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氷の柊さんは俺の前でだけ甘い  作者: 瑠璃色に輝く希望
幕間II「完璧な使用人の早乙女さんは数えない」
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幕間II

 柊千夜という子を、私は三年前から知っています。


 天羽家のご両親が海外へ発たれる前、早乙女の家に依頼がありました。引き取った娘が家事を覚えたがっている、きちんとした者に習わせたい、と。


 私は当時十五歳でしたけれど、実務はもう七年やっておりましたので、うちの母が私を指導係として、出しました。


 半年間、週に三度、私の家に彼女は来ました。


 正直に申し上げますと、最初は気が進みませんでしたけどね。事情のあるお子さんの相手というのは、教えること以外に気を遣うものですから。


 けれど、初日で考えを改めました。あの子は、覚えるのが異常に早かったのです。


 包丁の角度も、洗い物の順序も、上着の受け取り方も、一度見せれば、次には形になっていました。三度目には、私より丁寧になっていました。


 十四の子の吸収速度ではありません。私は嬉しいと思うよりも先に、少し怖くなりました。


 これは才能ではなく、必死さだと分かったからです。ある日、洗濯物を畳みながら、私は聞きました。


 なぜそんなに急ぐのですか、と。


 千夜ちゃんは手を止めずに、こう答えました。早く一人前になれば、置いていただける理由になります。


 十四歳の子が言う台詞ではありません。私は畳んでいたタオルを一度置いて、こう言いました。


 置いてもらう理由なんて、いりませんよ。


 千夜ちゃんは、はじめて手を止めて、私を見ました。


 そして、こう言ったのです。


 早乙女さんは、いなくなられたことがないから、そう言えるのだと思います。


 私は、何も返せませんでした。


 十四の子に、十五の私が言い負かされました。あの日から、私はこの子に何かを教える時、必ず理由まで教えるようにしました。手順だけ渡すと、この子はそれを鎧にしてしまうからです。


 半年で、私が教えられることは全部渡しました。最後の日、千夜ちゃんは玄関で深く頭を下げて、こう言いました。


 いつか、恩を返します。


 律儀な子です。律儀すぎて、その律儀さが自分を縛っていることに、ずっと、気づいていませんでした。


 半年の間に一度だけ、あの子が失敗したことがあります。


 卵焼きです。


 奥から二回、手前で一回止めて、また奥から。私の巻き方です。あの子はそれを三日で完璧にしました。


 けれど、四日目に、形が崩れました。


 理由を聞くと、湊様が今日は疲れているようなので、甘くしたかったのです、と言いました。


 砂糖を足すと、卵の固まり方が変わります。だから崩れたのです。


 私は、そこで教え方を変えました。


 甘くしたいなら、火を弱くしなさい。それだけです。


 あの子は、その日から一度も失敗していません。三年経った今も、あの卵焼きは私の巻き方のままです。


 先日、天羽くんのお弁当を見て、すぐに分かりました。


 三年、崩していないのです。私が渡した形を、一度も崩さずに持っている。


 律儀というのは、怖いものですね。言われたことを忠実に保ったままにしてしまうのですから。


 三年ぶりに会ったあの子は、髪の結び方だけが変わっていました。


 昔はもっと下手で、もっと緩かったのです。今はきつい。うなじが出るほどきつい。


 あれは、何かを飲み込むための癖です。私も昔やっていましたので、見れば分かります。


 そして先週、あの子は私のところに来ました。放課後の渡り廊下でした。


 楓先輩、と呼ばれました。三年ぶりの呼び方でした。


 お伺いしたいことがあります、と。何ですか、と私は聞きました。


「鷹司家の使用人の契約について、教えてください」


 私は千夜ちゃんの目をじっと見つめました。


 雇用の形態、勤続の年数、住み込みの条件、主が家庭を持たれた場合に使用人がどう扱われるか。


 質問は全部、具体的でした。思いつきで聞いている質問ではありません。あの子は、答えの形をもう決めていて、そこに数字を埋めにきていました。


 私は、全部答えました。止めるべきだったかもしれません。止めませんでした。


 最後に、あの子は言いました。


 もし主が結婚された場合、それまで仕えていた使用人は、そのまま同じ家に残れますか。


 残れます、と私は答えました。契約が続く限りは、と。


 千夜ちゃんは頷きました。


 無表情でしたけれど、あの時のあの子の目は、はっきり明るかったのです。答えが合っていた人間の目でした。


 私の母は、鷹司の先代にお仕えしていました。


 三十年です。母は最後まで、旦那様のそばにおりました。奥様がいらしても、お子様が生まれても、ずっとです。


 母は幸せだったと思います。本人がそう言っていましたので。ただ、私は、母が夜中に台所で一人で立っているのを、何度も見ています。


 何をしているのか聞いたことがあります。明日の献立を考えている、と言われました。


 母はあまり嘘をつく人ではありませんでした。でも、本当のことを全部言う人でもありませんでした。


 私が十の時、母に聞きました。


 お母さんは、旦那様のことが好きなの、と。今思えば、母は父と結婚しているですから、言うべき言葉ではなかったのだと思います。


 けれど、母は、笑って答えました。


 好きという形にしてしまうと、いつか終わってしまうでしょう。


 私はその時、意味が分かりませんでした。今は分かります。


 分かった上で、私も同じ家に入りました。止められなかったのです。母のことも、自分のことも。


 だから、私は、あの子のことも、多分、止められません。


 代わりに、こう聞きました。


 千夜ちゃん。あなたが行こうとしている道は、私が知っている道ですけどね。


 あの子は、驚きませんでした。存じています、と言いました。


 私は聞きました。行けると思いますか、と。


 あの子は、少し黙りました。それから、聞き返してきました。


 行けますか。行けますよ、と私は答えました。


 ずっと隣にいられます。朝も、夜も、何十年も。誰よりも近くで、誰よりも長く。


 私は、そこで一度言葉を切りました。切って、続けました。


 ……ただ、隣にいるだけですけどね。


 千夜ちゃんは、まっすぐ私を見ていました。そして、こう言いました。


 それで、十分です。私は、そう言うだろうと思っていました。思っていたのに、実際に聞くと、少し息が詰まりました。


 十分ではありません。十分ではないことを、私は知っています。母も知っていました。知っていて、三十年やったのです。


 母は何かを諦めて、父と結婚して、私を産んで、それでも、旦那様と一緒にいた。


 それはきっと幸せなことだったのでしょう。けれど、それは違うのです。決定的に違うのですよ。


 でも、それをこの子に言葉で伝える方法を、私は持っていません。痛みというのは、経験した者にしか翻訳できないのです。


 別れ際に、あの子は一度だけ振り返りました。


 楓先輩、と呼ばれました。はい、と答えました。


 先輩は、後悔しておられますか。


 私は、少し考えるふりをしました。考えるまでもない質問でしたけれど、即答すると嘘に聞こえますので。


 していませんよ、と答えました。あの子は、頷いて帰っていきました。


 嘘です。今日の私の、唯一の嘘です。


 私が千夜ちゃんを止めない理由を、書いておきます。


 ひとつは、私がお嬢様に仕えているからです。お嬢様は、生まれてはじめて自分で何かを選ぼうとしておられます。あの方の願いを妨げることを、私はしません。それが私の仕事です。


 もうひとつは、私が止めても意味がないからです。止められて引き返す人間は、そもそもそこまで行きません。


 そして三つ目。これが本当の理由ですけどね。


 天羽くんという人がいるからです。


 あの子はまだ、何も気づいていません。鈍いというより、あの子は千夜ちゃんを善良だと信じすぎています。信じているから、悪い方向に想像が働かないのです。


 ですが、あの子は逃げません。ネクタイの結び方を指摘した時、あの子は青くなりましたけれど、目はそらしませんでした。


 屋上で、私が千夜ちゃんのことを聞いた時、あの子は答えたくないことを正直に答えました。


 そして、この前は、川原に走っていきました。お嬢様を置いて、走っていったのです。


 あれを見た時、私は少し賭けてみようと思いました。


 私の母を止められる人は、いませんでした。私を止める人も、いませんでした。


 でも、千夜ちゃんには、いるかもしれません。


 まだ間に合うかどうかは、分かりませんけどね。


 天羽くん。


 あなたが気づくまでに、あと何日ありますか。私は数えていません。


 数えるということは、それだけ、怖いことなのですよ。

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