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十五話

「湊様。九時です」


「……九時か」


「はい。夏休みですので、一時間半遅らせました」


「相変わらず、素晴らしい気遣いだな」


「起きられますか」


「起きられる」


「そうですか」


「では、剥がします」


「聞いた意味は」


 視界が明るくなった。八月の光は、六月とは違う。白くて、重い。窓の外の庭で、蝉がもう本気を出している。


 千夜はいつも通り、無表情で立っていた。髪は、下ろしたままだった。祭りの夜から、この子はずっと下ろしている。


「朝食は、冷やし中華です」


「朝から?」


「昨夜、食べたいと」


「言ってないぞ」


「テレビで映った時に、三秒見ておられました」


 観測されている。秒単位で観測されている。俺の生活は、この子の記録の中で存在している。


「千夜」


「はい」


「今日、予定は」


「午後から、鷹司様とお約束があります」


 少しだけ気が重くなった。別に麗華と水族館に行くことが嫌なわけではない。その予定を組まれていたという事実が、少しだけ重かっただけだ。


「そうか」


「はい。水族館です」


「……水族館」


「鷹司様が、行ったことがないと」


 ……またそれか。「はじめて」があまりにも多すぎるな、あの令嬢は。


「お前も行くのか」


「私は、途中までです」


「途中で帰るのか」


「はい」


「なんで」


「用事がありますので」


 都合の良い用事だ。目的を果たすための用事ではなく、用事を作るのが、彼女の目的なのだから。目的と手段が入れ替えられている。


 水族館は、涼しかった。外は三十五度で、館内は二十四度だ。入った瞬間に眼鏡が曇る人が続出していて、麗華もそのうちの一人だった。


「まあ、見えませんわ」


「眼鏡かけてましたっけ」


「今日だけですの。日差しが強うございましたので」


 サングラスだった。館内でサングラスをかけている令嬢が、曇って何も見えなくなっている。


 隣で千夜が、無言でハンカチを差し出した。


「まあ、ありがとうございます」


「拭いてください」


「千夜さんは、いつも何でも持っておられますのね」


「持っています」


「まあ、心強い」


 千夜は麗華のサングラスを受け取って、丁寧に拭いて、返した。その手つきは、三年間、俺のために何かを拭いてきた手つきと同じだった。弁当箱や手、口元、それらを拭いてきた手つきだ。


 大水槽の前で、麗華が足を止めた。青い光が、館内の床にゆらゆらと落ちている。


「まあ」


 イワシの群れが、水槽の中を回っていた。何千匹といる。全部が同じ方向を向いて、同じ速度で泳いでいる。


「揃っておりますのね」


「そうですね」


「どなたかが指示しておられるのでしょうか」


「してないと思いますよ」


「では、なぜ揃うのでしょう」


「……なんででしょうね」


 俺は答えられなかった。隣で、千夜が静かに言った。


「はぐれると、食べられるからです」


 麗華が振り返った。


「まあ」


「群れから離れた個体から、順に狙われます。ですから、離れません」


「まあ、なんて怖いお話」


「はい」


 千夜は水槽を見ていた。青い光が、その横顔を照らしていた。


「離れないというより、離れられないのだと思います」


 俺は、その横顔を見ていた。見ていて、何か言おうとして、言葉が見つからなかった。


「千夜さん」


「はい」


「お魚に、お詳しいのですね」


「調べました」


「まあ、いつ」


「昨日です」


 麗華が、目を丸くした。


「わたくしのために?」


「はい」


「まあ」


 麗華は両手で口元を押さえた。嬉しそうに目を輝かせて。


「千夜さんは、本当にお優しいですわ」


 千夜は、頭を下げた。


「いえ」


 その一言に、抑揚はなかった。感情の分類ができない無表情だ。俺には、まだそれが何を意味しているのか分からなかった。


 三時過ぎに、千夜は帰った。


「では、失礼します」


「まあ、もうお帰りですの?」


「用事がありますので」


「残念ですわ。イルカがまだですのに」


「お二人で、ご覧になってください」


 千夜は俺の方を見なかった。見ないまま、頭を下げて、出口の方へ歩いていった。


 黒いワンピース。私服だ。制服でもメイド服でもない、いつもの私服。


 三年間、この子の私服はほとんど変わらない。黒か、紺か、藍色。彼女は明るい色を持っていない。


「天羽さん」


「はい」


「参りましょうか」


 イルカショーは、よくできていた。麗華は最前列で水をかぶって、悲鳴を上げて、それから大笑いした。濡れた髪を拭きながら、まだ笑っていた。


「まあ、こんなに濡れるものですのね」


「最前列は、そういうものですから」


「知っていて座らせましたのね?」


「言いましたよ、濡れますよって」


「聞いておりませんでしたわ」


「じゃあ、聞いてなかっただけですね」


「まあ、失礼な」


 笑っていた。この人は、よく笑う。笑うことに躊躇がない。そして俺は、その顔を見ながら、水槽の前の別の横顔を思い出していた。


 離れられないのだと思います。千夜は、あの時、何の話をしていたんだろう。八月の第二週に入って、千夜の様子が変わった。


 正確には、精度が落ちた。月曜、味噌汁が塩辛かった。火曜、洗濯物が一枚、干されずに洗濯機の中に残っていた。


「干されてなかった」


「……申し訳ありません」


「別に責めてない」


「また洗って、干しますね」


「いや、もうだいぶ、くたびれていたし、あのTシャツは捨てるよ」


「では、新しいTシャツを買っておきます」


 その晩、千夜は台所に立ったまま、しばらく動かなかった。背中が、いつもよりまっすぐだった。まっすぐすぎた。


 音を立てて、皿が割れた。


 洗い物をしていた千夜の手から、俺の茶碗が落ちた。音がして、破片が飛んだ。千夜が茶碗のかけらを拾い集めている。


「……申し訳ありません」


「怪我は」


「ありません」


「見せろ」


「ありません」


「見せろって」


 手を取った。親指の付け根が切れていた。血が出ていた。


「ないって言っただろ」


「かすり傷ですので」


「かすり傷じゃないだろ」


 俺は救急箱を取ってきて、この子の手を洗って、消毒して、絆創膏を貼った。貼りながら、思った。


 ……はじめてだ。この子が家事でこんな失敗するのを、俺は三年間、一度も見たことがなかった。


「千夜」


「はい」


「体調悪いのか」


「いえ」


「寝てないだろ」


「寝ています」


「何時間」


 千夜は答えなかった。この子は聞かれたことには必ず答えた。答えないことなんて、無かった。


「……千夜」


「湊様」


「なんだ」


「来週の火曜は、ご予定を空けていただけますか」


「予定?」


「はい」


「なんで」


「鷹司様との約束を、その日だけ入れないでいただきたいのです」


 俺は、絆創膏を貼る手を止めた。


「なんでだよ。千夜がずっと入れてただろ、予定」


「……はい」


「なんで、その日だけ」


 千夜は、俺の手の下で、自分の手を握った。


「その日は、私が、フォローできませんので」


 八月十二日。俺は、その日付を知っていた。ずっと知っていた。知っていて、でも、一度も口に出したことがなかった。


「……ああ」


「はい」


「そうか」


「はい」


 台所の窓の外で、蝉が鳴いていた。夜になっても、この季節の蝉は鳴きやまない。俺はこの子の手を握ったまま、しばらく何も言えなかった。


「千夜」


「はい」


「俺も行く」


 千夜の指が、動いた。


「……いえ」


「行く」


「湊様が行かれる場所では」


「行く」


「三年間、一度も」


「三年間、一度も誘われなかっただけだ」


 千夜が顔を上げた。無表情だった。いつもの、何も動かない顔だった。その目だけが、ほんのわずかに揺れていた。


「……ご迷惑では」


「逆だ。千夜の迷惑なら行かない。迷惑か」


 長い沈黙があった。蝉の声が、二匹分増えた。


「……いえ」


「じゃあ行く」


「はい」


 千夜は、そう答えた。


 そして、俺の手をそっと外して、割れた茶碗の破片を再度、集めはじめた。破片を新聞紙に包む音が、台所に響いていた。


「湊様」


「なんだ」


「そのお茶碗、三年使いました」


「そうだな」


「明日、同じものを買ってきます」


「いいよ、別の柄で」


「同じものがいいです」


「なんで」


 千夜は、新聞紙を折りたたんだ。


「変わらないものが、ひとつでも多い方がいいので」

その声が、少しだけ揺れていた。


 俺はその意味に気づいていた。気づいていて、聞かなかった。

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