九話
その日の夜、家に帰っても、千夜はいつも通りだった。
いつも通りすぎた。玄関で頭を下げて、鞄を取って、ブレザーを脱がせて、手を洗わせて、夕食を作って、隣に座って、あーんをして、風呂を沸かして、髪を乾かして、膝を貸した。
工程はひとつも欠けていない。この子の手順は一度も乱れたことがない。乱れないことが、今日ほど不気味に感じたことはなかった。
「湊様」
膝の上から見上げると、下ろした髪が顔の横に垂れていた。今日は、ほどいている。
「なんだ」
「本日は、いかがでしたか」
「普通だな」
「そうですか」
いや、普通ではない。朝、生垣の陰で、俺は聞いてはいけないものを聞いた。
『わたくし、天羽さんのことを、お慕いしております』
その言葉を、俺は今、頭の中に抱えたまま、この子の膝の上にいる。
聞いたと言えない。言えば、盗み聞きをしていたことになる。
「千夜」
「はい」
「今朝、鷹司さんと何話してた」
指の動きが、止まった。止まったのは、一瞬で、すぐにまた動きはじめた。
「女の子同士の話です」
「本人が言ってたのと同じ台詞だな」
「同じ内容ですので」
「……そうか」
「気になりますか」
「気になる」
「そうですか」
千夜は俺の前髪を指で分けた。分けて、また戻した。意味のない動作だ。この子が意味のない動作をするのは、多分、時間を稼いでいる時だけだ。
「湊様」
「なんだ」
「もし私が、湊様に隠しごとをしていたらどうしますか」
「……」
「怒りますか」
「怒らない」
「本当ですか」
「怒らない。ただ」
俺は天井を見た。この子の輪郭の向こうで、照明が滲んでいる。
「一人で抱えないで欲しいと言う」
指の動きが、また止まった。今度は、三秒くらい止まっていた。
「……湊様は」
「なんだ」
「ずるいです」
「昨日も言われたな」
「今日も言います。明日も言うと思います」
甘やかされている。いつも通りに、完璧に、隙間なく甘やかされている。甘やかされているのに、どこかで何かが抜け落ちている感覚が消えなかった。
何が抜けているのかは、その夜は分からなかった。
分かったのは、少し後の話だった。
翌週から、千夜の夜が長くなった。俺が眠るのは、だいたい十二時前後だ。その時間、廊下の奥のドアの下から、まだ光が漏れている。
朝は変わらず五時に起きている。計算が合わない。
「寝てるか」
「寝ています」
「何時間」
「三時間です」
「短いだろ」
「足ります」
「足りない」
「足ります。慣れていますので」
慣れているという言葉が、俺は昔から嫌いだ。慣れるというのは、要するに、痛みに対して感覚を落とすということだ。
この子は、いろんなことに慣れてきた。慣れる必要のなかったことにまで、慣れてきた。
金曜の放課後、俺は図書室に寄った。
課題で使う資料を探していただけだ。他意はなかった。
奥の書架の前に、千夜がいた。三つ編み。制服。いつも通り。ただ、手に持っている本が、いつも通りではなかった。
背表紙が見えた。
『使用人の労務と契約』
何故読んでいるのか、意味が、分からなかった。
だから、ルールを破ることにした。
「……何読んでんだ」
千夜が顔を上げた。今度も驚かなかった。
「調べものです」
「課題か」
「いえ」
「じゃあ何だよ」
千夜は本を閉じて、書架に戻した。戻す手つきが、いつもより丁寧だった。丁寧というより、名残惜しそうだった。
「知っておきたかったので」
「何を」
「私の仕事が、どういう仕組みで成り立っているかを」
「……成り立ってるだろ、普通に」
「はい」
「うちは会社じゃないぞ。契約書もない」
「そうですね」
千夜は少しだけ目を伏せた。
「ですが、契約書がない、というのは」
「なんだ」
「いつでも終われる、ということです」
書架の間は薄暗かった。西日が高い窓から斜めに入って、床に細長い光を落としている。
俺は何も言えなかった。
言うべきことは分かっていた。終わらせない、と言えばよかった。
だが、三年前、俺は同じことを言えなかった。
『そんなことをしなくてもいい』
その言葉が、言えないまま、この子がメイド服を着るのを見ていた。
だから、今さら、言葉だけを出しても軽い。
「千夜」
「はい」
「今度、話がある」
「はい」
「ちゃんと座って、面と向かって話す」
千夜は、しばらく黙っていた。それから、いつもの温度で答えた。
「……もう少し、待っていただけますか」
「なんでだ」
「まだ、整理がついていないので」
その言葉を、俺は「気持ち」の話だと思った。そう思ったのが、あとから考えると、致命的だった。
この子が整理していたのは、気持ちではなかったのだから。
翌週の火曜、麗華さんが爆弾を投げた。
昼休み、俺の隣の席に椅子を持ってきて座るのは、もう恒例行事になっている。教室の女子たちは最初こそ騒いだが、今は「またやってるね」という顔で見ているだけだ。
慣れというのは恐ろしい。二週間で日常になる。
「天羽さん」
「はい」
「お料理を教えていただきたく」
「前も言ってましたね」
「本気ですの」
麗華は鞄から、真新しいエプロンを出した。
真っ白で、レースがついていて、多分、値段を聞いたら気を失う類のものだった。
「買いましたわ」
「早い」
「思い立ったらすぐですのよ」
「そのエプロン、汚れますよ」
「汚れるものだと聞きました」
「聞いてから買ったんですね」
「聞いてから買いましたわ」
順序は正しい。恐らく、金額の感覚だけが壊れている。
「家庭科室をお借りする許可はいただきました」
「早い」
「祖父に頼みましたので」
権力の使い方が私的すぎる。
「では、放課後に」
「待ってください。俺、そんなに料理できないですよ」
「まあ、ご謙遜を」
謙遜ではない。事実だ。俺が作れるのは即席麺と目玉焼きだけで、その目玉焼きも半熟の制御ができない。
嘘の代償が、ついに現物で回収されにきた。
「あの、鷹司さん」
「麗華でよろしいですわ」
「……麗華さん」
初めて、名前で呼んだ。麗華の目が、ぱっと開いた。
「まあ」
「なんですか」
「いえ、なんでもございませんわ」
嬉しそうに、両手を膝の上で握っている。やりにくい。この人は、こちらが少し譲るたびに、それを全力で嬉しがる。
「料理は、その、俺じゃなくて」
言いかけて、止めた。
適任者が、教室に一人いる。だが、その人物を推薦するということは、その人物と俺の関係を説明することになりかねない。
「天羽さん?」
「……いや」
「どうかなさいましたか」
その時だった。
「鷹司さん」
声がした。千夜だった。
自分の席から立ち上がって、こちらに歩いてきていた。
教室の音が、少しだけ落ちた。千夜がクラスの誰かに自分から話しかけるのを、俺は三年間で数えるほどしか見ていない。
「まあ、千夜さん」
「お料理でしたら、私が」
心臓が、嫌な鳴り方をした。
「私、多少はできますので。お手伝いします」
「本当ですの?」
「はい」
「まあ、なんて心強い!」
麗華が千夜の手を両手で握った。この人はすぐ手を握る。
千夜は振りほどかなかった。いつも通りの無表情で、握られたまま立っていた。
「では、放課後。天羽さんと三人で」
「はい」
「千夜さん、ありがとうございます」
「いえ」
千夜が、こちらを見た。三年ぶりに、学校で、まっすぐこちらを見た。
一秒もなかった。その視線から俺は何も読み取れなかった。
読み取れなかったことが、不安だった。
放課後の家庭科室は、西日がまともに入って暑かった。
窓を全部開けると、校庭の野球部の声が入ってくる。ステンレスの調理台が光を返して、目に痛い。
エプロンを着けた麗華さんは、正直に言うと、絵になっていた。
似合っている。悔しいが、とても似合っている。
「では、何を作りましょう」
「卵焼きが良いと思います」
千夜が即答した。
「まあ、卵焼き」
「基本ですので」
「では、卵焼きにいたしますわ」
千夜がボウルと箸を出した。動きに迷いがない。この空間で、この子だけが職人だった。
「まず、卵を割ります」
「はい」
麗華が卵を握った。握り潰した。
「まあ」
「……力の加減です」
「加減が分かりませんの」
「割る時は、平らなところに当ててください。角ではなく」
「平らなところ」
「はい」
二個目。今度は殻が入った。
三個目。手からこぼれた。
四個目でようやく成功して、麗華は万歳した。
「できましたわ!」
「はい」
「千夜さん、わたくし、できました」
「はい。お上手です」
「まあ」
俺は少し離れた場所で、それを見ていた。見ていて、ずっと違和感があった。
千夜が、優しい。いや、この子は元々優しい。優しいが、それは俺に対してだけのはずだった。
学校の千夜は、必要最低限しか喋らない。喋らないというより、喋る必要のある相手がいなかった。
でも、今、この子は麗華に丁寧に教えている。手を添えて、角度を直して、失敗を責めずに、もう一度やらせている。
俺がこの子に何かを教わるのと、同じやり方で。
「天羽さんも、こちらへ」
麗華に呼ばれた。
「いや、俺は」
「教えていただく約束ですわ」
「……そうでしたね」
俺は調理台の前に立った。左に麗華さん、右に千夜。
「では、天羽さんのお手本を」
詰んだ。俺は卵を持った。持ったまま、動けなかった。平らなところに当てる、というのはさっき聞いた。だが力の加減は聞いていない。
こつん、と当てた。割れなかった。もう一度。割れなかった。
三度目で、粉々にした。
「まあ」
沈黙が降りた。麗華が、目を丸くしてこちらを見ている。
「天羽さん」
「はい」
「本当にお料理、なさらないのですか」
終わった。三日前に自分でついた嘘が、今、調理台の上で殻ごと砕けている。
「あの、それは」
「湊さ……」
千夜の声だった。俺と麗華が、同時にそちらを向いた。
千夜は、いつもの無表情のまま、卵を一つ手に取っていた。
「……失礼しました。天羽さんは」
言い直した。呼び方が、一瞬こぼれていた。
麗華は気づいていない。首を傾げているだけだ。
「天羽さんは、卵の扱いが苦手なだけです」
「まあ、そうでしたの」
「他はできます。以前の調理実習でも、美味しい料理を作られていましたから」
嘘だ。完全な嘘。この子が、他人に対して、学校で嘘をついた。
俺をかばうために、初めて。
「では、天羽さんは味付けを」
「……はい」
俺は調味料の前に立たされた。砂糖と塩と醤油。それだけだ。それだけなのに、分量が分からない。
「……湊様は」
千夜がまた言った。今度は直さなかった。麗華は卵を割るのに夢中で、聞いていなかった。
「砂糖が多めの方がお好きですか」
耳元で小さな声だった。俺にだけ届く声だった。
「……知ってるだろ」
「はい」
「三年も作ってるんだから」
「はい」
千夜は砂糖を計って、俺の手のひらに小さじを載せた。
指が触れた。一瞬だ。その一瞬に、千夜の指が、ほんのわずかに震えていた。
俺はそれを、暑さのせいだと思った。家庭科室は西日が入って、かなり暑かった。
だから、そう思った。思うことにした。




