↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
氷の柊さんは俺の前でだけ甘い  作者: 瑠璃色に輝く希望
三章「使用人の柊さんは一歩下がる」
PR
13/22

十一話

 真夏の教室は昼過ぎに三十度を超える。


 エアコンは動いているが、四十人分の熱量に負けている。窓際の席は特にひどい。カーテンを閉めても、光が布ごと熱を持つ。


 その日の放課後、俺は三人で図書室にいた。


 麗華、千夜、そして俺。


「期末の範囲、まだ半分も終わっておりませんの」


 麗華が机に突っ伏していた。令嬢がやると、突っ伏す動作まで上品に見えるから不思議だ。


「編入したばかりですし、仕方ないですよ」


「天羽さんはお優しいですわ」


「事実です」


「千夜さんも、そう思われます?」


「はい」


 千夜は麗華のノートを覗き込んで、ページの一点を指した。


「ここ、公式が違います」


「まあ」


「三行目からやり直しです」


「厳しいですわ」


「はい」


 千夜の教え方は正確だ。正確で、無駄がなくて、そして容赦がない。


 麗華は半泣きになりながら消しゴムを使っていた。使っていて、そのうち楽しそうに笑いはじめた。


 この人は、叱られるのが嬉しいらしい。今まで、叱られたことがあまりないからだ。


「千夜さん」


「はい」


「わたくし、千夜さんとお友達になれてよかったですわ」


 千夜のシャープペンが、止まった。一秒未満だ。すぐにまた動きはじめた。


「……ありがとうございます」


「ずっとお友達でいてくださいませ」


「はい」


 俺はそのやりとりを、少し離れた席から見ていた。


 見ていて、胸のあたりが妙な形に痛んだ。麗華は本気だ。この人に打算はひとつもない。千夜も、多分、本気だ。

 

 嘘をつかない二人が向かい合っていて、それでも何かが決定的にずれている。


 そのずれの正体が、俺にはまだ見えていなかった。


 四時半を回った頃、千夜が席を立った。


「私、先に失礼します」


「まあ、もうお帰りですの?」


「用事がありますので」


「用事」


 俺は思わず口を挟んだ。千夜がこちらを見た。学校で、まっすぐ。


「はい」


「何の用事だ」


「……天羽さんには、関係のないことです」


 冷たい声だった。学校用の顔だ。三年間、俺がずっと見てきた、他人の顔。


 だが、今日のそれは、他人の顔ですらなかった。


 千夜は鞄を持って、麗華さんに丁寧に頭を下げた。


「鷹司さん」


「はい」


「あとは、お二人でどうぞ」


「まあ」


「天羽さんは、数学が得意です。私より」


 ……嘘だ。俺の数学は、この子に毎晩添削されている。


「では、失礼します」


 千夜が歩き出した。俺は立ち上がった。立ち上がってしまった。


「千夜」


 図書室で、俺はこの子の名前を呼んだ。三年間、一度も呼んだことのない場所で。


 司書の先生が顔を上げた。麗華さんも、目を丸くしてこちらを見た。


 千夜が、足を止めた。振り返らずに、背中で答えた。


「……天羽さん」


「待て」


「待てません」


「なんでだよ」


 千夜は、そこで振り返った。無表情だった。完璧に、無表情だった。


「私が下がります」


「……は?」


「私がいると、お邪魔ですので」


「邪魔とか、そういう話じゃ」


「そういう話です」


 一歩も引かなかった。


「私が下がれば、お二人の時間が増えます。増えれば、鷹司様の願いに近づきます」


「千夜」


「私は、そのためにお受けしました」


 窓の外で、蝉が鳴いていた。図書室の中は、エアコンの音以外に何もなかった。


「では、失礼します」


 千夜は今度こそ歩き出して、扉の向こうに消えた。

音を立てずに扉を閉めるのが、この子は昔からうまい。


 俺は立ったまま、しばらく動けなかった。


「……天羽さん」


 麗華の声で、我に返った。


「すみません」


「いえ」


 麗華は、少し困ったような顔をしていた。


「千夜さんとは、その」


 心臓が跳ねた。


「何か特別なお知り合いですの?」


「……同じクラスです」


「はい。それは存じております」


 麗華は、じっと俺を見た。


 この人がこういう目をするのは、はじめてだった。


「それだけですの?」


 俺は答えられなかった。答えを探して、見つからなくて、探しているあいだに時間が過ぎた。


 麗華は、それを見ていた。そして、微笑んだ。


「まあ、詮索いたしませんわ」


「……すみません」


「謝ることではございませんもの」


 麗華はノートに向き直った。


「では、続きを教えてくださいませ。三行目からですわね」


 その日、俺は数学を教えた。けれど、うまく教えられなかった。麗華も、多分、あまり解けていなかった。


 それから数日、千夜は同じことを繰り返した。朝、坂の途中で麗華と合流すると、千夜は必ず三歩下がった。


 昼休み、麗華が俺の隣に椅子を置くと、千夜は自分の席から動かなかった。


 放課後、三人でいる時間がある程度を超えると、千夜は必ず用事を作って消えた。


 用事の内容は、毎回違った。図書室の返却、日直の残り、購買の買い忘れ、職員室のお使い。


 全部本当のことだった。本当の用事を、毎日ひとつずつ作っていた。そのために、わざわざ本を借りて、わざわざ買い忘れを作っていた。


 木曜の放課後、俺は職員室の前で千夜を捕まえた。


「なあ」


「天羽さん」


「その用事、いつ作った」


 千夜は、少しだけ黙った。


「……昼休みです」


「作ったのか」


「はい」


「毎日か」


「毎日です」


 正直だ。この子は、聞かれたことには必ず答える。聞かれなかったことは、絶対に言わないが。


「やめろよ、そういうの」


「やめません」


「なんでだ」


「効果が出ていますので」


 心臓が、嫌な音を立てた。


「効果って、なんの」


「鷹司様が、昨日、笑っておられました」


「いつも笑ってるだろ、あの人」


「昨日のは、違いました」


 千夜は職員室のドアに手をかけた。


「では、失礼します」


 ドアが閉まった。俺は廊下に立ったまま、そのドアを見ていた。効果が出ている。


 この子は今、自分の仕事の成果を報告した。


 三年間、俺のために積み上げてきた技術を、俺を他人に渡すために使っている。


 そして、それがうまくいっていることを、俺に報告してくる。


 思わず、壁を殴りそうになった。けれど、俺は壁を殴らなかった。殴ったら、この子が、俺の手を心配するからだ。


 そういうところが、いちばん腹立たしい。


 翌日の昼休み、俺は屋上に上がった。


 教室にいたくなかった。麗華が悪いわけではない。ただ、あの席にいると、斜め前の背中が視界に入る。


 屋上は暑かった。給水塔の影だけが少し涼しい。


 その影に、先客がいた。


「あら」


 早乙女楓さんだった。


 日陰のコンクリートに、きちんと足を揃えて座っている。膝の上に文庫本。


「珍しいところでお会いしますね」


「……どうも」


「隣、どうぞ」


 俺は少し離れて座った。フェンスの向こうに、校庭と、その先の住宅街が見える。遠くに俺の家の屋根が見えるはずだが、どれか分からない。


「お嬢様は、教室ですけどね」


「知ってます」


「逃げてこられましたか」


「……はい」


「正直ですね」


 楓さんは本を閉じた。


「天羽くん」


「はい」


「千夜ちゃん、何か言いましたか」


 俺は答えなかった。答えなかったことが、答えになった。


「何と言いましたか」


「……鷹司さんと付き合えって」


 楓さんの手が、止まった。この人が動きを止めるのを、俺ははじめて見た。


 いつも先回りして、いつも余裕があって、いつも「なんでもないですけどね」で終わらせる人が、文庫本の表紙に指を置いたまま、数秒動かなかった。


「そうですか」


「はい」


「他には」


「私は使用人ですので、って」


 楓さんが、長く息を吐いた。


「……あの子は、ついにそこまで考えましたか」


「どういう意味ですか」


「いえ」


「教えてください」


「教えません」


 即答だった。


「なんでですか」


「私が言うことではないので」


 楓さんはフェンスの向こうを見ていた。風が吹いて、まとめた髪の先が少しだけ揺れた。


「天羽くん」


「はい」


「ひとつだけ、忠告してもいいですか」


「どうぞ」


「あの子の言うことを、額面通りに受け取らないでください」


 俺は、その言葉の意味を掴もうとした。掴めなかった。


「千夜ちゃんは、基本的には嘘をつきません」


「知ってます」


「でも、本当のことを全部言うとも限りません」


「……それは、嘘じゃないんですか」


「違いますよ」


 楓さんは、はじめてこちらを見た。


「本当のことを半分だけ言うのは、嘘とは違います。もっと悪いです」


「なんでですか」


「聞いた方が、自分で残り半分を埋めてしまうので」


 背中が冷えた。七月の屋上で、はっきりと冷えた。


「天羽くんは今、こう思っていませんか。千夜ちゃんはお嬢様のために身を引こうとしている、と」


「……そう思っています」


「それが、天羽くんが自分で埋めた半分です」


「じゃあ、本当は」


「言いません」


 楓さんは立ち上がって、スカートについた埃を払った。


「ただ、これだけは言います」


「はい」


「あの子は、多分、今、自分の一生を賭けた計算をしています」


 蝉の声が、一段大きくなった。


「計算というのは、答えが出るまで人に見せられません。見せたら止められますから」


「……止めるべきなんですか」


「さあ」


 楓さんは屋上のドアの方へ歩き出した。そして、ドアノブに手をかけたところで、振り返らずに言った。


「私は、止められませんでしたので」


 音もなく、ドアが閉まった。俺は給水塔の影に、一人で残された。止められませんでした。過去形だった。


 誰を、いつ、何から止められなかったのか。俺には分からなかった。


 分からないまま、その日の午後、俺は一度も黒板を見なかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。