十三話
夏祭りの話が出たのは、七月の終わりだった。
「土曜に、川原で花火が上がりますの」
麗華さんが教室で言った。
「まあ、正確には花火大会ではございませんの。町内会のお祭りだそうで」
「知ってます。毎年やってます」
「行ったことがおありですの?」
「小さい頃に何度か」
正確には、三年前までは、毎年行っていた。千夜と二人で。
「わたくし、お祭りというものに行ったことがございませんの」
またそれか。この子は「はじめて」の在庫が無数にある。
「では、参りましょう」
「決定が早い」
「思い立ったらすぐですわ」
「知ってます」
「千夜さんもお誘いいたしますわ」
俺は顔を上げた。麗華は満面の笑みだった。
「三人で参りましょう。楽しみですわ」
その日の夜、家に帰ってその話をすると、千夜は即答した。
「伺うと、もうお返事しました」
「早いな」
「昼休みに、お誘いいただきましたので」
千夜は俺の湯呑みに麦茶を注いだ。
「湊様」
「なんだ」
「浴衣を、ご用意しました」
「……浴衣?」
「鷹司様が、浴衣を着るのだと、おっしゃっていましたので」
麦茶の表面が揺れた。
「別に鷹司さんだけが着ればいいだろ。俺は普通の服で」
「湊様も、お召しになってください」
「なんで」
「その方が、揃いますので」
理由が事務的だった。事務的なのに、いつもの事務的とは違った。
いつもの千夜なら、こう言う。私が着せたいので、と。
金曜の夜、千夜は俺の前に座って、紙を広げた。リビングのテーブルの上だ。窓は開けてある。虫の声が入ってくる。
「なんだこれ」
「明日の予定です」
見ると、時系列で書いてあった。集合時刻、屋台の並び順、花火の開始時刻、混雑のピーク、最寄りのトイレの位置。
「細かすぎるだろ」
「初めての方には、情報が必要ですので」
「鷹司さんのことか」
「はい」
千夜はペンを持って、紙の余白を指した。
「いくつか、お伝えしておきます」
「何を」
「鷹司様のことです」
俺は麦茶に口をつけた。つけて、飲み込めずに口の中に留めた。
「あの方は、褒められると耳が赤くなります」
「……そうなのか」
「顔ではなく、耳です。分かりにくいので、見ておいてください」
「なんで知ってる」
「観察しました」
「いつ」
「毎日です」
この子は本気だ。本気で、俺に他人の観察結果を引き継いでいる。
「甘いものがお好きです。特に、果物です」
「果物」
「桃と、苺です」
「恐らく、人混みで手を離すと、迷子になります」
「子どもか」
「方向感覚が壊滅的です。校舎で三度、迷っておられました」
「見てたのか」
「見ていました」
千夜はペンを置いた。
「以上です」
「……なあ、千夜」
「はい」
「千夜のことを観察していいか」
千夜の手が、止まった。
「……だめです」
「なんで」
「観察されると、困りますので」
「何が困るんだよ」
千夜は、紙をきれいに二つ折りにした。折って、俺の前に置いた。
「湊様が、余計なものを見つけてしまうので」
俺はその紙を受け取った。受け取って、ポケットに入れた。入れる時、指が震えた。理由は自分でも分からなかった。
土曜の夕方、俺は自分の部屋で浴衣を着せられていた。窓の外はまだ明るい。日が長い季節だ。七時を過ぎても、空の端に橙色が残っている。蝉の声が夕方の分に切り替わっていた。
「腕を上げてください」
言われた通りにする。紺の生地が肩にかかった。俺が最後に着たやつだ。まだ持っていたのか。
「背が伸びましたね」
「言ってたな、それ」
「二センチです」
「知ってる」
「三センチになりました」
「伸びたのか」
「伸びました」
腰帯が回された。千夜の手が、俺の腰の後ろで結び目を作っている。顔が近い。息が触れそうな距離だ。
「自分でできる」
「存じております」
「じゃあ」
俺は、そこで言葉を止めた。三年間、この会話には決まった続きがあった。
私が着せたいので。
千夜は、その続きを言わなかった。
「……鷹司様に、失礼のないように」
そう言った。帯が締まった。俺は天井を見なかった。
「千夜」
「はい」
「千夜は」
「はい」
「浴衣、着ないのか」
千夜の手が止まった。
「……着ます」
「そうか」
「鷹司様の着付けもありますので、先に伺います」
「一緒に行く」
「行けません」
「なんでだよ」
「一緒に行くと、鷹司様が気を遣われます」
言い方が滑らかすぎた。用意していた答えだ。この子は今日のために、答えを全部用意している。
「湊様」
「なんだ」
千夜は帯の位置を直して、一歩下がった。そして、俺を上から下まで眺めた。三年間、毎朝やっている動作だ。
「よくお似合いです」
「浴衣だぞ。日本中の男が着てる」
いつもの返しをした。いつもなら、こう返ってくるはずだった。私が着せたので、世界で一着だけです。
千夜は、少しだけ目を伏せた。
「……はい。よくお似合いです」
同じ言葉を、二回言った。俺は、その時ようやく気づいた。この子は俺に返す言葉を、意図的に全部削っている。
それがどうしても納得できなかった。
川原には、想像の三倍の人がいた。土手の上に屋台が並んで、電球の光が等間隔に続いている。焼きそばと、たこ焼きと、りんご飴の匂いが混ざって、風向きが変わるたびに順番が入れ替わる。
川面に、屋台の光が細長く伸びていた。
「天羽さん!」
麗華が手を振っていた。
淡い水色の浴衣だった。白い朝顔の柄。髪は結い上げられて、うなじが出ている。似合っていた。文句なしに似合っていた。
「まあ、天羽さん、浴衣ですのね」
「……はい」
「素敵ですわ」
「どうも」
俺は、麗華の後ろを見た。千夜が立っていた。
濃い藍色の浴衣だった。柄はほとんどない。白い帯だけが目立つ。
髪は、下ろしていた。祭りの日に髪を下ろすのは、動きにくい。動きにくいのを、この子が知らないはずがない。
それでも、下ろしていた。
「……お前」
「湊様」
千夜が頭を下げた。
「本日はよろしくお願いいたします」
他人行儀だった。三年前、この川原を二人で歩いた時とは、まるで違う言葉だった。
「千夜さんが着付けてくださいましたの」
麗華が袖を広げてみせた。
「わたくし、帯というものをはじめて締めましたわ。苦しいのですね」
「慣れます」
「千夜さんは慣れておられますの?」
「はい」
「まあ、器用ですのね」
麗華が千夜の手を握った。この人は本当にすぐ手を握る。千夜は振りほどかなかった。
「では、参りましょう。天羽さん、あちらの屋台は何ですの?」
「射的です」
「射的」
「銃で撃って、当たったら景品がもらえます」
「まあ、危なくはありませんか?」
「コルク弾です」
麗華が目を輝かせて歩き出した。俺はその後ろを歩いた。千夜は、さらにその後ろを歩いていた。
三歩、下がって。三年間、通学路でやってきた距離だ。祭りの日に、それをやる必要はどこにもなかった。射的で、麗華は十発撃って十発外した。
「まあ!」
「難しいんですよ、これ」
「天羽さんはお撃ちになりませんの?」
「やりますよ」
俺は五発撃って、二発当てた。小さな熊のぬいぐるみが落ちた。
「まあ、すごいですわ!」
「昔、よくやったので」
三年前まで。この川原で。隣にいる子の相手として。俺はぬいぐるみを受け取って、少し迷った。
迷って、麗華に差し出した。
「どうぞ」
「まあ、わたくしに?」
「はい」
「よろしいのですか」
「はい」
麗華はぬいぐるみを両手で受け取って、大事そうに胸に抱えた。
「大切にいたしますわ」
俺は千夜を見た。千夜は、屋台の光の外に立っていた。無表情だった。いつもの無表情だった。
でも、その手は、浴衣の袖口を、強く握っていた。
「千夜さんも、お撃ちになりません?」
「いえ」
「まあ、なぜですの」
「私は、下手ですので」
嘘をついた。三年前、この子は八発撃って七発当てた。俺より上手かった。
……最近、この子は嘘をつくことを覚えた。今までつかずに貯めていた分を解放するように。
「ですが、千夜さんもせっかくですから」
「いえ」
千夜は、首を振った。
「私は、結構です」
「まあ」
「お二人で、回ってきてください」
麗華さんが首を傾げた。
「千夜さんは?」
「私は、少し休んでいます。人が多くて」
「まあ、お加減が悪いのですか」
「いえ。すぐに戻ります」
千夜は頭を下げて、人混みの中に歩いていった。藍色の背中が、屋台の光の間に消えていく。
「千夜さん、大丈夫でしょうか」
「……たぶん」
たぶん、大丈夫ではない。だが、追いかけていいのかも分からなかった。
「では、天羽さん。あちらのお店は何ですの?」
「あれは、金魚すくいです」
「金魚を、すくうのですか」
「はい」
「まあ、なんて風流な」
麗華は紙のポイを渡されて、真剣な顔で水面に向かった。
一匹目。破れた。二匹目。破れた。三匹目。ポイを水に落とした。
「まあ」
「そんなに深く入れちゃだめです」
「では、どうすれば」
「斜めに、すっと」
「斜めに、すっと、ですわ」
麗華は四匹目で、ようやく一匹すくった。
「まあ! 天羽さん、獲れましたわ!」
「よかったですね」
「この子、お名前をつけてもよろしいですか」
「どうぞ」
「では、湊にいたしますわ」
俺は袋を落としかけた。
「なんでですか」
「教えていただいたので」
「金魚に人の名前つけないでください」
「まあ、なぜですの」
「なんとなくです」
「では、カタカナでミナトさんにいたしますわ」
「変わってない」
麗華は楽しそうだった。本当に、心の底から楽しそうだった。俺はその隣を歩きながら、ずっと後ろを気にしていた。
戻ってこなかった。十分。二十分。三十分。花火が上がりはじめた。一発目が空で開いた瞬間、川原の人が全員、同じ方向を向いた。
「まあ!」
麗華が空を見上げていた。光が、その横顔を白く照らした。
「天羽さん、綺麗ですわ」
「……はい」
俺は空を見ていなかった。人混みを見ていた。藍色を、探していた。見つからなかった。
二発目が上がった。三発目が上がった。
「天羽さん」
麗華の声がした。俺は振り返った。麗華は、空を見上げたままだった。
「行ってさしあげてくださいませ」
「え」
「千夜さんです」
花火の音が、遅れて届いた。
「わたくし、ずっと気になっておりましたの」
「……あの」
「大丈夫ですわ」
麗華は、こちらを向いて微笑んだ。その笑顔が、いつもより少しだけ寂しかった。
「わたくし、鈍いのだと思われているでしょうけれど」
「……そんなことは」
「ございますわ。自覚しております」
麗華はぬいぐるみを抱え直した。
「でも、あれだけは分かりましたの」
「何がですか」
「千夜さんのお顔です」
四発目が上がった。
「わたくしを見ておられる時のお顔と、天羽さんを見ておられる時のお顔が、違いますもの」
俺は、何も言えなかった。
「行ってさしあげて。わたくしは、楓を呼びますので」
「……すみません」
「謝らないでくださいませ」
麗華は、屋台の方を指した。
「代わりに、ひとつだけお願いがございますわ」
「なんですか」
「明日、学校、今日のことを聞かせてくださいませ」
「……はい」
「必ずですわよ」
「天羽さん」
呼び止められた。振り返ると、麗華さんは空を見上げたままだった。
「わたくし、諦めたわけではございませんわ」
花火の光が、その横顔を照らした。
「今日は、譲ります。それだけですわ」
「……はい」
「明日からは、また参ります」
「知ってます」
「まあ、失礼な」
麗華が笑った。その笑い方が、この夜で一番美しかった。
俺は走り出した。背中で、五発目が上がった音がした。




