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十六話

 八月十二日は、雨だった。朝から降っていた。夏の雨で、気温は下がらない。湿気だけが増えて、廊下を歩くと足の裏が張りついた。


「湊様。八時です」


 起こされて目を開けると、千夜が立っていた。黒いワンピースだった。いつもの私服ではない。喪服だ。前に着ていたものをそのまま着ている。少し袖が短くなっていた。背が伸びたのだと思う。


 髪は、下ろしていた。


「……おはよ」


「おはようございます」


 布団に指はかからなかった。


「起きられますか」


「起きる」


「はい」


 その日、千夜は俺に何も着せなかった。制服も、ネクタイも、寝癖も、全部俺が自分でやった。台所に降りると、朝食はできていた。だがこの子は、隣に座らなかった。


 正面にも座らなかった。立ったまま、俺が食べ終わるのを待っていた。


「座れよ」


「はい」


座った。


 隣ではなく、椅子ひとつ分空けて。三年かけて縮まった距離が、元に戻っていた。


「傘、持ちます」


「二本あるだろ」


「はい」


「じゃあ一本ずつだ」


「……はい」


 玄関を出る時、千夜は俺の額に何もしなかった。祭りの夜から、ずっとだ。墓地は、隣の市にあった。電車で三十分、そこからバスで十五分。バスを降りると、坂の上に低い塀が続いていた。


 雨は弱くなっていた。傘に落ちる音が、時々途切れる。千夜は先に立って歩いた。道を覚えている歩き方だった。曲がる場所で迷わない。それはそうだ。三年間、この子は毎年ここに来ているのだから。


 でも、俺は、一度も来たことがなかった。


「湊様」


「なんだ」


「足元が悪いので、気をつけてください」


「千夜もな」


「私は慣れています」


 この子の慣れているという言葉が、俺は昔から嫌いだった。理由はうまく説明できない。でも、嫌いだという感情だけははっきりとしていた。


 墓石の列を三つ抜けて、四つ目の角を曲がったところで、千夜が足を止めた。


 柊家之墓。そう彫られた石が、雨に濡れて黒く光っていた。小さい墓だった。想像していたより、ずっと小さかった。


「……ここです」


「そうか」


 千夜は鞄からタオルを出した。それから、水の入ったペットボトルと、小さなブラシと、ゴミ袋を出した。


 全部、順番に並べた。そして、墓石を洗いはじめた。上から下へ。水をかけて、ブラシをかけて、タオルで拭く。その手つきは、俺の茶碗を洗ってきた手つきと同じだった。


 正確で、無駄がなくて、一切迷いがない。俺は少し離れたところに立って、それを見ていた。手伝おうかと言いかけて、やめた。


 これは、この子がこの子のためにやっていることだ。三年間、この子は毎年一人でここに立って、一人でこの石を洗ってきた。


 雨の日も、晴れの日も。誰も見ていない場所で、誰にも見せずに、同じ手つきで。俺の茶碗を洗う手つきと、まったく同じ手つきで。


 それを思うと、目の奥が痛くなった。三十分かかった。墓石は、来た時よりずっと白くなっていた。彫られた文字の溝まで、全部洗われていた。


千夜は花を活けた。白い花だった。名前は分からない。線香に火をつけて、束のまま供えた。煙が雨に押されて、低く這った。


 そして、千夜は膝をついた。濡れた石畳の上に、両膝をついた。手を合わせて、頭を下げた。長かった。

一分。二分。三分。


 俺は数えていた。数えるしかなかった。五分過ぎても、この子は動かなかった。雨が、また少し強くなった。千夜の傘は、地面に置かれたままだった。肩が濡れていく。喪服の色が、少しずつ濃くなっていく。


 俺は自分の傘を持って、この子の後ろに立った。差しかけた。千夜は動かなかった。気づいていないのか、気づいていて動けないのか、分からなかった。


 俺の腕が少し疲れてきた頃、千夜がようやく顔を上げた。


「……お待たせしました」


「いいよ」


「濡れます」


「濡れてない」


「湊様の肩が」


「千夜の方が濡れてる」


 千夜は自分の肩を見た。見て、それから、少しだけ首を傾げた。


「本当です」


「気づいてなかったのか」


「はい」


 立ち上がった時、この子はふらついた。俺は腕を掴んで支えた。


「……すみません」


「膝、痺れてるだろ」


「はい」


「それに寝不足だ。無理するな」


「はい」


 千夜は自分の傘を拾って、開いた。そして、墓石をもう一度見た。俺も見た。


 柊家之墓。その下に、小さな石があって、名前が刻まれていた。


 柊 誠一郎。柊 香澄。二人だ。


 千夜の両親だと、俺は知っている。三年前の夏、この二人が乗った車が、対向車線から出てきたトラックに正面から突っ込まれた。即死だったと聞いた。


 俺の親から聞いた。俺は当時、テレビの前に座っていて、その話を立ったまま聞いた。


「湊様」


「なんだ」


「ひとつだけ、聞いてください」


「聞く」


 千夜は、墓石を見たまま言った。


「あの日、私は熱を出していました」


 雨の音が、急に大きく聞こえた。


「三十八度ありました。だから、天羽さんのお宅に預けられました」


「……知ってる」


「はい。湊様も、覚えておられますね」


 覚えている。三年前の八月十二日。千夜がうちの客間で寝ていた。俺は氷枕を替えに行った。二回替えた。二回目の時、この子はもう眠っていた。


 その日の夕方に、電話が鳴った。


「本当は、三人で行くはずでした」


「……ああ」


「母方の祖父母の家です。毎年、お盆に行っていました」


「うん」


「私が熱を出さなければ、あの日は行かなかったかもしれません」


「……千夜」


「私が熱を出したから、二人だけで行きました」


「それは」


「私が熱を出さなければ、三人で行って、三人で死んでいたかもしれません」


俺は、言葉を止めた。千夜は、こちらを見なかった。墓石を見たまま、いつもの温度で続けた。


「どちらがよかったのか、私にはまだ分かりません」


 雨が傘を叩いている。


「三年考えましたが、分かりませんでした」


 俺は、この子の腕を掴んだ。さっき支えた時と同じ場所を、もう一度掴んだ。掴んでから、気づいた。


 三年間、俺はこの子に触られてばかりいた。起こされて、着せられて、食べさせられて、乾かされて、額にキスをされて。


 俺の方から触ったことは多分、両手で数えきれるほどしかない。


「分からなくていい」


「……はい」


「分かるようなことじゃない」


「はい」


「三人で死ぬのが正解なわけないだろ」


 千夜が、はじめてこちらを見た。


「……はい」


「今、ここで千夜が生きてるのは、間違いなく、正解だ」


 雨の音が、しばらく続いた。千夜は何も言わなかった。言わずに、傘の柄を握り直した。その手が、白くなるほど強く握られていた。


 帰りのバス停で、雨が本降りになった。屋根のある待合所に入って、俺たちは並んで座った。木のベンチが二つあるだけの、小さな待合所だった。時刻表を見ると、次のバスまで四十分ある。


 雨が、トタン屋根を叩いていた。


「……四十分か」


「はい」


「長いな」


「はい」


 千夜は膝の上で手を組んでいた。喪服の袖が、まだ濡れている。俺は自分のハンカチを出して、この子の肩に当てた。


「拭けばいち」


「……はい」


 受け取って、肩を拭いた。それから、袖を拭いた。拭き終わっても、ハンカチを返さなかった。握ったまま、膝の上に置いていた。


「湊様」


「なんだ」


「今日は、ありがとうございました」


「別に」


「三年間、一人で来ていました」


「知ってる」


「一人で来て、一人で洗って、一人で帰っていました」


「……ああ」


「今年は、二人でした」


 千夜は、ハンカチを握り直した。


「はじめてです」


 雨が、屋根を叩いている。道の向こうで、水たまりが広がっていく。


「千夜」


「はい」


「なんで、今まで誘わなかった」


「……誘えませんでした」


「なんで」


「使用人が、主に何かを頼むものではありませんので」


 俺は、そこで我慢の限界が来た。言わないでいるのが無理だった。


「その言い訳、あと何回聞かせるつもりだ」


 千夜の肩が動いた。


「三年だぞ」


「はい」


「三年、毎年一人でここに来て、一人で膝ついて、一人で帰ってたのか」


「はい」


「なんでだよ」


「頼めなかったからです」


「頼めよ」


「頼み方が、分かりません」


 その一言だった。俺は、悠真の言葉を思い出した。

してやる方はいくらでもできるけど、してくれって言えないタイプ。


「ああいうのはな、待っててもこっちに来ねえよ」


 それは正しかった。


 三年間、俺はずっと待っていた。この子が何か言い出すのを、待っていた。待っていれば、いつか言うと思っていた。


 言わなかった。言えなかったのだ。


「千夜」


「はい」


「今から練習しろ」


「……練習?」


「頼む練習だ」


 千夜が、初めて怪訝そうな顔をした。顔が動いた。今までに見せたことがない顔だった。


「今、何かしてほしいことあるだろ」


「ありません」


「あるだろ」


「ありません」


「じゃあ言い方変える」


 俺はベンチに座り直して、この子の方を向いた。


「今、何か言いたいことがあるだろ」


 千夜は、黙った。雨が屋根を叩いている。四十分のうち、多分、十分が過ぎた。


「……あります」


「言え」


「言えません」


「言え」


「言えません」


「なんでだ」


「言ったら」


 千夜の声が、そこで一度切れた。


「言ったら、全部壊れてしまいます」


 俺は、その言葉の意味を掴もうとした。掴めなかった。掴めないまま、この子の横顔を見ていた。雨の音の中で、千夜はハンカチを握っていた。


「じゃあ、別のことでいい」


「……別のこと」


「なんでもいい。今日一日で、ひとつだけ」


 千夜は、長いこと黙っていた。多分、五分くらい黙っていた。それから、小さな声で言った。


「……手を」


「なんだ」


「手を、握っていてもいいですか」


 俺は、何も言わずに手を出した。千夜が、その上に自分の手を重ねた。


 冷たかった。八月なのに。雨に打たれたせいだろうか。


 そして、次の言葉が来た。


「……久しぶりです」


「何が」


「本心からの頼みごとをしたのは」


 雨が、屋根を叩いていた。俺はこの子の手を握り返した。握り返して、はじめて気づいた。この手が、震えていた。


 三年前、この子はうちの玄関で膝をついて動かなくなった。


 その時と、同じ震え方だった。

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