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氷の柊さんは俺の前でだけ甘い  作者: 瑠璃色に輝く希望
三章「使用人の柊さんは一歩下がる」
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九話

 その日の夜、家に帰っても、千夜はいつも通りだった。


 いつも通りすぎた。玄関で頭を下げて、鞄を取って、ブレザーを脱がせて、手を洗わせて、夕食を作って、隣に座って、あーんをして、風呂を沸かして、髪を乾かして、膝を貸した。


 工程はひとつも欠けていない。この子の手順は一度も乱れたことがない。乱れないことが、今日ほど不気味に感じたことはなかった。


「湊様」


 膝の上から見上げると、下ろした髪が顔の横に垂れていた。今日は、ほどいている。


「なんだ」


「本日は、いかがでしたか」


「普通だな」


「そうですか」


 いや、普通ではない。朝、生垣の陰で、俺は聞いてはいけないものを聞いた。


『わたくし、天羽さんのことを、お慕いしております』


 その言葉を、俺は今、頭の中に抱えたまま、この子の膝の上にいる。


 聞いたと言えない。言えば、盗み聞きをしていたことになる。


「千夜」


「はい」


「今朝、鷹司さんと何話してた」


 指の動きが、止まった。止まったのは、一瞬で、すぐにまた動きはじめた。


「女の子同士の話です」


「本人が言ってたのと同じ台詞だな」


「同じ内容ですので」


「……そうか」


「気になりますか」


「気になる」


「そうですか」


 千夜は俺の前髪を指で分けた。分けて、また戻した。意味のない動作だ。この子が意味のない動作をするのは、多分、時間を稼いでいる時だけだ。


「湊様」


「なんだ」


「もし私が、湊様に隠しごとをしていたらどうしますか」


「……」


「怒りますか」


「怒らない」


「本当ですか」


「怒らない。ただ」


 俺は天井を見た。この子の輪郭の向こうで、照明が滲んでいる。


「一人で抱えないで欲しいと言う」


 指の動きが、また止まった。今度は、三秒くらい止まっていた。


「……湊様は」


「なんだ」


「ずるいです」


「昨日も言われたな」


「今日も言います。明日も言うと思います」


 甘やかされている。いつも通りに、完璧に、隙間なく甘やかされている。甘やかされているのに、どこかで何かが抜け落ちている感覚が消えなかった。


 何が抜けているのかは、その夜は分からなかった。


 分かったのは、少し後の話だった。


 翌週から、千夜の夜が長くなった。俺が眠るのは、だいたい十二時前後だ。その時間、廊下の奥のドアの下から、まだ光が漏れている。


 朝は変わらず五時に起きている。計算が合わない。


「寝てるか」


「寝ています」


「何時間」


「三時間です」


「短いだろ」


「足ります」


「足りない」


「足ります。慣れていますので」


 慣れているという言葉が、俺は昔から嫌いだ。慣れるというのは、要するに、痛みに対して感覚を落とすということだ。


 この子は、いろんなことに慣れてきた。慣れる必要のなかったことにまで、慣れてきた。


 金曜の放課後、俺は図書室に寄った。


 課題で使う資料を探していただけだ。他意はなかった。


 奥の書架の前に、千夜がいた。三つ編み。制服。いつも通り。ただ、手に持っている本が、いつも通りではなかった。


 背表紙が見えた。


『使用人の労務と契約』


 何故読んでいるのか、意味が、分からなかった。


 だから、ルールを破ることにした。


「……何読んでんだ」


 千夜が顔を上げた。今度も驚かなかった。


「調べものです」


「課題か」


「いえ」


「じゃあ何だよ」


 千夜は本を閉じて、書架に戻した。戻す手つきが、いつもより丁寧だった。丁寧というより、名残惜しそうだった。


「知っておきたかったので」


「何を」


「私の仕事が、どういう仕組みで成り立っているかを」


「……成り立ってるだろ、普通に」


「はい」


「うちは会社じゃないぞ。契約書もない」


「そうですね」


 千夜は少しだけ目を伏せた。


「ですが、契約書がない、というのは」


「なんだ」


「いつでも終われる、ということです」


 書架の間は薄暗かった。西日が高い窓から斜めに入って、床に細長い光を落としている。


 俺は何も言えなかった。


 言うべきことは分かっていた。終わらせない、と言えばよかった。


 だが、三年前、俺は同じことを言えなかった。


『そんなことをしなくてもいい』


 その言葉が、言えないまま、この子がメイド服を着るのを見ていた。


 だから、今さら、言葉だけを出しても軽い。


「千夜」


「はい」


「今度、話がある」


「はい」


「ちゃんと座って、面と向かって話す」


 千夜は、しばらく黙っていた。それから、いつもの温度で答えた。


「……もう少し、待っていただけますか」


「なんでだ」


「まだ、整理がついていないので」


 その言葉を、俺は「気持ち」の話だと思った。そう思ったのが、あとから考えると、致命的だった。


 この子が整理していたのは、気持ちではなかったのだから。


 翌週の火曜、麗華さんが爆弾を投げた。


 昼休み、俺の隣の席に椅子を持ってきて座るのは、もう恒例行事になっている。教室の女子たちは最初こそ騒いだが、今は「またやってるね」という顔で見ているだけだ。


 慣れというのは恐ろしい。二週間で日常になる。


「天羽さん」


「はい」


「お料理を教えていただきたく」


「前も言ってましたね」


「本気ですの」


 麗華は鞄から、真新しいエプロンを出した。


 真っ白で、レースがついていて、多分、値段を聞いたら気を失う類のものだった。


「買いましたわ」


「早い」


「思い立ったらすぐですのよ」


「そのエプロン、汚れますよ」


「汚れるものだと聞きました」


「聞いてから買ったんですね」


「聞いてから買いましたわ」


 順序は正しい。恐らく、金額の感覚だけが壊れている。


「家庭科室をお借りする許可はいただきました」


「早い」


「祖父に頼みましたので」


 権力の使い方が私的すぎる。


「では、放課後に」


「待ってください。俺、そんなに料理できないですよ」


「まあ、ご謙遜を」


 謙遜ではない。事実だ。俺が作れるのは即席麺と目玉焼きだけで、その目玉焼きも半熟の制御ができない。


 嘘の代償が、ついに現物で回収されにきた。


「あの、鷹司さん」


「麗華でよろしいですわ」


「……麗華さん」


 初めて、名前で呼んだ。麗華の目が、ぱっと開いた。


「まあ」


「なんですか」


「いえ、なんでもございませんわ」


 嬉しそうに、両手を膝の上で握っている。やりにくい。この人は、こちらが少し譲るたびに、それを全力で嬉しがる。


「料理は、その、俺じゃなくて」


 言いかけて、止めた。


 適任者が、教室に一人いる。だが、その人物を推薦するということは、その人物と俺の関係を説明することになりかねない。


「天羽さん?」


「……いや」


「どうかなさいましたか」


 その時だった。


「鷹司さん」


 声がした。千夜だった。


 自分の席から立ち上がって、こちらに歩いてきていた。


 教室の音が、少しだけ落ちた。千夜がクラスの誰かに自分から話しかけるのを、俺は三年間で数えるほどしか見ていない。


「まあ、千夜さん」


「お料理でしたら、私が」


 心臓が、嫌な鳴り方をした。


「私、多少はできますので。お手伝いします」


「本当ですの?」


「はい」


「まあ、なんて心強い!」


 麗華が千夜の手を両手で握った。この人はすぐ手を握る。


 千夜は振りほどかなかった。いつも通りの無表情で、握られたまま立っていた。


「では、放課後。天羽さんと三人で」


「はい」


「千夜さん、ありがとうございます」


「いえ」


 千夜が、こちらを見た。三年ぶりに、学校で、まっすぐこちらを見た。


 一秒もなかった。その視線から俺は何も読み取れなかった。


 読み取れなかったことが、不安だった。


 放課後の家庭科室は、西日がまともに入って暑かった。


 窓を全部開けると、校庭の野球部の声が入ってくる。ステンレスの調理台が光を返して、目に痛い。


 エプロンを着けた麗華さんは、正直に言うと、絵になっていた。


 似合っている。悔しいが、とても似合っている。


「では、何を作りましょう」


「卵焼きが良いと思います」


 千夜が即答した。


「まあ、卵焼き」


「基本ですので」


「では、卵焼きにいたしますわ」


 千夜がボウルと箸を出した。動きに迷いがない。この空間で、この子だけが職人だった。


「まず、卵を割ります」


「はい」


 麗華が卵を握った。握り潰した。


「まあ」


「……力の加減です」


「加減が分かりませんの」


「割る時は、平らなところに当ててください。角ではなく」


「平らなところ」


「はい」


 二個目。今度は殻が入った。


 三個目。手からこぼれた。


 四個目でようやく成功して、麗華は万歳した。


「できましたわ!」


「はい」


「千夜さん、わたくし、できました」


「はい。お上手です」


「まあ」


 俺は少し離れた場所で、それを見ていた。見ていて、ずっと違和感があった。


 千夜が、優しい。いや、この子は元々優しい。優しいが、それは俺に対してだけのはずだった。


 学校の千夜は、必要最低限しか喋らない。喋らないというより、喋る必要のある相手がいなかった。


 でも、今、この子は麗華に丁寧に教えている。手を添えて、角度を直して、失敗を責めずに、もう一度やらせている。


 俺がこの子に何かを教わるのと、同じやり方で。


「天羽さんも、こちらへ」


 麗華に呼ばれた。


「いや、俺は」


「教えていただく約束ですわ」


「……そうでしたね」


 俺は調理台の前に立った。左に麗華さん、右に千夜。


「では、天羽さんのお手本を」


 詰んだ。俺は卵を持った。持ったまま、動けなかった。平らなところに当てる、というのはさっき聞いた。だが力の加減は聞いていない。


 こつん、と当てた。割れなかった。もう一度。割れなかった。


 三度目で、粉々にした。


「まあ」


 沈黙が降りた。麗華が、目を丸くしてこちらを見ている。


「天羽さん」


「はい」


「本当にお料理、なさらないのですか」


 終わった。三日前に自分でついた嘘が、今、調理台の上で殻ごと砕けている。


「あの、それは」


「湊さ……」


 千夜の声だった。俺と麗華が、同時にそちらを向いた。


 千夜は、いつもの無表情のまま、卵を一つ手に取っていた。


「……失礼しました。天羽さんは」


 言い直した。呼び方が、一瞬こぼれていた。


 麗華は気づいていない。首を傾げているだけだ。


「天羽さんは、卵の扱いが苦手なだけです」


「まあ、そうでしたの」


「他はできます。以前の調理実習でも、美味しい料理を作られていましたから」


 嘘だ。完全な嘘。この子が、他人に対して、学校で嘘をついた。


 俺をかばうために、初めて。


「では、天羽さんは味付けを」


「……はい」


 俺は調味料の前に立たされた。砂糖と塩と醤油。それだけだ。それだけなのに、分量が分からない。


「……湊様は」


 千夜がまた言った。今度は直さなかった。麗華は卵を割るのに夢中で、聞いていなかった。


「砂糖が多めの方がお好きですか」


 耳元で小さな声だった。俺にだけ届く声だった。


「……知ってるだろ」


「はい」


「三年も作ってるんだから」


「はい」


 千夜は砂糖を計って、俺の手のひらに小さじを載せた。


 指が触れた。一瞬だ。その一瞬に、千夜の指が、ほんのわずかに震えていた。


 俺はそれを、暑さのせいだと思った。家庭科室は西日が入って、かなり暑かった。


 だから、そう思った。思うことにした。

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