十一話
真夏の教室は昼過ぎに三十度を超える。
エアコンは動いているが、四十人分の熱量に負けている。窓際の席は特にひどい。カーテンを閉めても、光が布ごと熱を持つ。
その日の放課後、俺は三人で図書室にいた。
麗華、千夜、そして俺。
「期末の範囲、まだ半分も終わっておりませんの」
麗華が机に突っ伏していた。令嬢がやると、突っ伏す動作まで上品に見えるから不思議だ。
「編入したばかりですし、仕方ないですよ」
「天羽さんはお優しいですわ」
「事実です」
「千夜さんも、そう思われます?」
「はい」
千夜は麗華のノートを覗き込んで、ページの一点を指した。
「ここ、公式が違います」
「まあ」
「三行目からやり直しです」
「厳しいですわ」
「はい」
千夜の教え方は正確だ。正確で、無駄がなくて、そして容赦がない。
麗華は半泣きになりながら消しゴムを使っていた。使っていて、そのうち楽しそうに笑いはじめた。
この人は、叱られるのが嬉しいらしい。今まで、叱られたことがあまりないからだ。
「千夜さん」
「はい」
「わたくし、千夜さんとお友達になれてよかったですわ」
千夜のシャープペンが、止まった。一秒未満だ。すぐにまた動きはじめた。
「……ありがとうございます」
「ずっとお友達でいてくださいませ」
「はい」
俺はそのやりとりを、少し離れた席から見ていた。
見ていて、胸のあたりが妙な形に痛んだ。麗華は本気だ。この人に打算はひとつもない。千夜も、多分、本気だ。
嘘をつかない二人が向かい合っていて、それでも何かが決定的にずれている。
そのずれの正体が、俺にはまだ見えていなかった。
四時半を回った頃、千夜が席を立った。
「私、先に失礼します」
「まあ、もうお帰りですの?」
「用事がありますので」
「用事」
俺は思わず口を挟んだ。千夜がこちらを見た。学校で、まっすぐ。
「はい」
「何の用事だ」
「……天羽さんには、関係のないことです」
冷たい声だった。学校用の顔だ。三年間、俺がずっと見てきた、他人の顔。
だが、今日のそれは、他人の顔ですらなかった。
千夜は鞄を持って、麗華さんに丁寧に頭を下げた。
「鷹司さん」
「はい」
「あとは、お二人でどうぞ」
「まあ」
「天羽さんは、数学が得意です。私より」
……嘘だ。俺の数学は、この子に毎晩添削されている。
「では、失礼します」
千夜が歩き出した。俺は立ち上がった。立ち上がってしまった。
「千夜」
図書室で、俺はこの子の名前を呼んだ。三年間、一度も呼んだことのない場所で。
司書の先生が顔を上げた。麗華さんも、目を丸くしてこちらを見た。
千夜が、足を止めた。振り返らずに、背中で答えた。
「……天羽さん」
「待て」
「待てません」
「なんでだよ」
千夜は、そこで振り返った。無表情だった。完璧に、無表情だった。
「私が下がります」
「……は?」
「私がいると、お邪魔ですので」
「邪魔とか、そういう話じゃ」
「そういう話です」
一歩も引かなかった。
「私が下がれば、お二人の時間が増えます。増えれば、鷹司様の願いに近づきます」
「千夜」
「私は、そのためにお受けしました」
窓の外で、蝉が鳴いていた。図書室の中は、エアコンの音以外に何もなかった。
「では、失礼します」
千夜は今度こそ歩き出して、扉の向こうに消えた。
音を立てずに扉を閉めるのが、この子は昔からうまい。
俺は立ったまま、しばらく動けなかった。
「……天羽さん」
麗華の声で、我に返った。
「すみません」
「いえ」
麗華は、少し困ったような顔をしていた。
「千夜さんとは、その」
心臓が跳ねた。
「何か特別なお知り合いですの?」
「……同じクラスです」
「はい。それは存じております」
麗華は、じっと俺を見た。
この人がこういう目をするのは、はじめてだった。
「それだけですの?」
俺は答えられなかった。答えを探して、見つからなくて、探しているあいだに時間が過ぎた。
麗華は、それを見ていた。そして、微笑んだ。
「まあ、詮索いたしませんわ」
「……すみません」
「謝ることではございませんもの」
麗華はノートに向き直った。
「では、続きを教えてくださいませ。三行目からですわね」
その日、俺は数学を教えた。けれど、うまく教えられなかった。麗華も、多分、あまり解けていなかった。
それから数日、千夜は同じことを繰り返した。朝、坂の途中で麗華と合流すると、千夜は必ず三歩下がった。
昼休み、麗華が俺の隣に椅子を置くと、千夜は自分の席から動かなかった。
放課後、三人でいる時間がある程度を超えると、千夜は必ず用事を作って消えた。
用事の内容は、毎回違った。図書室の返却、日直の残り、購買の買い忘れ、職員室のお使い。
全部本当のことだった。本当の用事を、毎日ひとつずつ作っていた。そのために、わざわざ本を借りて、わざわざ買い忘れを作っていた。
木曜の放課後、俺は職員室の前で千夜を捕まえた。
「なあ」
「天羽さん」
「その用事、いつ作った」
千夜は、少しだけ黙った。
「……昼休みです」
「作ったのか」
「はい」
「毎日か」
「毎日です」
正直だ。この子は、聞かれたことには必ず答える。聞かれなかったことは、絶対に言わないが。
「やめろよ、そういうの」
「やめません」
「なんでだ」
「効果が出ていますので」
心臓が、嫌な音を立てた。
「効果って、なんの」
「鷹司様が、昨日、笑っておられました」
「いつも笑ってるだろ、あの人」
「昨日のは、違いました」
千夜は職員室のドアに手をかけた。
「では、失礼します」
ドアが閉まった。俺は廊下に立ったまま、そのドアを見ていた。効果が出ている。
この子は今、自分の仕事の成果を報告した。
三年間、俺のために積み上げてきた技術を、俺を他人に渡すために使っている。
そして、それがうまくいっていることを、俺に報告してくる。
思わず、壁を殴りそうになった。けれど、俺は壁を殴らなかった。殴ったら、この子が、俺の手を心配するからだ。
そういうところが、いちばん腹立たしい。
翌日の昼休み、俺は屋上に上がった。
教室にいたくなかった。麗華が悪いわけではない。ただ、あの席にいると、斜め前の背中が視界に入る。
屋上は暑かった。給水塔の影だけが少し涼しい。
その影に、先客がいた。
「あら」
早乙女楓さんだった。
日陰のコンクリートに、きちんと足を揃えて座っている。膝の上に文庫本。
「珍しいところでお会いしますね」
「……どうも」
「隣、どうぞ」
俺は少し離れて座った。フェンスの向こうに、校庭と、その先の住宅街が見える。遠くに俺の家の屋根が見えるはずだが、どれか分からない。
「お嬢様は、教室ですけどね」
「知ってます」
「逃げてこられましたか」
「……はい」
「正直ですね」
楓さんは本を閉じた。
「天羽くん」
「はい」
「千夜ちゃん、何か言いましたか」
俺は答えなかった。答えなかったことが、答えになった。
「何と言いましたか」
「……鷹司さんと付き合えって」
楓さんの手が、止まった。この人が動きを止めるのを、俺ははじめて見た。
いつも先回りして、いつも余裕があって、いつも「なんでもないですけどね」で終わらせる人が、文庫本の表紙に指を置いたまま、数秒動かなかった。
「そうですか」
「はい」
「他には」
「私は使用人ですので、って」
楓さんが、長く息を吐いた。
「……あの子は、ついにそこまで考えましたか」
「どういう意味ですか」
「いえ」
「教えてください」
「教えません」
即答だった。
「なんでですか」
「私が言うことではないので」
楓さんはフェンスの向こうを見ていた。風が吹いて、まとめた髪の先が少しだけ揺れた。
「天羽くん」
「はい」
「ひとつだけ、忠告してもいいですか」
「どうぞ」
「あの子の言うことを、額面通りに受け取らないでください」
俺は、その言葉の意味を掴もうとした。掴めなかった。
「千夜ちゃんは、基本的には嘘をつきません」
「知ってます」
「でも、本当のことを全部言うとも限りません」
「……それは、嘘じゃないんですか」
「違いますよ」
楓さんは、はじめてこちらを見た。
「本当のことを半分だけ言うのは、嘘とは違います。もっと悪いです」
「なんでですか」
「聞いた方が、自分で残り半分を埋めてしまうので」
背中が冷えた。七月の屋上で、はっきりと冷えた。
「天羽くんは今、こう思っていませんか。千夜ちゃんはお嬢様のために身を引こうとしている、と」
「……そう思っています」
「それが、天羽くんが自分で埋めた半分です」
「じゃあ、本当は」
「言いません」
楓さんは立ち上がって、スカートについた埃を払った。
「ただ、これだけは言います」
「はい」
「あの子は、多分、今、自分の一生を賭けた計算をしています」
蝉の声が、一段大きくなった。
「計算というのは、答えが出るまで人に見せられません。見せたら止められますから」
「……止めるべきなんですか」
「さあ」
楓さんは屋上のドアの方へ歩き出した。そして、ドアノブに手をかけたところで、振り返らずに言った。
「私は、止められませんでしたので」
音もなく、ドアが閉まった。俺は給水塔の影に、一人で残された。止められませんでした。過去形だった。
誰を、いつ、何から止められなかったのか。俺には分からなかった。
分からないまま、その日の午後、俺は一度も黒板を見なかった。




