度ほどいて、編み直した。もう一度ほどいて、また編み直した。
三度目でようやく完成した三つ編みは、いつもと寸分違わない出来だった。
「時間かかったな」
「はい」
「珍しい」
「……手が、うまく動きませんでした」
俺は靴を履いた。履いてから、振り返った。
千夜がネクタイを引いた。
体が傾いで、額にやわらかい感触が落ちる。
いつもの一秒。今日は、多分、三秒あった。
「いってらっしゃいませ」
「毎朝やるな」
「毎朝やめませんので」
「宣言するな」
「湊様」
ドアに手をかけたところで、呼び止められた。
「なんだ」
「今日も、五分後に出ます」
「ああ」
「校門の手前の角で、いつも通りに曲がります」
「知ってる」
千夜が深く頭を下げた。
「……知っていてください」
一昨日と、同じ言葉だった。同じ言葉なのに、声の重さが違った。
坂を下ると、朝の空気はもう熱を持ちはじめていた。
アスファルトが日を受けて、うっすらと陽炎を立てている。街路樹の影が濃い。完全な夏だ。
いつもの角が近づいてくる。
そして、そこに人が立っていた。
栗色の髪が、朝日を透かして淡く光っている。
「おはようございます、天羽さん!」
麗華だった。
「……なんでいるんですか」
「昨日、ここで待つと申しましたわ」
「断りましたよね」
「待つのはわたくしの勝手だと、そう申し上げました」
覚えている。完全に覚えているが、普通は、本当だとは思わない。
この人には、冗談という言葉が存在しないようだ。言ったことは全部覚えていて、しかも、全部実行する。
……正直だから、余計に厄介だ。
「歩きたい気分でしたの」
「今日もですか」
「毎日ですわ」
宣言された。俺は天を仰いだ。雲ひとつない。心の中は曇天だ。
「参りましょう」
麗華が半歩後ろについてくる。歩幅が小さいので、俺は自然と速度を落とす。
坂を上りはじめて、しばらくして気づいた。
麗華が、俺の顔を何度も見ている。
「……なんですか」
「まあ、失礼いたしました」
「見てましたよね」
「見ておりました」
……本当に素直だな。
「あの、天羽さん」
「はい」
「昨日のお別れになった後」
「はい」
「楓に叱られましたの」
「でしょうね」
「初対面の殿方についていくものではない、と」
「正しいと思います」
「正しいのですけれど」
麗華は、少しだけ足を速めて、俺の隣に並んだ。
「わたくし、初対面だと思っておりませんでしたの」
「……昨日会ったばかりですけど」
「はい。ですが、あの角でぶつかった時に」
言葉を選んでいる。この人が言葉を選ぶのは、初めて見た。
「支えていただいたでしょう」
「まあ、倒れそうだったので」
「わたくし、あれが初めてでしたの」
「何がですか」
「知らない方に、支えられるということが」
坂の途中で、麗華は一度足を止めた。
「わたくしの周りにいる方は、皆さま、わたくしを支えるのがお仕事ですの」
朝の光が、その横顔に当たっていた。
「転びかけたら、必ず誰かが支えてくださいます。当たり前のように。仕事ですから」
「はい」
「でも天羽さんは、お仕事ではありませんでしたわ」
俺は何も言えなかった。
「それが、とても」
麗華は、そこで少し口ごもった。
「……とても、嬉しかったのです」
坂の上から、自転車が降りてきた。俺達はそれぞれ端に寄って、通り過ぎるのを待った。
その数秒で、麗華はいつもの顔に戻っていた。
「まあ、変なことを申しましたわね。忘れてくださいませ」
「忘れないと思います」
「まあ、嬉しいです」
麗華が笑った。本当に嬉しそうに、まっすぐに笑った。
その笑い方に、俺は少しだけ困った。
この子は本当に良い子だ。
嫌いになれる要素が、ひとつも見当たらない。それどころか、好感を抱く要素しかない。
綺麗で、素直で、正直で。
昨日、楓さんが言っていた言葉の意味が、ほんの少しだけ分かった気がした。
……いい人だから、困る。
坂を上りきる少し手前で、後ろから足音が聞こえた。
規則正しい。歩幅が一定で、上履きに履き替える前から音が整っている人間の足音だ。
振り返らなくても分かった。
「おはようございます、鷹司さん」
千夜だった。五分後のはずが、もう来ている。
「まあ、千夜さん! おはようございます」
麗華さんの声が跳ね上がった。
「昨日ぶりですわね。お会いしたかったですわ」
「昨日の今日です」
「一日は長いものですもの」
千夜は俺の方を見なかった。学校の側の道だ。ここから先は、他人になる。
「天羽さん」
麗華が俺を見上げた。
「はい」
「申し訳ありませんが、少しだけ先に行っていただけますか」
「え」
「千夜さんと、二人でお話ししたいことがありますの」
背中が少し冷えた。理由は分からない。分からないのに、嫌な予感だけがした。
「……何の話ですか」
「女の子同士のお話ですわ」
麗華はにっこりと笑った。その笑顔には、隠しごとの陰がひとつもなかった。本当に、ただ話したいだけの顔だ。
俺は千夜を見た。千夜は、こちらを見なかった。
まっすぐ前を向いたまま、いつも通りの無表情で、いつも通りの姿勢で立っていた。
「……分かりました」
俺は歩き出した。歩き出して、少し、進んだところで、坂の途中の生垣の角を曲がった。
曲がって、足を止めた。止めるつもりはなかった。
体が勝手に止まった。
生垣の向こうから、声が聞こえてくる。距離はあるが、麗華の声は、よく通る声だった。
「千夜さん」
麗華の声だ。
「はい」
「あの、驚かないでくださいませ」
「……はい」
風が吹いた。街路樹の葉が擦れて、一瞬だけ音が遮られる。
葉の音が止んだ時、麗華の透き通った声が、はっきりと聞こえた。
「わたくし、天羽さんのことを、お慕いしております」
心臓が止まりかけた。
「まだ、出会って、二日ですわ。存じております。おかしいと思われますわね」
「……いえ」
「でも、わたくし、こういうことは一度も無かったものですから。自分でもよく分かりませんの」
「はい」
「ただ、はっきりしていることがひとつだけありますの」
生垣の向こうで、麗華が息を吸ったのが分かった。
「わたくし、天羽さんに、そばにいていただきたいのです」
俺は、動けなかった。聞いてはいけない。今すぐここを離れなければならない。頭では完全に分かっていた。
……足が動かなかった。
「それで、千夜さん」
「はい」
「お願いがありますの」
風が、また吹いた。葉の音で、次の言葉が消えた。
聞き取れたのは、その次の一言だけだった。
千夜の声だった。
いつもと同じ、抑揚のひとつもない、事務連絡と同じ温度の声。
「——少し、考えさせてください」
生垣の隙間から、俺は見た。千夜が、深く頭を下げていた。朝の光の中で、その三つ編みが、揺れた。
その日、俺は一日中、ほとんど何も頭に入らなかった。
一時間目の数学で二度当てられて、二度とも間違えた。ケアレスミスとかではなく、問題そのものを読み違えていた。
「大丈夫か、天羽」
昼休みに悠真が言った。
「なんで」
「顔色が死んでるぞ。あと弁当開けてから五分止まってるぞ」
言われて、俺は自分の手元を見た。
三段の一番下。苺が、三つ入っていた。昨日は二つだった。一昨日までは一つだった。
増えている。
二つ入れると特別ではなくなる、と言った本人が、決めたルールをここの所、毎日破っている。
「……なあ、悠真」
「おう」
「増えていくものって、なんだと思う」
「は? なぞなぞか?」
「毎日ひとつずつ増えていくんだ。増やさなくていいのに、増やしてくる」
悠真はしばらく考えて、それから、真顔で言った。
「不安だろ、それ」
俺は箸を止めた。
「なんでそう思う」
「足りないと思ってるやつは、増やすんだよ。足りてるやつは増やさねえ。不安だから、数を増やして誤魔化そうとする」
こいつは軽薄なふりをして、たまにこういうことを言う。
たまに、ではないのかもしれない。俺が聞いていなかっただけかもしれない。とにかく、その言葉は、芯を食っていた。
「天羽」
「なんだ」
「なんかあったなら、聞くぞ」
「……ない」
「そうか」
悠真はそれ以上突っ込まなかった。俺は苺を食べた。
甘かった。甘いのに、味がよく分からなかった。
窓の外を見ると、中庭のベンチに千夜が座っていた。一人だ。膝の上に小さな弁当箱を置いて、静かに箸を動かしている。
顔を上げなかった。一度も、こちらを見なかった。
この子は一度はこちらを見る。半秒だけ。俺が気づかないふりをするのを前提にした、半秒。
その半秒が、今日はなかった。
麗華の言葉に対して、考えさせてください、と言った。
千夜が何を考えているのかは、俺は分からない。
分からないまま、俺は三つ目の苺を、奥歯で噛んだ。




