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氷の柊さんは俺の前でだけ甘い  作者: 瑠璃色に輝く希望
三章「使用人の柊さんは一歩下がる」
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十四話

 屋台の列を抜けると、光が急に減った。土手を下って、川べりの草の上を歩く。足元は暗い。花火が上がるたびに、一瞬だけ地面の形が見える。


 人が減っていく。祭りの音が、背中の方に遠ざかっていく。


 三年前、俺たちはこの道を歩いた。人混みが苦手だと言って、この子が先に川べりへ降りたのだ。俺はついていった。二人で草の上に座って、花火を最後まで見た。


 その場所を、俺は覚えていた。橋の下だ。橋脚のところだけ、草が刈られていて座れる。


 走った。


 浴衣で走るものではない。裾が絡んで、二度転びかけた。橋の影が見えてきた。


 そこに、藍色があった。千夜が、膝を抱えて座っていた。川の方を向いている。花火が上がると、その背中の輪郭だけが白く浮かんだ。


「千夜」


 肩が、わずかに動いた。振り返らなかった。


「……湊様」


「探した」


「なぜですか」


「なぜって」


「鷹司様は」


「花火見てる」


「お戻りください」


「戻らない」


 俺は草の上に座った。三年前と同じ場所に、三年前と同じように。隣に座ると、川の音が聞こえた。祭りの音の下に、ずっと流れていた音だ。


 三年前も、同じ音を聞いた。あの時、この子はまだ俺のことを湊くんと呼んでいた。浴衣も、今日と同じ藍色だった。


 同じものを着て、同じ場所に座って、呼び方だけが変わっている。


 三年で変わったものは、それだけのはずだった。それだけのはずが、今、隣にいる距離が、あの頃より遠い。


 物理的な距離は同じだ。手を伸ばせば届く。届くのに、遠かった。


「湊様」


「なんだ」


「私は、下がると申しました」


「聞いた」


「聞いて、なぜ来られたのですか」


「下がるって言われて、はいそうですかって残れるかよ」


「残ってください」


「無理だ」


「無理ではありません」


「無理なんだよ」


 六発目が上がった。川面に光が落ちて、水の上で崩れた。千夜の横顔が、一瞬だけ見えた。


 泣いていなかった。目も赤くなかった。いつもの無表情だった。


 それが、俺にとって一番堪える。


「……泣けよ」


 千夜が、はじめてこちらを向いた。


「なんですか」


「泣いていいだろ、こんな時くらい」


 千夜は、少し黙った。それから、静かに言った。


「泣き方を、忘れました」


 川の音がした。


「三年前に、全部使ったので」


 俺は、何も言えなかった。三年前のあの日。


 あの夜、この子は泣いた。多分、一生分泣いた。


 その時、泣いてもいいと言ったのは、他でもない俺だった。それから三年、俺はこの子が泣くところを一度も見ていない。


「千夜」


「はい」


「なんで今日、髪を下ろしてる」


 千夜の手が、袖口を握った。答えなかった。


「下ろしたままの日は、甘えたい日だろ」


「……よく、ご存じですね」


「ずっと見てる」


「はい」


「なのに、今日、わざわざ、髪を下ろしてきて、下がりますって言うのか」


 七発目が上がった。千夜は膝に顔を伏せた。


「……ずるいです」


「どっちがだよ」


「湊様です」


「俺は何もしてない」


「何もしないのが、ずるいのです」


 そこで、この子の声が、はじめて崩れた。崩れたというより、輪郭が滲んだ。


「三年間、何も言わずに、ずっと優しくして」


「千夜」


「私が勝手に決めた役を、一度も否定なさらないで」


「否定しただろ。やめろって言った」


「言われました。でも、一度だけです」


「一度じゃ足りないのか」


「足りません」


 千夜が顔を上げた。


「三年です。この三年間、あの夜までの間、一度も言われませんでした」


 言葉が、刺さった。そうだ。俺は言わなかった。三年間、一度も。


 この子がメイド服を着るのを見て、止められなくて、そのまま三年、甘やかされ続けた。やめろと言ったのは、この子が一番言われたくないタイミングの、たった一度だけだ。


「……悪かった」


「謝らないでください」


「悪かった」


「謝られると、私が悪者になります」


「お前は悪くない」


「……私が悪いです」


 千夜は、川の方を向いた。八発目が上がった。連続で上がりはじめている。終盤だ。


「湊様」


「なんだ」


「私は、鷹司様のお願いをお受けしました」


「聞いた」


「お受けした理由を、お話ししてもいいですか」


 俺は千夜を見た。この子は川を見ていた。光が水面で割れて、その顔を照らしては消えた。


「鷹司様は、来年、婚約なさいます」


「……聞いた」


「ご自分で相手を連れてくれば、断れるそうです」


「それも聞いた」


「あの方には、時間がありません」


 千夜の声は、いつもの温度に戻っていた。事務連絡と同じ温度だ。


「あの方は、生まれてはじめて、自分で何かを選ぼうとしています」


「……そうだな」


「私は、それを手伝いたいと思いました」


「本当か」


「本当です」


 嘘ではない、と思う。この言葉はそう感じた。だが、屋上で言われた言葉が、頭の中で鳴っていた。


 本当のことを半分だけ言うのは、嘘とは違います。もっと悪いです。


「千夜」


「はい」


「それだけか」


 千夜の肩が、一度だけ動いた。


「……それだけです」


「本当に?」


「はい」


 九発目。十発目。空が明るくなって、川原の草の形が全部見えた。俺は、この子の横顔を見た。


 無表情だった。完璧な無表情だった。その完璧さが、答えだった。


「……分かった」


「はい」


「もう聞かない」


「はい」


「ただ、ひとつだけ言う」


 俺は立ち上がった。立ち上がって、この子の前に手を差し出した。 


「戻るぞ」


 千夜が、俺の手を見た。しばらく見て、それから、ゆっくりと手を伸ばした。指が触れた。


 三年前と同じだ。この場所で、この子の手を引いて立たせた。


 握った手は、冷たかった。七月の夜なのに、冷たかった。


「湊様」


「なんだ」


 千夜が立ち上がって、俺の正面に立った。背が低い。俺の肩より少し下だ。三センチ分、確かに差が広がっている。


「ひとつ、お伺いしてもいいですか」


「どうぞ」


 最後の花火が上がった。一番大きいやつだ。空が全部白くなって、川も、草も、この子の顔も、全部一度に照らされた。


 その光の中で、千夜は言った。


「もし湊様が、鷹司家に入られたら」


「……なんだよ、それ」


「私も、連れていってくださいますか」


 音が、遅れて届いた。腹に響く音だった。俺は、その質問の意味を考えた。


 考えて、こう思った。


 この子は、俺が誰と一緒になっても、そばにいるつもりでいるのだと。


 三年間そうしてきたように、これからもそうするつもりなのだと。


「……何言ってんだよ」


「お答えください」


「連れていくに決まってるだろ」


 千夜の手に、力がこもった。


「本当ですか」


「本当だ」


「約束していただけますか」


「する」


 千夜は、深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


 そして、顔を上げて、こう言った。


「使用人は、主について行くものですので」


 俺は、その言葉を、忠誠だと思った。三年間の献身の、いちばん美しい形だと思った。


 この子は、俺がどこへ行っても、ついてくると言っている。


 誰と一緒になっても、その家の使用人として、隣にいると言っている。


 三年間ずっとそうしてきたように。これからもずっと、そうするつもりで。なんて健気で、なんて損な生き方だろうと思った。


 だから、笑って答えた。


「使用人じゃなくても、だ」


 千夜は、答えなかった。答えずに、俺の手を握ったまま、土手の方へ歩き出した。


 握った手は、まだ冷たかった。花火は終わっていた。人々が帰りはじめて、屋台の灯りが一つずつ消えていく。


 土手を上がる途中で、千夜が一度だけ足を止めた。振り返って、川の方を見ている。


「どうした」


「……いえ」


「なんかあるか」


「三年前も、ここで花火を見ました」


「覚えてるよ」


「湊様は、七発目で寝ておられました」


「寝てない」


「寝ておられました」


「……寝てたかもな」


 千夜は、少しだけ川の方を見ていた。それから、俺の手を握り直した。


「湊様」


「なんだ」


「今日は、起きていてくださって、ありがとうございました」


 意味が分からなかった。分からないのに、その言い方が、なぜか別れの挨拶みたいに聞こえた。


 土手を上がると、祭りの明かりはもうほとんど消えていた。屋台のおじさんたちが、手際よく骨組みを畳んでいる。地面に落ちた紙皿を、風が少しだけ動かしていた。


 家までの道を、俺たちは並んで歩いた。いつもの角に来ても、千夜は三歩下がらなかった。祭りの日だけは、そうしていいことになっているらしい。


 誰が決めたのかは知らない。多分、この子が今夜だけ、自分で決めた。


「湊様」


「なんだ」


「明日から、また下がります」


「……知ってる」


「はい」


「一日くらい、休めよ」


「休みません」


「頑固だな」


「はい」


 握った手は、家に着くまで、離れなかった。玄関の前で、千夜はようやく手を放した。放して、深く頭を下げた。


「おかえりなさいませ、湊様」


 俺は何も気づいていなかった。


 この夜、俺がした約束が、何を意味しているのか。

 

 気づくのは、まだまだ後のことだった。

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