十七話
柊千夜という子を、俺は幼稚園の頃から知っている。家が近所で、親同士が仲が良かった。休みのたびにどちらかの家に集まって、庭でバーベキューをして、子どもは俺とこの子だけだった。
小さい頃から、この子は顔があまり動かなかった。笑わない。泣かない。怒らない。嬉しい時も、悲しい時も、同じ顔をしている。
小学校に上がると、それが問題になった。
柊さんは冷たい。柊さんは何を考えてるか分からない。柊さんは怖い。
そういうことを言う子が出てきた。俺は、それがずっと不思議だった。
千夜は本当は分かりやすい子だからだ。三年生の遠足の日、バスの中でこの子は窓の外を見ていた。無表情だった。
だ、が俺には、この子が楽しみにしているのが分かった。膝の上で、指が動いていたからだ。
四年生の運動会で、この子はリレーの選手に選ばれなかった。無表情だった。でも、俺には、悔しがっているのが分かった。
体育座りの膝の抱え方が、いつもより固かったからだ。
ある日、教室で誰かが言った。
「柊って、感情ないよな」
俺は、思ったことをそのまま言った。
「あるよ。顔に出ないだけだ」
その子は笑って、「じゃあ今の柊の気持ち当ててみろよ」と言った。
俺は千夜を見た。千夜は、いつもの無表情で、自分の席に座っていた。俺は言った。
「今、けっこう傷ついてるぞ」
教室が、静かになった。千夜が、こっちを見た。
その日から、あの子は俺の隣に座るようになった。
俺が「ちー」と呼びはじめたのも、たぶんその頃だ。由来はない。千夜の「ち」を伸ばしただけだ。あの子は、その呼び方を訂正しなかった。
それから五年間、一度も訂正しなかった。
三年前の八月十二日、電話が鳴ったのは夕方の五時過ぎだった。俺はテレビの前にいた。高校野球をやっていた。どこの高校が出ていたかは、もう覚えていない。
母が電話を取って、二言くらい話して、それから受話器を落とした。床に落ちた受話器から、まだ声が聞こえていた。母が父に内容を伝えると、父が車の鍵を掴んで走り出して、母がその後を追った。
俺はその一部始終をずっと見ていた。玄関のドアは開いたまま、閉まらなかった。俺は、客間を見た。千夜が寝ていた。氷枕をして、口を少し開けて、眠っていた。三十八度あった。
その日の夜、俺は何度も客間を覗いた。覗くたびに、この子は眠っていた。
眠っていてくれ、と思った。起きてしまったら、俺が何か言わなければならなくなる。
俺に言えることが、ひとつもなかった。両親が帰ってきたのは、日付が変わってからだった。母が客間に入って、千夜を起こした。
俺は廊下にいた。障子越しに、母の声が聞こえた。言葉は、はっきりとは聞き取れなかった。聞き取れなくても、何を言っているのかは分かった。
千夜の声は、聞こえなかった。泣き声も、悲鳴も、何も聞こえなかった。しばらくして、母が出てきた。
母は泣いていた。俺は聞いた。
「ちーは?」
母は、首を振った。何も言わないの、と言った。通夜も、葬式も、千夜は一度も泣かなかった。黒い服を着て、背筋をまっすぐにして、来た人全員に頭を下げていた。
十四歳だった。大人たちが、口々に言っていた。しっかりした子だ。気丈な子だ。偉いね。
俺は、その言葉を聞くたびに、腹の底が冷たくなった。
違う。そうじゃない。この子は、顔に出ないだけだ。出ないだけで、多分、今、この場で一番、壊れかけている。
でもその時の俺には、それを大人に説明する言葉がなかった。説明しても、多分、誰も信じなかった。だから俺は、何も言わなかった。
千夜がうちに来て、四日目の夜のことだった。俺は水を飲みに一階に降りた。玄関の電気が点いていた。
千夜が、そこにいた。
靴も履かず、上がり框に手をついて、玄関のドアの方を向いて、動かずにいた。
「……ちー」
呼んだ。返事はなかった。俺は階段を降りて、この子の後ろに立った。
「何やってんだ」
「……帰ろうと思って」
小さな声だった。
「どこに」
「家に」
「家って」
「……分からない」
そこで、この子は黙った。分かっていたのだと思う。帰る家がもうないことは、四日間で嫌というほど分かっていたはずだ。
分かっていて、それでも玄関に座っていた。俺は、この子の隣に座った。三和土は冷たかった。八月なのに冷たかった覚えがある。
「ちー」
「……はい」
「泣いてないな」
千夜は答えなかった。
「四日、泣いてない」
「……うん」
「なんで」
「……分からない」
「泣きたくないのか」
「……分からないよ」
俺は、この子の顔を見た。無表情だった。いつもの、何も動かない顔だった。その顔を、俺はずっと、見てきた。
だから、分かった。
「泣いていいぞ」
千夜が、俺を見た。
「え」
「泣いていい。ここには俺しかいない」
「……でも」
「みんな、ちーのことしっかりした子だ、気丈だって言ってた」
「はい」
「あれは間違いだ」
千夜の目が、動いた。
「顔に出ないだけだ」
「……」
「ずっと、隣にいたから分かる」
千夜の口が、少し開いた。何か言おうとして、言えなかったみたいだった。
「泣けよ、ちー」
俺はとにかく言いたかった。泣きたい時に泣けばいいんだと。泣くことは正しいんだと、それを言いたかった。
その瞬間だった。この子の顔が、崩れた。崩れる、という言い方しかできない。一度も動かなかったものが、一気に崩れた。
「………っ、ぅ……ぁあ」
声が出た。言葉になっていない声だった。千夜は玄関の床に手をついて、そのまま体を折って、泣いた。
俺は、何もできなかった。背中に手を置くことしかできなかった。置いた手の下で、この子の背中が、ずっと震えていた。
どれくらい続いたのか、覚えていない。一時間か、二時間か。途中で母が降りてきて、俺を見て、何も言わずにまた上がっていった。
千夜が泣きやんだのは、外が少し明るくなってからだった。泣きやんで、俺の顔を見て、この子は言った。
はじめて、はっきりと。
「……ありがとう、湊くん」
それが、この子が俺を「湊くん」と呼んだ、最後だった。
半年後の二月、千夜は俺の両親の前に座った。俺も同席していた。何の話か知らされないまま呼ばれた。千夜は正座して、両手を膝に置いていた。
そして、こう言った。
「この家で、働かせてください」
母が「え」と言った。
「家事をします。全部やります。掃除も、洗濯も、料理も」
「千夜ちゃん、あなたはもううちの子よ」
「いえ」
「事故のことなら、あなたは何も」
「そうではありません」
千夜は、両手を床についた。そして、頭を下げた。
床に額がつくほど、深く。
「置いていただく理由を、ください」
母が言葉に詰まった。父も何も言わなかった。俺も、何も言えなかった。千夜は、頭を下げたまま続けた。
「理由がないと、私はここにいられません」
「いられるわよ」
「いられません」
「なんで」
「気持ちは、変わるからです」
俺は、その言葉を、今でも覚えている。十四歳の子が言った言葉だ。
「今は皆さん、私を置いてくださいます。優しいからです。かわいそうだからです」
「千夜ちゃん」
「でも、優しさは変わります。かわいそうも、いつか終わります」
母が泣きはじめた。
「私は、ずっと変わらないものが欲しいのです」
その日、両親は折れた。正確には、折れたのではなく、どうしていいか分からなくなったのだと思う。半年で、母は千夜の頑固さを完全に理解していた。
父が言った。
「じゃあ、給料を払う。ちゃんとした仕事にする」
千夜は、首を振った。
「いりません」
「もらいなさい」
「いりません」
「なぜ」
「お金をいただくと、いつでも辞められてしまうので」
俺は、その時、何かを言うべきだった。言わなければならなかった。三年経った今なら分かる。
あの日、あの瞬間に俺が「やめろ」と言えば、多分、止まった。十四歳のこの子は、まだ引き返せた。
でも、俺は、何も言わなかった。言えなかった。この子が泣きやんだ夜のことを覚えていたから。だから、この子が自分で選んだものを、否定するのが怖くなってしまったのだ。
三年前の二月から、柊千夜は俺のメイドになった。
そして、呼び方が変わった。「湊くん」が「湊様」に。
そしてその日から、この子は一度も泣いていない。きっと、泣くことを忘れてしまった。




