十話
卵焼きは、三本できた。
麗華のものは、形がひどかった。中身が半分こぼれて、片側だけ厚い。
俺のものは、少し、焦げた。味付けだけが妙に完璧だった。
千夜のものは、完璧だった。
断面が均一で、奥から二回、手前で一回止めて、また奥から巻いてある。
「まあ、千夜さん、すごいですわ」
「慣れていますので」
「どこで習われましたの?」
千夜の手が、止まった。
「……ある人に教わりました」
「素敵な方ですのね」
「はい。素敵な方です」
その言い方に、俺は少しだけ引っかかった。引っかかったが、特に気にしなかった。
麗華は自分の卵焼きを一切れ、皿に載せた。
「天羽さん」
「はい」
「召し上がっていただけますか」
形の崩れた、片側だけ厚い、はじめての卵焼き。
「わたくし、はじめて人にお出しするお料理ですの」
俺は箸を取った。
取る前に、一瞬だけ、千夜の方を見た。千夜は洗い物をしていた。こちらを見ていない。
背中が、まっすぐだった。
まっすぐすぎた。俺は卵焼きを口に入れた。
しょっぱかった。塩と砂糖を、たぶん間違えている。
「……うまいです」
嘘をついた。その日、二つ目の嘘だった。
「まあ、本当ですの?」
「本当です」
「よかった」
麗華が両手を胸の前で合わせて、心の底から嬉しそうに笑った。その笑顔を見ながら、俺は水道の音を聞いていた。蛇口から出る水の音が、いつもより強かった気がした。
気のせいかもしれないと思ったが、気のせいではなかった。
その夜のことを、俺は多分、一生忘れない。
風呂から上がると、リビングの照明は一段落とされていた。
七月の終わりの夜で、窓を開けていた。庭の草むらで虫が鳴いている。時々、風が入ってカーテンを膨らませた。
「湊様。座ってください」
いつものクッション。いつもの温風。いつもの指。
「気持ちいいですか」
「まあ」
「よかったです」
ドライヤーが止まった。
「膝、貸します」
「今日は聞かないんだな」
「今日は、貸したいので」
頭が柔らかいものの上に落ちた。見上げると、下ろした髪が顔の両脇に垂れて、世界が狭くなった。
いつもと同じだ。
いつもと同じなのに、この子の目が、いつもより少しだけ遠かった。
「湊様」
「なんだ」
「今日の卵焼きは、いかがでしたか」
「……しょっぱかった」
「はい」
「知ってたのか」
「見ていました。塩と砂糖を、逆に入れておられました」
「なんで止めなかった」
「止めると、鷹司様が落ち込まれるので」
「俺は止めてほしかったんだが」
「湊様なら、召し上がると思いましたので」
読まれている。全部読まれている。
三年分の観測データは、俺の嘘の癖まで含んでいるらしい。
千夜の指が、俺の前髪をゆっくり分けた。分けて、戻して、また分けた。
時間を稼いでいる。この子がこの動作をする時は、いつもそうだ。
「湊様」
「なんだ」
「お話が、あります」
俺は目を開けた。天井の照明が、この子の輪郭の向こうで滲んでいる。
「聞く」
「はい」
千夜は一度、息を吸った。この子が言葉の前に息を吸うのを、俺は数えるほどしか見ていない。
「鷹司様と、お付き合いなさってはいかがですか」
虫の声が、やけに大きく聞こえた。
俺は、何を言われたのか分からなかった。音は聞こえた。単語も全部知っている。並び順も日本語として正しい。
それなのに、意味が組み上がらなかった。
「……なんて言った」
「鷹司様と、お付き合いなさってはいかがですかと申しました」
同じ文だった。一字も違わない。抑揚も、事務連絡と同じだった。
俺は起き上がった。
膝から頭を離して、床に座り直して、千夜と正面から向き合った。
正面から向き合うのは、久しぶりだった。
「なんでそんなこと言う」
「鷹司様は、湊様をお慕いしておられます」
「……知ってる」
言ってしまった。千夜の目が、わずかに動いた。
「ご存じでしたか」
「聞いた。あの朝、生垣のとこで」
「……そうですか」
「聞くつもりはなかった。足が止まった」
「はい」
「悪かった」
「いいえ」
千夜は、責めなかった。俺は責めてほしかった。
「それで」
俺は膝の上で手を握った。
「なんで、お前がそれを言う」
「鷹司様に、頼まれました」
「何を」
「湊様との仲を、取り持ってほしいと」
風が入って、カーテンが膨らんだ。
「断ればいい」
「断りませんでした」
「なんで」
「お受けしました」
「なんでだ!」
大きい声が出た。
三年間、この子に声を荒げたことは一度もなかったのに、出てしまった。
それでも、千夜は、動じなかった。
無表情のまま、背筋をまっすぐにしたまま、俺を見ていた。その姿勢が、余計に腹が立った。
「千夜、自分が何言ってるか分かってるのか」
「分かっています」
「分かってないだろ!」
「分かっています」
「じゃあなぜだ! なんで、千夜が」
そこで、言葉が止まった。続きが言えなかった。
「なんで、千夜が」
その先を言うには、俺が三年間言えなかったことを、先に言わなければならない。
好きだから、と。
俺が好きなのは千夜だから、他の誰かを勧められるのは耐えられないんだと。
……言えなかった。
こんな形で、こんな喧嘩の途中で、押し出されるみたいに言いたくなかった。
千夜は、俺が言葉を止めたのを見ていた。
見ていて、待っていた。待っていて、来ないと分かると、静かに目を伏せた。
「……鷹司様は、良い方です」
「そういう話じゃない」
「良い方で、湊様を大切にしてくださいます」
「そういう話じゃないって言ってるだろ」
「湊様がお幸せになる道は、いくつもあります」
「千夜」
「私は、そのうちのひとつを、お勧めしているだけです」
俺は立ち上がった。立ち上がって、この子を見下ろした。
「千夜は、それでいいのか」
千夜は、俺を見上げた。いつもの無表情だった。
三年間見てきた、何も動かない顔だった。
だが、この時だけ、俺ははっきりと分かった。この子は今、必死で顔を動かさないようにしている。耐えているのだ。
「……私は」
「なんだよ」
「私は、使用人ですので」
その一言だった。
「湊様のお幸せを、一番に考えるのが仕事です」
俺は、何かを言おうとした。
言おうとして、代わりに、一番言ってはいけないことを言ってしまった。
「じゃあ、仕事なんかやめろ」
千夜の肩が、はじめて動いた。ほんの少しだ。ほんの少しだが、確かに動いた。
「三年間、ずっと言いたかった。メイドなんかやめていい。恩返しなんかいらない。誰も頼んでない」
「……はい」
「千夜がここにいるのに、理由なんかいらない」
言い終わって、後悔した。千夜の顔から、何かが抜けたのが見えた。
抜けたというより、抜き取ったのだと思う。この子は自分で、自分の中の何かを、その場で片付けた。
「……申し訳ありません」
「謝るな」
「湊様」
「なんだ」
千夜は、床に指をついた。そして、深く頭を下げた。床に額がつきそうなほど、深く。
「今、私から、それを取り上げないでください」
声が、震えていた。三年間で、はじめて聞く声だった。
……ああ、俺はなんてことを言ってしまったんだ。千夜に言ってはいけない事を全部言った。自分の感情のままに。
俺は、その場に立ったまま、動けなかった。
何を言っても、この子をもっと傷つける気がした。だから、何も言わずに部屋を出た。
出ていく時、後ろで小さな音がした。
床に置かれたドライヤーが、倒れた音だった。
部屋に戻って、ベッドに倒れ込む。
……俺は最低な人間だ。人の気持ちを無視して、自分の気持ちだけを押し付けた。
……こんな人間が、千夜の事を好きになっていいはずが、ないんだ。
罪悪感で押しつぶされそうになって、俺はもう考える事をやめくなって、目を閉じた。
翌朝、目を開けると、カーテンが半分だけ開いていた。
夏の光は白い。庭のもみじがもう濃い緑になっていて、朝から蝉が鳴いている。
「おはようございます、湊様。六時三十分です」
ベッドの脇に千夜が立っている。三つ編みだった。
平常運転の髪だ。
「……おはよう」
「起きられますか」
「起きられる」
「そうですか」
布団に指がかかる。
「では、剥がします」
「聞いた意味は」
視界が明るくなった。いつも通りだった。
制服を着せられ、ネクタイを結ばれ、寝癖を直された。全部いつも通りだった。朝食は和食で、俺の好きなものだけが並んでいた。あーんもされた。弁当も渡された。
洗面所で肩の埃を払われ、襟の裏を直された。全部、いつも通りだった。
昨日の夜のことを、この子は一言も持ち出さなかった。俺も持ち出せなかった。
「今日も、五分後に出ます」
「ああ」
「校門の手前の角で、いつも通りに曲がります」
「知ってる」
「……知っていてください」
いつも通りだった。俺は靴を履いた。履いて、振り返った。
千夜は、玄関に立っていた。深く頭を下げた。
「いってらっしゃいませ」
俺は、しばらく動かなかった。ネクタイを引かれなかった。体は傾かなかった。額に、何も落ちてこなかった。
「……千夜」
「はい」
「今日は」
言いかけて、止めた。言えるわけがなかった。毎朝やめろと言い続けてきたのは、俺だ。宣言するなと言ったのも俺だ。
俺はずっとやめろと言ってきた。
そして、今日、やめてくれた。
たったそれだけのことで、玄関の空気がこんなに冷たくなるとは思わなかった。
「なんでもない」
「はい」
「……行ってくる」
「いってらっしゃいませ」
ドアを閉めた。七月の熱気が押し寄せてくる。俺は額に手を当てた。冷ますものが、何もなかった。
門の前で、しばらく立っていた。
三年間、毎朝五分かけて冷ましていたものが、今朝はゼロ秒で終わった。
効率が良くなった。
でも、こんな効率化は、望んでなんかいなかった。




