↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
氷の柊さんは俺の前でだけ甘い  作者: 瑠璃色に輝く希望
三章「使用人の柊さんは一歩下がる」
PR
12/22

十話

 卵焼きは、三本できた。


 麗華のものは、形がひどかった。中身が半分こぼれて、片側だけ厚い。


 俺のものは、少し、焦げた。味付けだけが妙に完璧だった。


 千夜のものは、完璧だった。

 

 断面が均一で、奥から二回、手前で一回止めて、また奥から巻いてある。


「まあ、千夜さん、すごいですわ」


「慣れていますので」


「どこで習われましたの?」


 千夜の手が、止まった。


「……ある人に教わりました」


「素敵な方ですのね」


「はい。素敵な方です」


 その言い方に、俺は少しだけ引っかかった。引っかかったが、特に気にしなかった。


 麗華は自分の卵焼きを一切れ、皿に載せた。


「天羽さん」


「はい」


「召し上がっていただけますか」


 形の崩れた、片側だけ厚い、はじめての卵焼き。


「わたくし、はじめて人にお出しするお料理ですの」


 俺は箸を取った。


 取る前に、一瞬だけ、千夜の方を見た。千夜は洗い物をしていた。こちらを見ていない。


 背中が、まっすぐだった。


 まっすぐすぎた。俺は卵焼きを口に入れた。


 しょっぱかった。塩と砂糖を、たぶん間違えている。


「……うまいです」


 嘘をついた。その日、二つ目の嘘だった。


「まあ、本当ですの?」


「本当です」


「よかった」


 麗華が両手を胸の前で合わせて、心の底から嬉しそうに笑った。その笑顔を見ながら、俺は水道の音を聞いていた。蛇口から出る水の音が、いつもより強かった気がした。


 気のせいかもしれないと思ったが、気のせいではなかった。


 その夜のことを、俺は多分、一生忘れない。


 風呂から上がると、リビングの照明は一段落とされていた。


 七月の終わりの夜で、窓を開けていた。庭の草むらで虫が鳴いている。時々、風が入ってカーテンを膨らませた。


「湊様。座ってください」


 いつものクッション。いつもの温風。いつもの指。


「気持ちいいですか」


「まあ」


「よかったです」


 ドライヤーが止まった。


「膝、貸します」


「今日は聞かないんだな」


「今日は、貸したいので」


 頭が柔らかいものの上に落ちた。見上げると、下ろした髪が顔の両脇に垂れて、世界が狭くなった。


 いつもと同じだ。


 いつもと同じなのに、この子の目が、いつもより少しだけ遠かった。


「湊様」


「なんだ」


「今日の卵焼きは、いかがでしたか」


「……しょっぱかった」


「はい」


「知ってたのか」


「見ていました。塩と砂糖を、逆に入れておられました」


「なんで止めなかった」


「止めると、鷹司様が落ち込まれるので」


「俺は止めてほしかったんだが」


「湊様なら、召し上がると思いましたので」


 読まれている。全部読まれている。


 三年分の観測データは、俺の嘘の癖まで含んでいるらしい。


 千夜の指が、俺の前髪をゆっくり分けた。分けて、戻して、また分けた。


 時間を稼いでいる。この子がこの動作をする時は、いつもそうだ。


「湊様」


「なんだ」


「お話が、あります」


 俺は目を開けた。天井の照明が、この子の輪郭の向こうで滲んでいる。


「聞く」


「はい」


 千夜は一度、息を吸った。この子が言葉の前に息を吸うのを、俺は数えるほどしか見ていない。


「鷹司様と、お付き合いなさってはいかがですか」


 虫の声が、やけに大きく聞こえた。


 俺は、何を言われたのか分からなかった。音は聞こえた。単語も全部知っている。並び順も日本語として正しい。


 それなのに、意味が組み上がらなかった。


「……なんて言った」


「鷹司様と、お付き合いなさってはいかがですかと申しました」


 同じ文だった。一字も違わない。抑揚も、事務連絡と同じだった。


 俺は起き上がった。


 膝から頭を離して、床に座り直して、千夜と正面から向き合った。


 正面から向き合うのは、久しぶりだった。


「なんでそんなこと言う」


「鷹司様は、湊様をお慕いしておられます」


「……知ってる」


 言ってしまった。千夜の目が、わずかに動いた。


「ご存じでしたか」


「聞いた。あの朝、生垣のとこで」


「……そうですか」


「聞くつもりはなかった。足が止まった」


「はい」


「悪かった」


「いいえ」


 千夜は、責めなかった。俺は責めてほしかった。


「それで」


 俺は膝の上で手を握った。


「なんで、お前がそれを言う」


「鷹司様に、頼まれました」


「何を」


「湊様との仲を、取り持ってほしいと」


 風が入って、カーテンが膨らんだ。


「断ればいい」


「断りませんでした」


「なんで」


「お受けしました」


「なんでだ!」


 大きい声が出た。


 三年間、この子に声を荒げたことは一度もなかったのに、出てしまった。


 それでも、千夜は、動じなかった。


 無表情のまま、背筋をまっすぐにしたまま、俺を見ていた。その姿勢が、余計に腹が立った。


「千夜、自分が何言ってるか分かってるのか」


「分かっています」


「分かってないだろ!」


「分かっています」


「じゃあなぜだ! なんで、千夜が」


 そこで、言葉が止まった。続きが言えなかった。


「なんで、千夜が」


 その先を言うには、俺が三年間言えなかったことを、先に言わなければならない。


 好きだから、と。


 俺が好きなのは千夜だから、他の誰かを勧められるのは耐えられないんだと。


 ……言えなかった。


 こんな形で、こんな喧嘩の途中で、押し出されるみたいに言いたくなかった。


 千夜は、俺が言葉を止めたのを見ていた。


 見ていて、待っていた。待っていて、来ないと分かると、静かに目を伏せた。


「……鷹司様は、良い方です」


「そういう話じゃない」


「良い方で、湊様を大切にしてくださいます」


「そういう話じゃないって言ってるだろ」


「湊様がお幸せになる道は、いくつもあります」


「千夜」


「私は、そのうちのひとつを、お勧めしているだけです」


 俺は立ち上がった。立ち上がって、この子を見下ろした。


「千夜は、それでいいのか」


 千夜は、俺を見上げた。いつもの無表情だった。


 三年間見てきた、何も動かない顔だった。


 だが、この時だけ、俺ははっきりと分かった。この子は今、必死で顔を動かさないようにしている。耐えているのだ。


「……私は」


「なんだよ」


「私は、使用人ですので」


 その一言だった。


「湊様のお幸せを、一番に考えるのが仕事です」


 俺は、何かを言おうとした。


 言おうとして、代わりに、一番言ってはいけないことを言ってしまった。


「じゃあ、仕事なんかやめろ」


 千夜の肩が、はじめて動いた。ほんの少しだ。ほんの少しだが、確かに動いた。


「三年間、ずっと言いたかった。メイドなんかやめていい。恩返しなんかいらない。誰も頼んでない」


「……はい」


「千夜がここにいるのに、理由なんかいらない」


 言い終わって、後悔した。千夜の顔から、何かが抜けたのが見えた。


 抜けたというより、抜き取ったのだと思う。この子は自分で、自分の中の何かを、その場で片付けた。


「……申し訳ありません」


「謝るな」


「湊様」


「なんだ」


 千夜は、床に指をついた。そして、深く頭を下げた。床に額がつきそうなほど、深く。


「今、私から、それを取り上げないでください」


 声が、震えていた。三年間で、はじめて聞く声だった。


 ……ああ、俺はなんてことを言ってしまったんだ。千夜に言ってはいけない事を全部言った。自分の感情のままに。


 俺は、その場に立ったまま、動けなかった。


 何を言っても、この子をもっと傷つける気がした。だから、何も言わずに部屋を出た。


 出ていく時、後ろで小さな音がした。


 床に置かれたドライヤーが、倒れた音だった。


 部屋に戻って、ベッドに倒れ込む。


 ……俺は最低な人間だ。人の気持ちを無視して、自分の気持ちだけを押し付けた。


 ……こんな人間が、千夜の事を好きになっていいはずが、ないんだ。


 罪悪感で押しつぶされそうになって、俺はもう考える事をやめくなって、目を閉じた。


 翌朝、目を開けると、カーテンが半分だけ開いていた。


 夏の光は白い。庭のもみじがもう濃い緑になっていて、朝から蝉が鳴いている。


「おはようございます、湊様。六時三十分です」


 ベッドの脇に千夜が立っている。三つ編みだった。


 平常運転の髪だ。


「……おはよう」


「起きられますか」


「起きられる」


「そうですか」


布団に指がかかる。


「では、剥がします」


「聞いた意味は」


 視界が明るくなった。いつも通りだった。


 制服を着せられ、ネクタイを結ばれ、寝癖を直された。全部いつも通りだった。朝食は和食で、俺の好きなものだけが並んでいた。あーんもされた。弁当も渡された。


 洗面所で肩の埃を払われ、襟の裏を直された。全部、いつも通りだった。

 

 昨日の夜のことを、この子は一言も持ち出さなかった。俺も持ち出せなかった。


「今日も、五分後に出ます」


「ああ」


「校門の手前の角で、いつも通りに曲がります」


「知ってる」


「……知っていてください」


 いつも通りだった。俺は靴を履いた。履いて、振り返った。


 千夜は、玄関に立っていた。深く頭を下げた。


「いってらっしゃいませ」


 俺は、しばらく動かなかった。ネクタイを引かれなかった。体は傾かなかった。額に、何も落ちてこなかった。


「……千夜」


「はい」


「今日は」


 言いかけて、止めた。言えるわけがなかった。毎朝やめろと言い続けてきたのは、俺だ。宣言するなと言ったのも俺だ。


 俺はずっとやめろと言ってきた。


 そして、今日、やめてくれた。


 たったそれだけのことで、玄関の空気がこんなに冷たくなるとは思わなかった。


「なんでもない」


「はい」


「……行ってくる」


「いってらっしゃいませ」


 ドアを閉めた。七月の熱気が押し寄せてくる。俺は額に手を当てた。冷ますものが、何もなかった。


 門の前で、しばらく立っていた。


 三年間、毎朝五分かけて冷ましていたものが、今朝はゼロ秒で終わった。


 効率が良くなった。


 でも、こんな効率化は、望んでなんかいなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。