十二話
その日の帰り、悠真が俺の隣に並んできた。
昇降口を出たところで、西日がまともに顔に当たる。
「天羽」
「なんだよ」
「お前、なんかあっただろ」
俺は足を止めなかった。止めたら白状することになる。
「何が」
「柊さんな。最近、お前の方を全然見ねえんだよ」
「元々見ないだろ」
「見てたよ」
悠真は鞄を肩にかけ直した。
「一日一回な。授業と授業の間に、必ず一回。お前がノート出す時か、水筒開ける時。どっちかのタイミングで」
「……観察しすぎだろ」
「一年見てりゃ気づく」
こいつは軽薄なふりをして、目だけが異様にいい。
「それが、ここ十日はゼロなんだよ」
正確に数えられている。
「別に、何もない」
「そうか」
悠真はそれ以上聞かなかった。坂を下って、いつもの分かれ道まで来た。
「天羽」
「なんだ」
「柊さんってさ、多分、頼み方を知らないんだよ」
俺は足を止めた。
「どういう意味だ」
「してやる方はいくらでもできるけど、してくれって言えないタイプ。いるだろ、そういうやつ」
「……いるな」
「ああいうのはな、待っててもこっちに来ねえよ」
悠真は手を振って、反対方向へ歩き出した。
「じゃーな。今度、宿題見せろよ」
「見せない」
その背中を見送りながら、俺は考えていた。してくれ、と言えないタイプ。
三年間、この子が俺に何かを頼んだことがあっただろうか。
思い出そうとした。部屋に行く前に連れて行って欲しいと言ったこと。このまま動かないでいて欲しいと言ったこと。
小さいお願いはあった。でも、それは頼んだとは言えないほどの些細な願いだった。全部、何かのついでにできてしまう程度のことだ。
大きな頼みごとを思い出そうとしても、出てこなかった。
いや、正確には、一つだけあった。
三年前、床に手をついて、メイドをやらせてくださいと言った。
三年で、千夜の大きな頼みごとといえば、それ一回きりだった。
週末、俺は鷹司家に呼ばれて、行った。行ったという能動的な言い方よりも、断りきれずに行ってしまった、というのが正しいのかもしれない。
麗華が月曜からずっと言い続けて、水曜に招待状が届き、木曜に楓さんが「もう車を手配しましたけどね」と言い、金曜に担任まで「行ってやれ」と言った。周囲の女子は、「お似合いなのにね〜」と囁いた。悠真は相変わらず、肩を震わせて笑っていた。
外堀が学校ぐるみで埋まった瞬間だった。
土曜の朝、家の前に黒塗りの車が停まった。
「行ってきます」
「はい」
千夜は玄関で頭を下げた。
「湊様」
「なんだ」
「上着の裾が、少し折れています」
直された。指が背中に触れて、すぐ離れた。
「……行ってくる」
「いってらっしゃいませ」
額には、何も落ちてこなかった。
あの夜から、ずっと何一つもだ。
鷹司邸は、想像の三倍以上の広さだった。まず、門から玄関までが、車で二分かかった。途中に池があった。池に橋がかかっていた。橋の上を車で渡った。
「ようこそいらっしゃいませ、天羽さん!」
玄関の前に、麗華が立っていた。その後ろに、人が並んでいた。ざっと数える。十四人いる。
その場の全員が同じ制服を着ていた。黒のワンピースに白いエプロン。千夜が毎日着ているものと、ほとんど同じだった。
「本日はようこそお越しくださいました」
十四人が、一斉に頭を下げた。
角度が揃っていた。一度も乱れなかった。俺は、どう反応していいか分からなかった。
「あの、麗華さん」
「はい」
「毎回、これですか」
「まあ、いつもはもう少し多いのですけれど」
「……多い」
「本日は休みの者がおりますので」
そんな壮大な規模の話をやめてほしい。
「まあ、天羽さん」
「はい」
「実は千夜さんも、お誘いしたのですけれど」
その言葉に反応しそうになって、すぐ抑えた。
「ご用事があるとのことで」
「……そうですか」
「残念ですわ。三人でお茶をしたかったのに」
麗華は本当に残念そうだった。その顔を見ながら、俺は千夜のことを考えていた。用事。あの夜から千夜はずっと用事があると言い続けている。
「では、参りましょう」
案内された屋敷の中は、廊下がまっすぐに長かった。その廊下の両側に、使用人が立っていた。俺たちが通り過ぎるたびに、順番に頭を下げる。
一人、また一人。流れるように、規則正しく。三年間、俺の家では、それをたった一人がやっている。
八人掛けのテーブルで、二人分の食事を作って、一人分の返事を待って、一人で頭を下げている。俺は歩きながら、ずっとそのことを考えていた。
考えていて、初めて気づいた。千夜が図書室で読んでいた本のタイトルを。
『家事使用人の労務と契約』
「契約書がないというのは、いつでも終われるということです」
あの言葉が、この廊下の上に落ちてきた。
ここには、契約がある。十四人分の。そう思うと、何故か背中が冷えた。七月の冷房の効いた廊下だったからかもしれない。
俺は麗華の後ろを歩いていた。通されたのは、庭に面した部屋だった。窓が床から天井まであって、その向こうに芝生が広がっている。芝の向こうに木立があって、木立の向こうにまた芝がある。どこまでが庭なのか分からない。
紅茶が出てきた。ケーキも出てきた。皿の縁に金が入っていた。一口、紅茶を啜ってみる。今までに飲んだことのないほど、香りが立っていて、市販の茶葉とは違うものだと一瞬で舌が認識した。
「お口に合いますかしら」
「……とても美味しいです」
「よかったですわ」
麗華はソファの向かい側に座っていた。今日は制服ではなく、白いワンピースだ。彼女の雰囲気にとても似合っていて、制服の時より、少し大人びて見えた。
「天羽さん」
「はい」
「本日は、本当にありがとうございます」
「いえ」
「わたくし、お友達を家にお呼びしたのは、はじめてですの」
紅茶のカップを持つ手が、止まった。
「……はじめて?」
「はい」
「学校の友達は」
「小学校からずっと、家庭教師でしたので」
麗華は、自分のカップに視線を落とした。
「学校というところに通わせていただいたのは、この春からですの」
俺は何も言えなかった。
「祖父や父は反対いたしましたわ。危ないから、と」
「危ない」
「誘拐されるかもしれない、と申しておりました」
冗談ではなさそうだった。この家の規模なら、たしかにそういう心配は現実的なのだろう。
「それで、無理を通しましたの。生まれてはじめて、祖父に逆らいました」
「……すごいですね」
「三日、口をきいてもらえませんでしたわ」
麗華さんは、ふふ、と笑った。
「でも、この無茶が通ってよかったと思っていますの」
窓の外で、庭師が芝を刈っていた。遠すぎて音は聞こえない。
「天羽さん」
「はい」
「わたくし、来年には婚約者が決まりますの」
紅茶を、危うくこぼすところだった。
「……婚約」
「はい」
「来年って、高三ですよね」
「はい。祖父はもう三人ほど候補を挙げております」
規模の話ではなく、時代の話になってきた。この時代にそんな話が本当にあるとは。
「会ったことは」
「二人はございます。お一人はまだ」
「どうでしたか」
「皆様、良い方々でしたわ。とても丁寧で、賢くて」
麗華さんはカップを置いた。
「ただ、皆さま、わたくしを見ておられませんでしたの」
窓の外で、庭師が向きを変えた。
「鷹司家をご覧になっていました。わたくしは、その手前にいるだけで」
「……」
「慣れておりますのよ。生まれた時からそうですもの」
麗華さんは顔を上げた。そして、まっすぐ俺を見た。
「ですから、あの角で支えていただいた時」
「はい」
「天羽さんは、わたくしを見てくださったのだと思いましたの」
俺は、返す言葉を持っていなかった。
「そんな勝手な思い込みですわ。ごめんなさい」
「……いえ」
「でも、わたくし、はじめてでしたの。誰かにそう思ったのは」
紅茶が冷めていくのが分かった。俺はこの人のことを、何も知らなかった。毎朝一緒に坂を上って、毎日隣の席で弁当を食べて、それでも何も知らなかった。
明るくて、素直で、天然で、悪意なく、空気を読まない人。それだけだと思っていた。
それだけの人が、来年、顔を合わせた程度の何も知らない相手と婚約する。その話を聞いて、何故か、彼女のことをもっと知りたいと思った。
「あの、麗華さん」
「はい」
「その婚約って、断れないんですか」
「断れますわ」
「じゃあ」
「代わりに、自分で連れてこいと言われております」
麗華さんは、また笑った。今度の笑い方は、少しだけ硬かった。
「祖父はこう申しました。お前が自分で選んだ相手なら、会ってやらんこともない、と」
心臓が、鈍く鳴った。麗華さんは、まっすぐこちらを見ていた。その目に、悪意はひとつもなかった。純粋な好意だけが向いている。
計算も、駆け引きもなかった。だからこそ、逃げ場がなかった。
「天羽さん」
「……はい」
「……わたくし、天羽さんに、そばにいていただきたいのです」
生垣の陰で聞いたのと、同じ言葉だった。今度は、正面から聞いた。
家に帰ったのは、夕方の六時過ぎだった。車を角で降ろしてもらった。角から先は、自分の足で歩きたかった。
玄関のドアを開けると、廊下の照明はもう点いていた。
「おかえりなさいませ、湊様」
千夜が立っていた。深く頭を下げる。
「……ただいま」
「お荷物を」
鞄を取られた。上着を脱がされた。いつも通りだった。
「お夕食は、三十分後です」
「わかった」
「湊様」
「なんだ」
千夜は、上着をハンガーにかけながら言った。
「鷹司家は、いかがでしたか」
「……広かった」
「はい」
「門から玄関まで、車で二分かかった」
「そうですか」
「池があって、橋があった」
「はい」
千夜の手は止まらなかった。上着の肩の線を整えて、埃を払って、丁寧にクローゼットにかけた。
「使用人の方は」
その問いだけ、少しだけ早かった。
「……十四人いた」
「十四人」
「玄関に並んでた。今日は休みの人がいるから少ないって言ってた」
「そうですか」
千夜はクローゼットの扉を閉めた。閉めて、しばらく手を離さなかった。
「湊様」
「なんだ」
「その方たちは」
「うん」
「楽しそうでしたか」
奇妙な質問だった。その質問の意図は読めなかった。
「……分からない」
「はい」
「みんな同じ顔してた。頭下げる角度も、全員同じだった」
「そうですか」
千夜が、こちらを向いた。いつもの無表情の顔で。
「湊様」
「なんだ」
「お食事の準備ができましたら、お呼びします」
その日の夕食は、俺の好きなものだけが並んでいた。いつもより一品多かった。
「あーん」
「自分で」
「あーん」
「……はい」
口に入れられた。うまかった。うまいのに、今日の料理は、味の輪郭がぼやけていた。
「湊様」
「なんだ」
「鷹司様は、良い方でしたか」
「……良い人だった」
「はい」
「思ってたより、ずっと」
「そうですか」
千夜は、次の皿を持ち上げた。
「それはよかったです」
その声に、抑揚はなかった。俺は出会ってからこの子の無表情を十種類程度は見分けられるようになった。
特に分かりやすいのは、嬉しい時、楽しい時、悔しい時、悲しい時、嫉妬してる時。それらは、すぐに見分けられた。
でも、この時の顔が、どれに当たるのか。俺には、分からなかった。
千夜が初めて分類できない顔を見せた夜だった。




