十八話
バスは、まだ来なかった。時刻表を見ると、あと二十分あった。雨は変わらず降っていて、トタン屋根の音だけがずっと続いている。
千夜の手は、まだ俺の手の上にあった。冷たいままだ。
「千夜」
「はい」
「ひとつ聞いていいか」
「はい」
「恩返しって、何だ」
千夜の指が、わずかに動いた。
「……三年前、そう言っただろ。恩返しがしたいって」
「言いました」
「あれ、本当か」
雨の音がした。道の向こうで、車が一台通り過ぎた。水を跳ね上げる音が、遅れて届いた。
「……嘘です」
俺は、息を止めた。千夜は、こちらを見なかった。前を向いたまま、いつもの温度で続けた。
「正確には、半分本当で、半分嘘です」
「どっちだ」
「恩は、感じています。それは本当です」
「うん」
「でも、返したくてメイドになったのではありません」
「……じゃあ、なんでだ」
千夜は、しばらく黙っていた。握った手に、少しだけ力がこもった。
「あの夜、湊様が私を泣かせてくださいました」
「……四日目のやつか」
「はい」
「覚えてる」
「私も覚えています。一秒残らず」
千夜は、そこで一度、息を吸った。
「あの夜、私は全部出しました」
「うん」
「泣いて、泣いて、朝まで泣いて、それで、空になりました」
雨が、屋根を叩いていた。
「空になった時、私は思ったのです」
「何を」
「これで、私は何もなくなった、と」
俺は、この子の横顔を見た。無表情だった。その無表情のまま、この子は自分の中身の話をしていた。
「家族がいなくなって、家がなくなって、泣くものまで出し切って、私には何も残りませんでした」
「……」
「空っぽのままだと、壊れます」
「壊れるのか」
「はい。中身がないので、形を保てません」
千夜は、自分の膝を見た。
「だから、形が欲しかったのです」
「形」
「はい。私が何者であるかを、外から決めてくれるものです」
雨の音の中で、その言葉だけが妙にはっきり聞こえた。
「メイドというのは、形です」
「……」
「朝五時に起きて、朝食を作って、湊様を起こして、制服を着せて、お弁当を持たせて、見送る。それが私です」
千夜は、そこで少しだけ顔を上げた。
「その形がある限り、私は壊れません」
俺は、何も言えなかった。三年間、俺はこの子の献身を、優しさだと思っていた。恩返しでそういう役割を演じているのだと。
でも、違った。これは、生存の手段だ。
この子は三年間、自分が壊れないために、俺の靴下を履かせていた。
「湊様」
「……なんだ」
「怒りますか」
「怒らない」
「隠しごとをしていました」
「怒らない」
「三年間です」
「怒らないって言ってるだろ」
俺は、この子の手を握り直した。少しだけ強く。
「ただ」
「はい」
「ひとつだけ、言わせてくれ」
「はい」
「形なんか、なくても壊れない」
千夜が、こちらを見た。
「壊れます」
「壊れない」
「壊れます」
「壊れないよ。気持ちは変わらない」
千夜の目が、揺れた。たしかに揺れた。そして、この子は、はじめて俺から目をそらした。
「……それは」
「なんだよ」
「それは、変わるものです」
雨が、強くなった。俺は、その言葉に返す言葉を持っていなかった。変わらない、と言うのは簡単だ。だがこの子は、変わらないと思っていたものが全部消えるのを、十四歳で見ている。
言葉では、きっと届かない。バスが来た。坂の下から、ヘッドライトが二つ、雨の中に浮かんだ。
千夜が立ち上がった。俺は手をそっと離した。
「参りましょう」
「……ああ」
バスに乗って、一番後ろの席に並んで座った。窓の外を、雨に濡れた景色が流れていった。千夜は、ずっと外を見ていた。その手は、もう俺の手を握っていなかった。
家に着いたのは、六時過ぎだった。雨は上がっていた。上がったかわりに、湿気だけが残って、玄関を開けると熱がこもっていた。
「おかえりなさいませ、湊様」
千夜が、いつも通り頭を下げた。喪服のまま、いつも通りの角度で。俺は、その頭を見ていた。
「……着替えていい」
「はい」
「飯は俺が作る」
「いえ」
「作る」
「湊様は、卵が割れません」
「割れる。今日は割れる気がする」
「根拠がありません」
「根拠はいらない。気合いだ」
結局、千夜が作った。いつも通りの夕食が出てきた。焼き魚と、味噌汁と、煮物と、ほうれん草の胡麻和え。
今日は、塩辛くなかった。
「うまい」
「はい」
「もう一回言う。うまい」
「……一回で十分です」
いつものやりとりだった。でも、言葉の立場だけ逆転していた。
食べ終わって、風呂に入って、上がってきた。リビングの照明は、一段落とされていた。
「湊様。座ってください」
クッションを指さされる。温風。指が髪をかき分ける。いつも通りだ。
「気持ちいいですか」
「まあ」
「よかったです」
ドライヤーが止まった。
「膝、貸します」
「今日はいい」
「……いけませんか」
「そうじゃない」
俺は振り返って、この子の方を向いた。床に座ったまま、正面から。千夜は、まだドライヤーを持っていた。髪は、下ろしたままだ。
「千夜」
「はい」
「今日、頼み方の練習したよな」
「……しました」
「もう一回やろう」
「今日は、もう」
「一回でいい」
千夜は、ドライヤーを床に置いた。置いて、膝の上で手を組んだ。
「……何を、頼めばいいですか」
「なんでもいい」
「思いつきません」
「じゃあ、俺から言う」
俺は、この子の目を見た。三年間、見てきた目だ。いや、見てきたようで本当は見れていなかった。見ると、いろいろ分かってしまうから、避けていた。
「泣いていいぞ」
千夜の肩が、跳ねた。はっきりと、跳ねた。
「……何を」
「三年前に言っただろ」
「……」
「あの時と同じだ。ここには俺しかいない」
千夜は、首を振った。
「泣きません」
「泣けよ」
「泣き方を、忘れました」
「忘れてない」
「忘れました」
「思い出せ」
「……無理です」
千夜の声が、少しだけ高くなった。三年間、この子の声が上がったのを、俺ははじめて聞いた。
「無理です。泣いたら、また空っぽになります」
「なればいい」
「なりません!」
千夜が、大きな声を出して、俺を見た。無表情が、崩れかけていた。崩れかけて、それを必死で押さえている顔だった。
「空になったら、私は形が必要になります。あの時と同じです」
「うん」
「今度は、何の形になればいいのですか」
その問いに、俺は答えを持っていた。三年間、ずっと持っていた。言えなかっただけだ。言えば、この子から役割を奪ってしまうと思っていた。
でも、今日、この子は自分でその形の中身を明かした。だから、もうその役割は必要がないものだと分かってしまった。
「千夜」
「……はい」
「形なんかいらない」
「いります」
「いらない」
「湊様は、いつもそう——」
「ちー」
千夜の呼吸が、止まった。三年ぶりだった。この子の顔から、表情という表情が消えた。無表情ではなく、空白だった。
「……今」
「ちー」
「やめてください」
「ちー」
「やめて!」
「泣いていいぞ、ちー」
その瞬間だった。三年前と、まったく同じだった。崩れる、という言い方しかできない。千夜の顔が、一気に壊れた。
声が出た。言葉になっていない声だった。
千夜は床に手をついて、そのまま体を折った。俺は、この子の背中に手を置いた。置いた手の下で、背中が震えていた。三年前と、同じ震え方だった。
「……っ、う、」
「うん」
「……わたし、」
「うん」
「わたし、ずっと」
言葉にならなかった。俺は、この子を引き寄せた。抵抗はなかった。千夜は俺の肩に顔を埋めて、そのまま泣いた。
三年分だった。三年間、一度も出さなかったものが、全部出ていた。
俺は何も言わなかった。言うことは、もうなかった。背中に手を置いて、ただ待った。どれくらい続いたのか、覚えていない。
一時間か、二時間か。
窓の外で、雨上がりの虫が鳴きはじめていた。泣きやんだあと、千夜はしばらく動かなかった。
俺の肩に顔を預けたまま、呼吸だけを整えていた。
リビングの照明は落としたままで、窓の外は完全に暗くなっていた。虫の声が、雨上がりの庭から入ってくる。
「……湊様」
「なんだ」
「見苦しいところを、お見せしました」
「見てない」
「見ておられました」
「見てない」
千夜が、少しだけ体を離した。目が赤かった。三年ぶりに見た。
「……顔を、洗ってきます」
「まだいい」
「ですが」
「まだいい」
俺は、この子の手首を掴んで、再び抱き寄せた。抱き寄せたまま、離さなかった。
千夜は、抵抗しなかった。床に座り直して、俺の正面で膝を揃えて、体を預けた。まだ喪服の下に着ていた黒いワンピースのままだった。髪は下ろしたままで、目元だけが濡れていた。
「湊様」
「なんだ」
「先ほどの呼び方は」
「ちー、か」
千夜の肩が、少し動いた。
「……はい」
「まずかったか」
「まずいです」
「なんでだ」
「あれは、湊くんの呼び方ですので」
俺は、その言い方に引っかかった。
「湊くん、って」
「三年前まで、私がそう呼んでいた人です」
千夜は、膝の上で手を組んだ。
「今の私は、湊様のメイドです。ですから、ちー、ではありません」
「俺も千夜も変わってない。同じ人間だろ」
「違います」
「違わない」
「違うことにしないと、私が持ちません」
俺は、そこで黙った。この子は、自分を二つに割っている。三年前で切って、前と後ろを別人にしている。そうしないと、あの夜からこっちに来られなかったのだと思う。
「千夜」
「はい」
俺は、息を吸った。三年間、何度もここまで来た。
廊下で。膝の上で。川原で。そのたびに、言えなかった。だが今日は、この子が全部見せた。嘘も、形も、空になった器の話も、三年分の涙も。こちらだけ隠しているのは、フェアじゃない。
「聞いてくれ」
「はい」
「俺は」
その時、テーブルの上でスマホが震えた。音は消してある。だが、暗い部屋で画面が光った。千夜の視線が、そちらに動いた。
俺は無視しようとした。
「湊様」
「あとでいい」
「お出になってください」
「あとでいいって言ってるだろ」
「鷹司様です」
俺は、動きを止めた。
「……なんで分かる」
千夜は、こちらを見なかった。画面の光を見ていた。
「着信音を、変えましたので」
「……は?」
「鷹司様からのお電話だけ、別の音にしました。先月です」
震え続けるスマホの光が、この子の頬を照らしていた。
「音は消してあるだろ」
「振動のパターンも変えました」
俺は、言葉を失った。この子は、俺のスマホの設定まで変えている。麗華からの連絡を、他の誰よりも早く俺に知らせるために。
先月から、あの祭りの前から。
「……千夜」
「お出になってください」
「出ない」
「出てください」
「出ない!」
声が出た。千夜は、動じなかった。床に手をついて、姿勢を正した。さっきまで俺の肩で泣いていた人間が、十秒で元に戻っていた。
その速さが、恐ろしかった。
「湊様」
「……なんだよ」
「私は、大丈夫です」
「大丈夫って何がだ」
「先ほどのことは、忘れてください」
スマホの震動が、止まった。部屋が、急に静かになった。
「忘れられるか」
「忘れてください」
「無理だ」
千夜は、深く頭を下げた。
「お願いします」
俺は、その頭を見ていた。三年間、何百回と見てきた角度だった。今日ほど、それが遠く見えたことはなかった。




